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地球の墓標、宇宙の海  作者: 冬野夏
episode B
98/111

94


迷子と迷子でない状態を正確に語る事とは、できるのだろうか?

例えとして、目的地に向かっているとしよう。

その正確な場所は曖昧で、だから漠然と向かいその付近までは着いたが、あとどのくらいの距離があるのか、どのほうに行けばいいのかは分からない。

あなたはなんとなく、直感に従い足の向くままに進む。

その状態を、目的地が定まらず歩いているので「迷っている」としよう。


その後、歩み続けると偶然にも目的地へすぐ到着。

するとそれは、「迷わなかった」といえる。

結果的には無駄なく進み、目的地へと真っ直ぐに着いたのだから。


だがちょっと待ってほしい。

最初の漠然とした歩みの状態を「迷っている」としていたにも関わらず、そのあとすぐ着いたからといって、その状態の事をはたして「迷わなかった」と言い切れるのだろうか?


つまりぼくが思うことはこうだ。

精神的、思惟的な状態としては目的地の場所が解かっていない状態が存在していてその際は「迷っている」と言える。しかし身体は結果的に迷わずに着いたのであるから身体は「迷わなかった」と言えるのではないだろうか?と。


ここでは二元論の如く、頭脳の働きとして「精神状態的迷子」であって、身体は「非迷子」状態といえる。

すると面白いのは、身体の状態と精神の状態との齟齬。


おいおいなんかおかしくないか。

この話を聞いてもしそのように思うのなら、この話の根本的な誤解としてそれは、「迷子」における定義に他ならないだろう。

ぼくが言いたいのは要するに「”迷子”の定義如何によってこの状態は迷子であり同時に非迷子でもある」ということだ。





こんなどうでもいい話を長ったらしくぼくがここまで語ったのには訳がある。

それはこの話が、一種のアナロジーとして人間の人生に置き換えられると思ったからだ。


つまり、ぼくたちはただ闇雲に、惰性となって惰性に気づかず、流れに沿って流れに乗り、生活し暮らし、自分の職業について、学生、医者、学者、政治家…

それらは果たして、

「ぼくらは『迷子』でない」

そう言い切れるのか?

ってことだ。


ぼく自身としては、決して迷子ではないと思っているし、自分は非迷子の状態であり、迷子にはならない。

そうした頑固なぼくの性格は生まれ持っての性格だといえるし、おそらくは生まれた環境によるものでもあろうからまさに星格だ、とぼく思う。


それでもぼくは、上の話が示すように、本当は迷子にも拘らず、非迷子であると思い込んでしまっているのでないか?

ってことを思い始める。

だからこそぼくは、迷子である可能性もあるんじゃないか?ってそうした自分の存在も認める事にした。


ああ。

だから。

振り返るとそれは、その日の出来事を遡る必要があるんだ。

僕はユーコと学校をサボって、目的地に行ったあの日を事を正確に。





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