かがり火
静かに受話器が置かれた。
背後でけだるそうな寝返りを打つ衣擦れの音。
まだ、快楽の余韻を楽しむほてった息が残っていた。
今日のところはここまで。そうひとりごつと、静かに寝床に近づいた。
相手の女は長いブルーネットの髪をしとどシーツの上に散らせながら、背を向けている。
その脇の大き目の枕を左手にとり、そして、ふいに女の顔の上にかぶせた。
唐突のことに裸の手足がばたつき、背筋が湾曲して跳ね除けようとする。
右手には黒光る鉄のかたまり。それを枕の上から力づくで押し付け、引き金を引いた。2度引いた。
枕がおとなしくなり、白い手足がだらりと伸びた。その陰のシーツに赤いしみが徐々に広がりだした。
王都駐在帝国全権大使は温厚篤実な性格で、誰からも好かれた。だが、その日、そのときはいささかいつもと違うとっつき悪さを周囲の誰もが覚えたであろう。
王国外務省に呼ばれるのは実はそう珍しいことではない。しかし、このとき外務大臣から瀟洒な応接室で切り出された話には、彼ならずとも顔をしかめたことだろう。
帝國と王国の間の交通はこの近年、以前以上にさかんになってきている。陸路、海路、そして最近はやりの空路もますます頻繁になり、旅客人数、輸出入物量ともに増加の一途である。これはひとえに現女王が帝國よりお輿入れして以来の友好関係の賜物である。
当然友好国として、煩雑な出入国手続きは簡素化すべき、となり、現行では空と海はともかく、陸路、特に鉄道においてはかつてのような国境検問用の停車場で何時間も検問に時間を費やすことはなくなっていた。それぞれの国土の最終駅で係官が簡単に旅券や通行許可証をチェックする程度。両国間を行き来する国際急行列車はそれがためにますます短時間の運行が可能になって大繁盛であった。
ところがこの日、王国外務省は従来ほとんど放置状態の国境検問用停車場を再稼動させ、検問強化を行うことを特命全権大使閣下を通じて帝國外相閣下に伝える栄を有するものである、と言うのである。
「なぜかって?そりゃ、治安上の問題で押し切られたさ。」
大使は憮然として大使館地下の電信室へ降りていき、本国外相宛暗号電文作成を指示した。
帝國大学同期ながら彼とは正反対の瞬間湯沸しな外相の反応を思うと気が重い。
3週間後、両国の国境地帯の共同管理地域。王国側から入ってきた線路は一回大きく蛇行し、各々の国境線とは45度の角度で列車が止まるように設営された露天の停車場に急行列車を導いた。
双方からは重機関銃の射程内にぴったり納まる場所。各々、警備兵は古い慣例に従い、蛍光塗料を塗布した曳光弾を装填している。王国軍は赤、帝國軍は青。
蒸気を吐き続ける機関車を横目にバス型の車両。王国軍国境警備隊の灰緑色のその車から20人ほどの人影が降り、先頭車両から乗り込んでいく。
その丁度同じとき、線路をはさんで反対側にも最後部車両の脇に同じ車両から同じように兵員が後尾から乗り込む。
帝國側監視ポストからは高倍率の望遠鏡で監視を続けている。銃座、砲座には全員がついている。だが、それほどの緊張感はない。レンズを覗き込む若い将校を除いて。
暗緑色の制服に包まれた王国軍指揮官はまず後尾一等車のコンパートメントに入り、個室をひとつずつノックして開けさせ、旅券、通行許可証の提示を丁重に求めていく。別の部下たちは食堂車まで進み、ここでは厳かに宣して提示を丁度テーブルについている乗客たちに求めた。
機関車の直後から始まる二等、三等車では少し雰囲気が異なった。
ごった返した客車の中を無表情な警備兵が進み、提示を求めた書類と持ち主の風体を相互に睨め回した。
たまに険しい表情と高圧的な音声が響く。
一方一等車の個室もあと二つというところで、指揮官の女性士官は乗客に微笑みかけた。
「兄妹で旅行?たのしみね。」
「叔父があちらで店を持っていますので、頼ろうと思ってます。」
10代半ばながらしっかりした物腰の少年は答えた。少しウエーブのかかった柔らかそうな髪を少し長めにしている。
「そう、道中気をつけてね。」
向かい合わせに座る妹を見る。少し硬い表情ながらブルーネットのお下げ髪に萌黄色のワンピース。
特に問題はない。
