1話
石畳の道に沿って並ぶ家々に明かりが灯り、雲がまばらに浮かぶ空では星が輝き始めた。子と手を繋いで歩く親子、戦果を分かち合う冒険者達を誘う呼び子。喧噪の中ですれ違う人々の足は歩幅も目的地も違えど、どこかへと向かっている。輝きを増す街の中で。だからこそ、そこに馴染めずに壁にもたれる青年の顔に落ちる影は濃く、重かった。
「悪い、待たせたな」
隣で爪と髪をしきりに弄っていた女が顔を上げ、自らを呼ぶ低い声に微笑みながら手振りで応えた。踊るその背中を送る間にも、周りの待ち人達は消えていく。振り返ることも戻ることもなく。その度に胸が沈み、それを出さないように繕った表情が固まる。待ち合わせ場所の所以と言われる剣士の像を眺めていると、その下で本に目を落としていた錬金術師らしい初老の男と目が合ったような気がした。それを誤魔化すように見上げた先に広がる空は故郷よりも狭くて暗い。僅かに赤みを帯びた一番星だけが目立っている。他の光をぼやかして。それに気づいて自分が抱える惨めさが当然のものであると気づいた。
田舎では鈍いものだって美しく見える。そして自分が照らされていて、祝福されているような思いに溢れ、表紙が擦り切れるほど読み返した英雄譚と同じように、いつか自分が語られる者になれると夢を見る。幼い日の自分もそうであったように。だが、現実は違った。歩くだけで異性が惹かれる優れた容姿や、魔族に抗いえる魔法や剣の才等々。それらを授けられた真なる英雄達が集う場所では、憧れは飛ぶ羽ではなく重りだ。「平均」にすら達しない者は、煌びやかなこの場所において、存在することすら叶わない。こうして人に紛れて、自らを恥じているのがお似合いなのだろう。
いつの間にか数えるに片手で事足りるほど人が減った広場を、いたたまれなくなった様子のフォスはフードをより深く被って早足で後にする。この街、ニカが川を2本通すくらいには規模が大きいとは言え、夜が深まれば静寂に満たされる。その中でほっつき歩くとしたら薄汚い野党か饐えた匂いを放つ乞食ぐらいのもの。いずれにせよ、まともな目では見てもらえない連中だ。それだけは嫌だと言わんばかりに、彼の目は宿屋の看板を探す。しかし、中心部に近いそこに立ち並ぶのは安い寝床ではない。フォスの軽い財布では玄関にすら泊めてもらえないだろう。結局、街中をかけずり回ってたどりついたのは、留め具が外れてぶら下がるような形で表に名を出しているようなボロ屋だった。
かすれた文字を読み取って、持っている貨幣の数と照らし合わせる。料金は珍しいことに、部屋数ではなく人数に比例して高くなっている。一人で素泊まりをすれば数日泊まってもある程度金を残せそうだ。ここに泊まろう。板と釘で雑に補強された扉を押し開き、入り口を跨ぐ。案の定だが内装はひどいもので、天井の四隅には古い蜘蛛の巣が垂れ幕のように風で揺れている。軋む床の先にある受付には煙草を吹かした強面の男が座っていた。こちらを睨むような視線が恐ろしいがあれが店主だろう。意を決して話しかける。
「一晩、宿を借りたい」
部屋の一覧表か何かに目を通す店主。そして羽の縮まったペンを手に取る。見た目通りのドスの利いた声で確認をとる。
「お前一人だな?一部屋空いてる。食事が付けられるがどうする」
い、いりませんと、声を震わせながら返すフォス。彼の手に名前の連なった羊皮紙が渡される。空欄に記名するよう顎で促され、ペンをとったとき、立て付けの悪い音が後ろで鳴って、夜風とともに三人組の冒険者が入ってくる。途端に店主はフォスの手から紙を奪い、一対の短剣を背負ったリーダー格の剣士と先ほどのやり取りを繰り返した。三人の名前が記されたとき、店主はフォスを追い払うように手を振った。
ここの価格設定で泊めるなら一人より三人だ。商売なら仕方がない。そう自分を慰めながら宿から出て行く。ふと振り返ると、階段を上がっていく三人組の最後尾となっていた魔術師らしい装いの女から視線が注がれていた。そこにこもっていたのは申し訳なさと、哀れみ。
既視感を感じた彼はたまらず、逃げるように駆けだした。頭の中で渦巻いていたのは、夕暮れの朱色とともに告げられた別れの言葉だった。
「フォス、パーティーを抜けてくれないか」
草むらに座って弓の手入れをしていた手が止まる。疑うように見上げたバリーの顔は真剣そのものだった。突然のことで受け入れられず、助けを求めるように見渡すと他の面々も作業をやめ、ついにきたか、というように俯いていた。以前から決まっていたことなのだろう。
「・・・わけを聞かせてくれないか」
恐る恐る尋ねた。討伐依頼を達成したときの興奮はすっかり冷めている。言いずらそうに、バリーが口を開く。
