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トラヴィアータ2

その同じ刻限、皇宮で奏上を終えた宰相が謁見の間から退出したとき、老齢の銀色の髭も堂々たる老人が静かに彼に近づいた。

「殿下が?」

宰相は少し小首を傾げると、秘書官に待機を命じて、皇太子付き侍従長であるその老人の後に従い、広い回廊を歩んでいった。


普段は東宮御殿にいます皇太子は、公務のときに使用する少し彼の身分からすると手狭な一室で待っていた。

ここは、実は幼少の頃から秘密基地のような扱いにしている、乳母や侍従たちも入れぬ特別な場所。同じ年配の宰相は少年時代何度も入ったことのあるなじみの深い場所だった。

「やあ、クリフ。ここはひさしぶりだろ。」いたずらっ子の笑顔。

「皇太子殿下ご機嫌うるわしゅう。」

「いいよ、今は昔どおりカールで。あ、少しは飲むんだろ?今でも。」

「ええ。寝酒は一日おきと口すっぱく言うのがいますが。」

破顔一笑。「この手の悪徳が国を滅ぼすと言い張る手合いが増えたものだね。実際はもっと別なものが危険なんだが。」

本来は先に誰かが用意するのだが、すでに皇位継承第一位の皇族は自らの手でケースから酒瓶を出し、2個のグラスに中の液体を注いでいた。

「恐縮です。」

最初の一口をすすると、二人はすこしくつろいだ。

「大公から何か聞いてないかい?この夏、王国の離宮にうかがうことに決まったよ。」

「初耳です。準備にかかりませんといけませんね。」

「やれやれ、あの叔父御は結構粗忽者だからな。君に何もいわんとは。」

「ただ、今の時季なら特段大きな問題もありませんから、よいと思います。外務大臣に言っておきましょう。」

「たのむよ。私も『トラヴィアータ』の君に会うのは久しぶりだ。」

「カール殿下、そのあだ名は少し…。」

「はは、私がつけたんだけどね、そのあだ名は。『世のしがらみに収まらぬ方』。そんな意味でつけたんだが、確かに色々な意味で超越しているよ彼女は。たいしたものだ。」

「もうひとつ、その不穏当な意味もありますが…

「あばずれ、そうだろ」小さくウィンク。宰相は少し返答に窮した。

「君が、あの人の双子の妹と仲がよかったのは知っている。あのときは私も悲しかったよ。」

何が言いたい?不遜な言葉が胸の中で旧友に向けられた。

皇族であるところの親友は少しまじめなときのくせで口をへの字に結んでから、口を開いた。

「宰相としての君が属領について心を砕くのはわかる。しかし、最近妙な噂を聞くぞ。手駒として小さい兄妹を使っているそうだが、まあ、それはよくあることだ。だがな。」

すでにグラスは半ばまで空いていたが、目線には酔いのかけらは微塵も無い。

「あの動乱以後、わが領内のみならず、かのウィンスラント民が住むウィンスラント本国はもちろん、王国領にも人を密かに派遣して探っているようだな。何を求めている?」

「もともとウィンスラントは我国にも王国に対しても、自民族に対しては国境の出入国は恐ろしいくらいゆるいのです。ご存知と思いますが、不逞のやからも出入りしかねません。また、王国の密命を受けた工作員も頻繁に動いていると申します。特段の注視は必要です。」

「うん、少し入れ込みが過ぎるという噂があったんでな、どんなものかと。」「あの事件のあと、姿を消した公爵家の女中を今でも追っているというものがいるんだよ。あの者はたしか属領出身だったが。」

「もう何年も情報が途絶えています。確かに二人のお付き女中でしたが、すでに過ぎたこととあきらめていますよ。」

皇太子はふうっと息を吸うと、またさっきのいたずら笑顔にもどった。

「初恋の人の面影というのは忘れがたいものだ。たしかにあの件は不幸だったが、その片方が今では隣国の君主なのだよ。最近とみに過激共和派が両国ともに浸透してきている。武装蜂起で国を転覆しようという大それた連中だが、小国とは言えども南のほうでは成功して共和制を宣言している。」

「おこがましいことではございますが、人は従う権威を常に欲しています。宗教、民族、経済、武力。権威を持つものはまた別の意味合いも知らねばなりますまい。」

「人間の一生なんて短いものだ。何かをやれる能力も限られる。政治などそれを前提にしないかぎりは成り立たないよ。だが、もし、死なない超人がいて、しかも人間とは捕食者とエサの関係になったら、これはまずどうするか…だな。」