この歳の子供だけで長旅をさせるというのもいかがかと思うが、親によっては自立心涵養と称して一人旅をさせる家庭も多い。中流の上以上の家では流行とも聞く。
2等車を検査した班は三等車に移った。
率いた軍曹は顔をしかめた。えらい臭気である。
二等よりも狭い堅い座席にぎっしりと座った乗客たちは、おしなべて全員貧しい。
ほとんどが国境地帯の出身者で、地方政府により発行された通行証しかもたない。
国境をはさんだ二つの町の間を行き来するのみで、両国の合意によって安い運賃を享受している。
兵は粗末な綿入れ状の上着をまとって震えている彼らから通行証を受け取りチェックしていく。そして、20何人目かで、やはり耳たれの付いた防寒帽を目深に被った男に提示を促した。
ところが、その男は身動きしない。眠っているのか。
「おい!」
兵は少し乱暴に肩を突いた。押されると、男は目を閉じたまま反対側にグラりと倒れた。
「班長!!」
若い兵は声を上ずらせて叫ぶ。軍曹は腰のホルスターに手を当てたまま、狭苦しく、客の荷物やら商品やらでごった返す通路を走った。
「死んでおります。」
軍曹は別の部下に身振りで指示を飛ばした。
一等車のキャビンにある車内電話機がベルを鳴らした。
兵の1人が受話器を取り上げた。すぐに上官の名を呼ばわった。
丁度最後の個室でほぼチェックと質問も終わったとみなした外国人とおぼしき男性は再び読んでいた本のページに目を落とした。
受話器を受け取った女性士官は指示した。死体を運び出した後、3等車乗客全員を足止めせよ。1等二等乗客にもその場を動かぬようにとの警告を出し、自身は下車して停車場の地下待機室から司令部に指示を仰いだ。
すぐに別列車を平行線に入れるので、3等乗客とその他でも挙動不審な者はその列車に収容して王国領内に一旦返すべし。
そのときには40名の警備兵のほとんどが3等客車周辺で警戒の態勢をとっていた。
異変は国境の反対側、帝國領でも察知され、こちらの警備隊にも緊張が走っていた。
なんらかの動きありと後方司令部に連絡を入れたあと、地区警備隊長は監視強化を指示、自らは指揮車両にて共同管理区域境界まで壕ひとつのところまで前進した。
すでに日が傾き始めていた。すでに王国軍の車両数台が到着し、列車周辺を昼以上に明るく探照灯で照らし出す準備を整えていた。
国境警備軍の救急車が遺体を収容して去った後、乗客たちは降りるわけも行かず、不安げに車窓から外を覗き込んでいた。
目にするものは共同管理区域の枯れ草の広い草原。ほとんどかなたの帝國領唯一といわれる景勝地である山塊まではさえぎるものがないかのようだった。
二等と1等の間にある食堂車に陣取った女性士官は、遅い昼食代わりの肉の燻製を冷えたお茶をあおりながら食べていた。部下の兵の中でも交替で休みをとりに来たものがやはり携行食糧を齧っている。
もう1人毛色の異なる者たちが2人。帝國軍のオブザーバーとして例の褐色の制服に濃い灰色のこれまた有名な外套を羽織った将校たちが、こちらは無言でタバコをふかしている。
彼女は今日ほど疲れを覚えたことはない。
以前、近衛師団にいて気を使う要人警護任務に当たっていたときでも、これほどではなかった。もっとも、さる人物の警護に失敗したために、今はこうして辺境の車掌ごっこを押し付けられてるのだが。
立ち上がると、一等車に入っていった。
ここの乗客たちにはとんだ災難である。比率からいって、帝國、王国それぞれの国籍が半々。いずれも安からざる運賃の負担が出来る階層の人々である。
2つ目の個室のドアが少し開いている。ふと見るではなく部屋の中を見ると、例の少年と目が合った。軽く微笑んできた。だから微笑み返してみた。
後もう少しの辛抱だよ。彼女は心の中でひとりごちた。
そのまま、こつこつと靴音をたてて、また食堂車のほうに舞い戻った。
丁度陽がトップリ暮れた頃、列車が到着して、停車場ホームの反対側に止まった。今度はディーゼル機関車に押された少し古びた客車だった。
ドアが開けられ、3等客車の客たちは警備兵にせかされるように元の列車から降り、隣の客車に移っていった。
古びてかび臭い陰鬱な車両だった。
大方の乗客が乗り移ったとき、客車の編成の中央部、そして、機関車の連結部付近で破裂音。そして、暗闇の中、たちまち列車の車内を炎が走るのが遠目にも見えたのはそのときだった。