「冒険者なら名を上げたい、君だってそうだろ。そのためには実績を作らなきゃならない。でも今のままじゃいつまで経ってもそうはなれない」
「みんなで話し合ったんだ、もっと見入りのいい依頼を受けようって。つまり、もっと危険なやつを。今日みたいな畑を荒らす怪鳥を駆除するようなやつじゃない」
もっと分かりやすく言ってくれ、絞り出した自分の声は今にも消え入りそうだった。語っていた男の顔が一層険しくなる。それはギルドの紹介で出会ったときの、長剣に振り回されていた一冒険者のものではなく、仲間の命を預かるリーダーのものだった。
「今の俺たちじゃ、君を守って戦うことは難しいんだ」
普段の粗暴な発言からは想像もつかないほど、こちらを傷つけないように言葉を選んでくれている。いつもみたいに冗談だと笑って撤回して欲しかったが、長い付き合いだ。そんな様子ではないことぐらい分かる。現に瞳を逸らさずに彼は返答を待っていた。他のみんなも固唾を呑んで話の行く末を見守っている。
物事の選択肢は既にフォスの手になかった。
「今までありがとう、分かったよ」
作り笑いを添えて、承諾する。バリーの太い腕が背中に回り、強く抱きしめてくる。すまない、すまないと、見えないが頬を涙が伝っているのだろう。
「いいよ、それより早く帰ろう。日が暮れるよ」
それを最後に会話は途切れた。真っ白になった頭で辿る帰り道。疲労や怪我に苛まれながらも喜び合って何度か踏みしめた街道は、短くも長くも感じられた。あれもいつからか偽りのものになっていたのだろうか。気づけばギルドの受付で報告書と引き換えに、バリーが報酬を受け取るところだった。ジャラジャラと音を立てる袋が投げ渡され、慌ててキャッチする。
「手切れ金みたいになって悪いけど、今後の足しにしてくれよ。少ないかもしれないけどさ」
いつも通り山分けにしようと提案したが、誰もが断固として拒んだ。仕方なく手に提げる。4対1で向かい合ったまま、話を切り出せずにいる彼らの代わりに適当な話題を出す。
「新しいメンバーはもう見つけてるのか?」
「ベスってやつ覚えてるか?あの長弓を見せびらかしてたやつだよ」
数日前の記憶を引っ張り出す。やたら古くさい帽子を頭に乗せていた長身の男の名前だっただろうか。そういえば話が弾んでいたような気がする。
「俺は1人が好きなんだーとかほざいてたけど、すぐに折れたよ」
含み笑いで相変わらず口説き上手だなと格闘家のエマを見やる。彼女は赤らみを隠すように一歩後ろに下がった。笑い声が上がる。それが収まると、雰囲気は決別のものになった。
「じゃあ、元気でな。つっても今日すぐにここを離れるわけじゃないけど」
大口叩いときながら恥ずかしいよな、と頭を掻くバリーの横から、パーティーでは年長である神官のジョイスが手袋を外して握手を求めてくる。
「フォス、あなたのこれからに祝福があらんことを」
それに倣ってみな思い思いの一言を、時間を共有してきた仲間と交わす。そして、背中を向けてギルドの施設を手を振りながら去って行く。そして最後に小柄な魔術師のリィを見送るフォスだったが、彼女はもう一度、大人しげな顔を彼に向けた。瞳は淡く、何かを伝えようと薄い桃色の唇が波立っていたが、割り込むように建物を訪れた鎧たちの足音に、それは踏み潰された。走り出すリィを追いかけようとする己の脚を残された青年は必死に押さえていた。
あのとき彼女は何と言っていたのだろうか。いや、言いたいことがあった僕は一体どんな言葉なら聞き溢さなかったのだろうか。
浮かんだ疑問に、回想から抜け出したフォスを衝撃が襲う。勢いそのまま、地面に倒れ込んだ彼は額から血を垂らしていた。
打った箇所をさすりながらここが何処なのかを確認する。ほどなく無我夢中の先は腐臭を放つゴミ箱が転がる月も望めないような路地裏であったことを悟った。
孤独を恐れていた彼だったが、本音を吐き出せたのは皮肉にも1人になった今このときだった。背負っていた矢箱と弓を怒りに任せて叩きつける。
いっそお前は役立たずだと直球で伝えて欲しかった。気を遣わずに。そうしたら立ち直りも早かったかもしれなかったのに。形を持たない感情が喉を遡って熱になっていくのが分かる。全てを言い表せたなら、少しは気が晴れるだろうか。できなくて物に当たっているのだが。バリー達が悪いわけでもないのに、そちらを責めようとする自分にも嫌気がさす。胸の内が罵詈雑言となって爆発する前に発散したい。懐をまさぐると、冒険者を証明する紙切れが指に触れた。人に見せても恥ずかしくないようにと丁寧に刻んだ名が憎たらしい。こんなものなんて。
後先考えずに、扉の横で燃えている松明へとそれをかざすフォス。思いのほか火が回らないそれを、もっと火元へ近づけようと伸ばした手を、ヌッと現われた毛むくじゃらの手が引いた。