宰相は少し目を伏せた。用心深く切り出した。

「…ご存知でいらっしゃるんですね?殿下。永遠の生を生きるものどもを。」

「ああ、しかも、ときに我々に害をなす存在だ。かれらから永遠の生を奪う方法、それも効率的に奪う方法を。」

恐ろしく無邪気に次期皇帝は笑って見せた。「それができたら、この世界では権威は一つになるな。ぜひ、研究してみてほしい。」

そういいながら、彼は一冊の少し大きめのファイルを彼のほうにすっと押しやった。


それを開いた宰相の手のひらは、やがてじっとりと汗ばんでいった。



…人体に限らす、全ての生命体は閉じた体系の中にあるといえる。

あらかじめ細胞核の上に書き込まれたという情報に基づいて各細胞を形成し、それぞれの役割に応じてエネルギーを取り込み消費し、新陳代謝を繰り返す、という仮説が正しいとするならば、エントロピーの減少とともに代謝は衰え、やがて朽ちる。

がん細胞とは、そのような情報が齟齬をきたし、ただひたすら均質な分裂拡大を続ける存在で、それ自体は他の体細胞となんら変わらない意思無き占拠者といえるが、もしこのような細胞の核に違う情報、すなわち健全な体細胞以上に活発な活動をもたらす情報が盛られ、閉じた人体の中でむしろエントロピーを増大し続ける存在として、元の体細胞に代わって増殖し続け、ついに全てを乗っ取ることに成功したらどうだろうか。

つまり、脳を含む全ての器官でこのような細胞の入れ替わりが劇的に起こった場合、その人間は一旦死ぬが、それを苗床として新たな生命として復活することが可能になろう。

常にエントロピー増大を求める核情報はその新生者に強大なパワーと超常的な能力を与えることになろう。

だが同時に、そのようなものを閉じた生体に閉じ込めることはいずれは不可能になる。すなわち、そこで、細胞全てのエントロピー増大の傾向、欲求を抑えるべく、かつての閉じた、やがては衰える生体記憶も適宜注入してやる必要が生じると考えられる。

彼らが頻繁に行う、吸血、生肉食とはそのような抑制剤注入のごとき性質を持つのではないかというのが目下の仮説である。…


かれこれこの小部屋に来てから2時間かけて宰相は手にしたファイルを広げながら、読み進めた。

「君は実はもう聴いている話だろう?」

皇太子=かつての学友は口を開いた。

「ええ、概略は閣議で。しかし、実際に手にとって読むのは今回が初めてです。」

属領における衛生事情、という面白みの無いタイトルでまとめられた何枚ものレポート、そして図表、写真、グラフ類。それらの指し示すものは唯一つ。

この世にいるということすらはばかられる存在。人の生血と死肉を食らい、超人的な破壊力を発揮し、決して死なない存在。吸血鬼。

誰かに噛み付き、血をすすると同時に、相手の体内に伝播性の強い万能細胞を残し、発芽させる。いずれその相手は全てを塗り替えられ吸血鬼として復活せざるを得ない。

永遠に死なない、死ぬことのできない生。


「細胞も結局分子でできている、そうだろ?なら、分子そのものを砕いてしまえばいい。」皇太子はこともなげに言った。

「それに直接焼き尽くせなくても、放射線障害者だ。いずれもう一つの侵略者、がん細胞が増殖するそうだ。」

彼らを特定疾病者として隔離することができる。

「つまり、君が今命じている新型の兵器は全てにおいて我々の権威を保障してくれるということだよな。」しずかに笑う。

宰相は上を見上げた。いちいち、言うことが当たっているだけになにか逆櫓をかける言葉を探すが無駄だった。

「ただ、もちろん、実際にわが属領や隣国に向けて使用すると決まったことではありません。あくまで、我々の権威を示す、そのためです。」

「女王がおなじものを欲している。それの手助けもそのためなんだろう?」

「お互いが保有すれば、決定的な対立は防げます。」

「君が保有にこだわる理由はそれだけじゃあるまい。」皇子は足を組み替えて言った。

「あの女王の妹が実は生きている、君はそう疑っている、そうだろ?」「そして、もうすでに眷属化しているかもしれないと。」

宰相はすでに氷のような視線を向けていた。受けた皇子は静かに言う「勘違いしないでくれよ。君の手助けがしたいんだ。それに。」

「吸血鬼といえども、わが臣民にはちがいない。」


「わかっています。」少し強い語気とともに宰相は部屋を出て行った。無作法をとがめるどころか、皇太子はしずかに笑みを浮かべて後姿を見送った。

「昔から、そう、少年の頃から他人への思いやりが溢れるよい男だよ、宰相。だがときどき酷く気短になることを押さえきれないというのが欠点だ。大丈夫、私が注意していてあげるよ。」

ひとりごつと残された琥珀色の液体を飲み干した。



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