2話
「馬鹿野郎!身分証を捨てる奴があるか!」
縁から黒く焦げ始めていた証明書が髭を黒々とたくわえた男の手に渡り、燻りを沈めるためか壁に押さえつけられる。熱が冷めたのを確認したのか、表面を軽くはたいてこちらに突き出された。焼けた匂いが鼻につく。
「それがなきゃこの街を出るどころか不法滞在で捕まっちまうぞ」
言われるまでもないのは分かってるけどよ、と続く言葉をふてくされながら聞く。そんなこと百も承知だ。だからこそだ。持っていれば海でも山でも行けるだろうが、今はどこか目立たないところでジッと膝を抱えていたい。それに、これを見ていると今日のことを思い出して仕方がない。
下を向いて呆けたままのフォスを見て、何か思うところがあったのか、男は元来た裏口から店に引きずり込んでいった。2人の足音が消えた路地裏では、餌を漁りに来たネズミらが側溝から建物の隙間からと這い出し、宴会が催す音が響いていた。
されるがままに椅子に座らされたフォスは落ち着かない様子で店内を見渡していた。歪な鳥が彫られた振り子時計の針は夜の十一時を少し過ぎた頃を指しており、かき入れ時に来た客も全員腰を上げたのか静まりかえっている。ほとんどの席には料理のなくなった皿や空いたグラスが積まれており、表へと続く扉には鍵がかけられ、片付けに入っていたことがうかがえた。
目の前にドンと、中身が半分減った状態の酒瓶が置かれ、それを挟んで正面に男が座った。
「お前のじゃねぇからな、こいつは俺んだ」
コルクを指で外し、そのままグイッとあおる男。その喉が鳴る度に砂時計よろしく酒が胃に流れていくのをフォスは黙ってみていた。再び勢いよくボトルがテーブルを叩く。ラベルの少し下ぐらいだった嵩は大きく減っていた。
「どこの出だ、フォス。あぁ、名乗ってなかったな俺はルドワだ。見ての通りこの店を仕切ってる」
名前を覗かれていたようだ。それでいて故郷についても言及してくる。そんなものを知って何になるというのか。いや、そもそも自分が大人しく話を聞く義理なんてない。出て行こう。
「茶色の細い眉にシュッとした顎、ちょっとだけ下に長い耳。その顔立ちからして大方、ブルクの出だろ。木と畑、それと牧場ばかりだよなあそこは」
口まわりを袖で拭いながらルドワはそうつぶやく。ゲップを合間に、一回だけ行ったが平和そのもので良いとこだと付け加える。立ち上がったフォスの背中が固まった。図星だった。
「ちんけな悪党ぐらいはいるかもしれんが、魔物なんかとは無縁の場所だ。冒険者なんかになろうってやつはそうそういない。長いことここにいるが、実際会うのはお前が初めてだ」
酔いが回ってきたのかルドワはますます饒舌になっていく。
「カブの収穫や牛の乳搾りを嫌った理由は何だ?たまに仕入れてるが、なかなかどうして旨いし人気だ。あれを人の口に運べるなら多少土臭い人生も悪くないと思うがな」
「親にも相当反対されたんだろ。おい、だんまりなら酔っ払いは機嫌良く話し続けるぞ」
厨房から重たそうな缶をもってきたルドワ。皿一面にナッツを敷き詰めるとまた話し出す。
「当ててやろうか、幼心を駆り立てたものを。こんなオッサンからしたら雲の上の存在だ。会ったことなんてないが、ブルクといったら凄腕が居たよな。二つ名は・・そうだ、串刺しバロン。聖騎士たちも手を焼いていた強力な魔物のつがいの頭を、背丈よりもデカい槍で一突き!」
読んでたときスカッとしたなぁ、と酔っ払いはまたボトルを傾けた。
「物干し竿でマネしてたら母親にめちゃくちゃ怒られたよ、お前もそのクチだろ。まぁその体格じゃ槍なんか持てなくて弓にしたんだろうが」
