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地球の墓標、宇宙の海  作者: 冬野夏
log 3
99/111

8.9

ある一人の社会学者であり同時に哲学者でもある男が、このような話題を議論に持ち出した。



殺人とは、人を殺すことを指すのだろうか?

それとも、人としての存在性を示す”魂”を殺すことを、殺人とみなすのであろうか?


ここに一人の人間がいる。

仮に、科学技術におけるシンギュラリティ的発展から、人の体から”たましい”をほかの物体へと移植できるようになったとしよう。

そしてその場合において、一人の人間の魂を、くまの人形に移植する。

すると、”魂”を移植されたあとの抜け殻となった人間は、有機生物としての活動を未だ行うとする。

呼吸をし、ホルモンは分泌され、恒常性機能は継続している。

この”たましい”のない人間としての体および人間としての生物。

これを有機生物的観点において殺害。すなわち、代謝を行う行為を自発的にも強制的にも断ち切るとする。

すると、その打ち切るように仕向けた人物は、殺人罪に問われるのだろうか?

その場合、人間の”たましい”をもった熊の人形は、果たしてこの人形をばらばらにすることによっても殺人罪が適用されるのか?

それとも、それは所詮、くまの人形に過ぎず、それは器物の破損に過ぎないのか?

”たましい”は人間が持つことによってはじめて”たましい”と定義されるのか?




こうした戯言的討論があまり注目を集めず、大して問題視されなかったのは当時においてであり、この話が今になって注目を浴びたのには理由がある。

それが「ユーア殺人事件」であり、”たましい”と殺人についての関連性についての注目を否が応にも集める結果となった事例である。

事件の顛末はもとより、本事件の肝は暴走徒となったファンが原因であるとも言えるし(匿名掲示板ではそういった意見もちらほら)、進みすぎた技術演出による皮肉な結果であると指摘する一部の専門家も居る(尤もこの場合、ご多忙にもれず「いったいあんたは何の専門家なんだ?」と言われる輩どもだ)。

事件が起こったのは現実であり同時に架空。

つまり死んだのはアニメ”ラッキー6.66”の登場人物、柊ユーアという少女のキャラクターだったのだ。

しかしこのキャラクターは3Dホログラムとしての体を持ち、そして意思として独自思考型AIを搭載され、任意の場合のみ以外は自立的に台詞を喋っていたのだが(この場合「台詞」と表現しているが、一部の熱烈なファンからすれば「それは台詞ではない!彼女の言葉だ!」との批判が予想されるが、あしからず)、それによって彼女には意思としての人間性があると同アニメファンならびに彼女のファンである人々は謳い、そして問題の第十話。

このアニメ作品は昨今流行の「即興劇」型であり、要するにストーリーの肝となる場面以外のところは出演キャラクターが任意におしゃべりをし、自立型AIとしての機能を我々に見せつけ、ファンに「彼女は生きている!」と認識をさせていた。

そして場面は変わって、彼女。アニメ”ラッキー6.66”の登場人物である柊ユーア(14歳の金髪、美少女)は突如、通り魔に殺害される急展開。

即興劇型のアニメゆえ、リアルなリアクションを演出するため演者(この場合はもちろん、アニメキャラクターのことを指す)にもこのことは知らされておらず、柊ユーアは腹にナイフを刺されて絶命する。

これを見て激昂したのが彼女の熱烈なファンの方々であり(一部では”信者”との呼び方もするらしい)、彼らは声高々にこう主張する。

「これは製作人、とりわけ脚本における殺人行為だ!」


ここで問題視されたのは、「ではどこから”にんげん”成るものを”にんげん”と認定するか?」であり、人間としての思考を行い、人間としての振る舞いをすればそれはもう立派な人間である、というのが起訴側の主張であり、それに対して「あくまであれはアニメのキャラクターであり、一介の人形に過ぎない。すなわち、あれには人権はない」とした。これには当然のようにファンが激怒し、「ユーアちゃんには人間としての”魂”があった!」と訴えるのだから、自体はよりややこしくなった。

自体は「自立型AIに対して人権を認めるか?」といったことに対する意識の是非を投げかけ、この事件は予想外といえるほど世間に対して波紋を広げた。

だが政府ならびに法律家はさも当然のように「たとえ自立型であろうとそれが機械的作用によって生じているものに限り(つまり、ホログラムも然り)、それに対しての人権は、基本的に認められない」

なるほど、この意見は尤もであり、故にこの当然と言える発表で自体は一部の熱狂的な声を狂気的なものとして片付ける傾向へと流れるように思われた。

だが自体がまた一変したのには、上記の前世紀の話が再び関連することになる。

つまり、”たましい”と呼ばれる(正確には脳神経内において構築される一種の非線形的パターンの累計)ものの解析が完成!との報告であり、その被験者として体から実際に、”たましい”と表されていた個人的特徴をもつ意思(任意ではなく特定の意思は「自我」という名称で区分され、それは指紋のように各主体が各々の特徴を持つものとして確認され、認知できるようになったのはおおよそちょうど一年後である)がほかの固体に移行させる、ということに成功したからである。

これによって、「では、”たましい”を移された固体を破壊する行為は殺人に値するのか?」とした議論は当然のように沸き立ち、それは並列して「”たましい”を持ったものを壊すのが殺人になるのであれば、”たましい”をもった幻想体(これは有機体に対する造語であり、アニメのキャラクターを暗に指す)にも、ならば殺人罪は適応されるのでは?」との主張が湧き上がったのだ。一部からは特に。

これに困窮した政府ならびに法律家は、法律の見直しと同時に、”たましい”ならびに「殺人罪」に関する定義についてを改めて制定する必要に迫られた。保守派は当然のように「機械的および機械的作用において生ずるいかなる現象もあくまで非有機物であり、それらが殺人にはなりえない」と強固な姿勢を固持し、革新派は「いかなるものであろうと、人間としての”たましい”が認められた場合においては、その対象を破壊する行為は殺人罪が適用される」と主張した。

そこで政府側はこれらの意見を専門家を集めて議論した結果、「ユーア殺人事件」に対し、ひとつの判決を下した。




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