最後の集団がようやく乗り込み、車内がごった返しているとき、突然熱気とガス、爆風に襲われた人々はたちまちパニックに襲われた。
警備兵の静止を振り切り怒涛のようにキルティングの集団があふれ出した。そして、元の列車に戻ろうとせずに次々とホームから飛び降り、草むらの中を駆け出した。
「発砲しています!」
帝國軍監視壕の兵士が望遠鏡から目を外して上官に叫んだ。
赤い曳光弾が幾筋も見え、やがて鈍い銃撃音。
強い灯の中で人影がもんどりうって倒れていく。
指揮官は有線電話にただちに共同管理地区への介入許可をと叫んだ。
女性士官は煙と光線、においと騒音が交錯する中、走った。
確かに、人影が倒れていた。
随行した軍曹が息を呑んだ。
死んだ男のすぐ後にチェックするはずだった帝國領から来たと思しきみすぼらしい姉妹。
いずれも脊髄を一発で撃ちぬかれている。軍曹が声を上げた。
彼女が見返すと、腰のホルスターから拳銃を抜きかけた彼が急に腹を押さえて昏倒した。
その先に見たのは今度はハンチングを被った例の少年、そしてその隣にいる萌黄色のワンピースの少女は、王国軍装備の騎兵銃のうつろな銃口の空洞を彼女に向けていた。
事態の猶予なさを悟った帝國軍指揮官は独断専行を決意し、斥候数名に潜入を指示した。
身を低くして彼らは進む。
そこで、さらに数発の銃声。今度は乱れうちではなく、ほぼ彼らのいる地点めがけて集束してきた。赤い曳光弾。
指揮官の下にそのとき丁度指令が電話で入った。
ただちに列車を接収、帝國臣民を保護せよ。
重機関銃の重い銃声が響き渡った。青白いトレーサーが火災の炎とライトの光に浮かび上がった人影めがけて降り注いでいった。
少し後方では武装した車両群がエンジン音の唸りをあげて前進を開始していた。
そして、すでに反対方向から現場近くまで接近しつつあった王国軍増援部隊は総員が銃のコッキングを起こしていた。
翌朝、明るい光の中、あちこちであてどなくさまよう人々、くすぶる車両、うめく負傷者、そして物言わぬ死体が転がる中、両軍の停戦執行チームが無言で肩を並べて進んでいった。
中心となる鉄路のうえには、並んで焼け焦げ、炎天下に放り出された2匹の青大将のような列車の残骸があった。
1人の女性士官が上着を脱ぎ、白いシャツの上から胸から肩にかけて止血を受けながら担架で運ばれるところだった。
王国軍の参謀が無言でそれを見送る。
行方不明者の数は判然としない。混乱状態の中、氏名の控えのある一等乗客すら3割は不明なのだ。リストにある一番年少の兄妹の名を見て、彼はため息をついた。
どこにいったのだろう?
女王は顛末の報告を侍従武官から受けた。
外交関係そのものには影響は最小限に止める事ができる模様。なんと言っても、長年の友好関係はとぎらせるわけには行きませぬゆえ。ちかく、謝罪の特使を…
ひと段落着いたところで、次の件を報告させた。
大臣夫人殺害の下手人は未だ判明せず。
年少者、同性愛、いずれについてもよからぬ噂の多いこの貴婦人は、寝床で頭部を撃たれて即死するという無残な最期をとげていた。
1人、その夜呼ばれた少女がいたという噂もあったが捜査当局は残念ながら裏づけが取れていない。
皆を下がらせてから、女王は静かにため息をつく。
そして、
「妹よ。あなたの元気のよいやり方では少し騒々しくてよ。もう少し慎重にせねば。」
ふいに表情が変わる
「姉さま、あの帝國以来のうるさい女は処分のしどころじゃなかったかしら。いろいろ私たちのこと探りを入れて、元女官長の妹というだけで、あわよくばなんとか私たちをあやつろうと、いろいろ不快だったわ。」
「まあ、それはそうだけど。でもあの子たちは無事でよかったわ。」
「そうですとも、まだまだ働いてもらわないと。今頃は、ほら、子供のとき女中のメルがよくあの美味しい砂糖菓子を買って帰ってこっそり分けてくれた、ジャンのお店の近所にいるはずだわ。」
「懐かしい…。少し妬けるわね。」
「いろいろ、そう、いろいろ仕事が増えて大変な想いをさせるけれど。2人ならできるわよね。」
女王のひとり言は薄暗い私室の中、まだしばらくは続く。