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こんな話を聞いたことがある。
あるところに貧しい母と娘が居た。
そしてあるとき、母が病に伏せた。
娘は母の病を治そうと学校にも行くのをやめ、必死に働き始めた。
母に栄養のあるものを食べさせようと、年端も行かぬ少女はできる限りのことをして働いた。
時にはその身さえもささげ、もはや貞操を守る余裕もゆとりもなかった。
それで少しでも栄養のあるものを、母の好きな食べ物を。
母はジャムがたっぷり塗られたパンが好きだった。
目玉焼きが好きだった。ベーコンが好きだった。チーズが好きだった。
娘はそれに答えようとした。
娘は帰ると床に伏せる母親へ毎日、食事を用意してやった。
毎回、母の好物を食卓に並べ、少しでも多く食べてもらおうと、少しでもよくなってもらおうと必死だった。
日に日にやせ細くなる姿を見るのが、何よりも耐えられなかった。
母も娘の用意してくれたものを、その親切を、愛情を受け止めようと必死に食べた。
母の容態は回復しない。
むしろ、母の状態は悪化の一途をたどり、母が活発な姿を見せることは二度となかった。
亡骸に泣きつく娘。
その後の死体解剖によって母の死因が判明した。
原因は癌だった。
しかしその癌こそ実は、娘が母を治そうと、そして母に少しでも多く食べてよくなってもらいたいと、用意していたジャムの塗ってあるパンとベーコンに含まれる添加物により生じたものであった。
体も心もボロボロになった無垢な娘は、そのことだけは知る由もなかった。
ぼくは、この話の出所を知らない。
内容を吟味してよくよく聞けば、相性の悪い添加物によって病状が生じたとしてもそれは必然ではなく、ほかの要因だって数多考えられる。癌、と呼ばれる病状が死因であったとしても、それは病状に伏せていたときの免疫低下による結果とも捕らえられるし、そもそもが癌であったという可能性も否めない。
それでいながらこの寓話がぼくの頭の片隅にこびり付いて、ずっと忘れずに居たのは、この話が教訓じみて感じていたからだろう。
さっさと医者に連れて行くべきだった?
それとは別に少女の無知を嘆くべきなのか?
それとも愛情、親切心が必ずしも物事を好転させるとは限らない。
とでも言いたいのか?
ぼくはこの話を知ったとき、まずはじめにはそれらのように思った。
でも後になってぼくのこの話に対する捕らえ方は変わった。
この話では、無知による行動をしていた娘が悪いわけでもなく、
病に伏せた母親が悪いわけでもない。
悪者は誰も居ないのだ。
じゃあ、この話が言わんとすることは?
それこそ今のぼくはこのように考えるのだ。
「娘は不幸なのではなく、ただ不幸を知っていただけ」
なのだと。
ぼくがそんな話を思い出したのは、おそらくあの男のとの別れ際の会話が原因だ。
食事を終えて店を出ると、男はすぐに僕らへ背を向けた。
そのまま行ってしまいそうだったのでぼくは声をかけた。
「あんたはいったい何者なんだ?」
男は足を止めてゆっくり振り返った。
「職業か?そうだな…翻訳家兼検閲官といったところだ」
「翻訳家?」
「ああそうだ。母国語から母国語へのな」
「なんだよそれ」
「検閲なんて職業がまだあるとは思えないけど?」
ユーコが横から口を挟み、男は少し笑う。それはあきれたようにも、また親しみのあるような笑みにも見えた。
「食品に毒がないか、異物は混入してないかと検査するのは普通だろう?文化にとってもそれは同様なだけだ」
そういって男は翻し、去って行った。
「今日も学校をサボるの?」
今日とてまたベンチで寝転んでいると横にはユーコが来ていて声をかけてくる。
ぼくは無視をした。
かまわずユーコは言葉を続け、「ねえ、今朝のニュース見た?」
と訊いてくる。
「別に」
「じゃあやっぱり見てないんだ。犯罪があったみたいよ」
「犯罪?」
その言葉の意味を知ろうとこっそり辞書を引こうとした手前、ユーコはそれを見通したように説明し始める。
「要するに、法律違反行為のこと」
「…へえ」
ぼくはできるだけ高揚をつけず、平坦に言う。
「興味あるでしょ?」
「いやぜんぜん」
「嘘。やっぱり嘘つくの下手ね」
そういって少し笑うのでむっとした。
「…何処で?」
「やっぱり興味あるんじゃない」
「いいから、何処であったんだよ!?」
「…市内のほう」
「漠然としてるな」
「だって、そこまで詳細に聞いてなかったんだもん」
「まあいいや」
そういってぼくは体を起こす、
「ようやく行く気になった?」
「ああ」
そういってぼくは歩き始めた。
「そっちは逆よ!」
「誰が学校いくって言った?」
ぼくは得意げになって振り返ると、予想に反して半笑いのユーコの表情。こそばゆい。
「だから、犯罪現場と逆って言ったの」
ユーコは堪えきれないようにぷっと吹き出し、顔をうつむかせて隠すように少し笑った。
ぼくは小さな舌打ちをし、それからユーコの前に戻る。
「何年の付き合いだと思ってるのよ」
「…じゃあ案内しろよな」
「自分で行けば?」
「なんだよ、もともとの話を振ったのはそっちだろ?」
「それでも、その態度はないんじゃない?」
ぼくは今度、音に出して舌打ちをする。
「もういい。ぼく一人で見に行ってくる」
「私も付き合うわよ。面白そうだし」
「お前、学校は?」
「あなたに言われたくないわよ」
「…ふん」
振り切ろうにもぼくについてくるのは明白で、そして目的地はこいつが知っているのだから仕方ない。
「仕方ないわねもう」
言葉の使い方さえも似ていてぼくは苛立ちを覚えたが、ぐっとこらえて我慢。
「じゃあ行きましょ」
そういって歩き始めたユーコの横に並んでぼくも歩き始めた。