目の前の男が上機嫌で笑いだす。もう我慢できなかった。鏡がなくとも分かるぐらい、怒りと羞恥で顔は真っ赤だった。何から何まで図星だった。鋤を持ち上げようとして転んだことなんて忘れたくてしょうがなかったのに。
「やめてください!」
手をついた衝撃で、皿から数粒の豆が飛び出した。それを拾い上げながらルドワは悪い悪いと、黒々とした髪をかきあげる。
「励ましてやりたかったんだよ。何があったのか知らんが、その年で目に魚を飼うのはよくないぞ」
急に真面目な顔をして、人生の先駆者相応の振る舞うルドワ。ムキになっていた自分が子供らしくて本当に馬鹿みたいだ。
「話したくなんかありません」
「俺だって聞きたくねぇよ、わざわざ人の思春期を振り返りたいなんて思うか。自分ので十分だよ。あぁ、俺の失敗談に付き合ってくれるなら付き合ってやってもいいぞ」
散々こっちの傷を抉っておいてこの態度。何がしたいんだ。
「聞きたくもありません」
「口も耳も駄目、じゃあ見るのは?」
この期に及んで冗談で返したルドワに、思うのもはばかられるような罵倒をつい、ぶつけてしまう。口を塞いだが覆水盆に返らず。流石に今のは駄目だ、人として。指からつまみが落とし、唖然とする大の大人。
「言い過ぎました、すいません」
飛んでくるであろう罵声か拳に身構えたが、ルドワは手を叩いて笑い出した。
「傑作だよ。その顔からじゃ想像もつかなかった、毒づいてる時の方が元気そうだ。どこでそんな言葉を覚えたんだか」
片手で力強く頭を揺さぶられる。物語でよくある、子供を褒める親のそれだ。離してくださいとその手を押しのけ、出て行こうとしたが、空腹に耐えかね胃液が暴れ出した腹が声を上げた。確かに半日何も口にしていなかったが、タイミングが悪いにも程がある。
「余り物でよかったら食わせてやるよ、金はいらん」
ルドワがニヤニヤしながらまた厨房に消える。しばらくすると香草の匂いを漂わせた深めの皿とスプーンを手に戻ってきた。目の前に差し出された、大雑把に切られた野菜が沈むスープは食べ応えがありそうだ。唾液が広がる。この際、食べてしまってもいいだろう。男の顔にも遠慮するなと書いてある。
スプーンを手に取ってからは早かった。最初の数口は上品ぶって掬っていたが、皿を持ち上げると流し込むようにしてフォスは平らげた。
「じゃあ、これで。食事はありがとうございました」
「待て待て、どこに泊まる気だよ。今から探したんじゃ道端でうずくまらなきゃならないぞ」
「そこのソファーをくっつければ寝れるし、毛布もある。ここに泊まっていけ」
あまり構わないでくれいう本音を前面に押し出してフォスは対抗するが、何だかんだと言いくるめられて肘掛けを枕に、寝ることになった。倉庫兼住居となっている二階に、ルドワが欠伸をしながら上がっていくと、店の照明は落とされて外と同じ暗闇がおりた。
店の金や物を持って出ていくなどとは思っていないのだろうか。もちろんそんな悪事をはたらくつもりはないが。それを見越していてもおかしくない。とにかく、もう疲れた。色々と。
眠れない夜を案じていたフォスだったが、心身に溜まった疲労は仰向けになった彼をすぐに現実から連れ去った。日常だった就寝前の仲間との談笑も、枕元に置かれた余計なもので膨れた荷物も、昨日まではあったそれらは何一つとして1人寝息を立てる彼の元にはない。木製の天井のそのまた向こうで変わずそこに在る星の輝きが、夜空を切り取った窓から彼が人知れず流して乾いた思いの跡を照らしていた。