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「なるほど。だが、それも正しいとは限らない」
男は腕組みをして挑戦的に頷いた。
「それはおかしいわ」
ユーコが反論する。ここではどうやら僕の味方のようで、敵にすれば恐ろしいが味方となっては頼もしい。
「では逆に問おう。なにがおかしい?」
「なにがって…現にこうして私がいるって思う私はいるもの!」
「だがその私が、どうして私が思う私であり得る?」
「えっ?」
妙な事を言われて窮したようにユーコは閉口し、「えっと…」などと言って答えあぐねている。
それから救助を求めるように僕のほうをチラチラと見始め、前言撤回。
「それは詭弁だよ!そんなことを言い出したら、元も子もないじゃないか!」
もはや頼れるのは自分のみ。そんな思いで反論すれば、「ほう」と男は訝しげな視線をこちらに向けてくる。
どうしてだ?と問われる前に僕は言葉を続ける。
「あんたが言ったように、私と思う私がそこにいるわけじゃないかもしれない。けれど、それは無意味だ。なぜなら仮に、私が私と思いこむ、その私をまた見つめる私が存在する可能性があるからだ。それじゃあ永続的に循環する。まるで無意味で、行き着く先がない」
「なるほど」
男は納得したように慇懃な風情を持って頷き、しかし次にはすぐにまた口を開いた。
「ではきみは結局、私、としての概念は、私にとって私自身としてあり得る。そう思うのかな?」
男は自信に満ちたような低い声で言い、僕は竦む体を思い出さないよう口の中から覗かせる牙を見ないよう目を逸らした。
「それは…はっきりとはわからない。いいや、そんなことはわからなくて当然だろ。わかるなんていうなら今頃は色々な賞を総なめだ。なんだったら、それがわかるというなら…」
「わかるなら?」
男は鼻息を鳴らすような勢いで問い、微かな興奮をにおわせ、それは大作映画を二度目の鑑賞に行き、クライマックス直前のような惰性さを思わせた。
「きっと、魂って言うそんなよくわからない何かが、きっとわかるんじゃないか?」
僕の言葉に横でユーコがふふっ、と密かに笑い、僕は苛立ちと共に感じたのは虚無感。それは、ぐぅぅ、となった僕の腹の音がもたらしたものだった。
「…仮に、意識の概念それ自体が別の場所にあるとしよう。つまり、ここに居るこの身体は、俺であって俺でない。つまり、俺、としての魂は別のところにあって、それは俺の脳がここにはないからだ」
だがしかし…と男は続ける。
「そうかといって、俺のこの意識、今こうして思考し言葉を選びそして喋る俺。身体を動かしているのは俺であろうが、そのとき、喋る俺は俺自身に注目をしていない。喋る俺は喋ることに集中しており、事象として喋る自分と喋ることを考える自分、そして、それら二つを認識する自分。そのとき、俺を俺と定める概念、自己自身はどこに属するか?といった問題が生じる。次に俺の意識が”脳”から生ずるとしよう。すると、その”脳から生ずる自分”を認識する自分は、はたして何処から来た?それでも、俺が居ると思えるからこそ俺だと言える!…と、そう思えるか?」
「さ、さあ…」
僕は混乱し出して言葉を濁す。
「微妙な問題ね。でもそれは間違ってるわ」
「ちょ!?ユーコさん?」
予期に反して、こいつは反論する気たっぷりで、気丈さを備え強気に言う。
相手の言ってる事がわかったのか?
それもさっきまで「魂!」なんて言葉で子供みたいに馬鹿笑いしていたようやつが。
「なにが違っている?」
男は鋭い目をユーコに向け詰問するように問う。
「さあ?なんとなく、かな」
「なんとなく?」
ユーコの答えに男は眉をひそめ、僕は呆れた。
「そうよ。なんだかよくわからないけど、それってつまり、ああ、私はどこにいるの?っていう問いでしょ?そんなの決まってるじゃない」
ユーコは一歩前に出た。
「そこに居る。あなたがそんな凶暴そうな顔をしていようと、私たちの目の前に居る。それは確かよ。こううして会話をしているだって、あなたがそこに居るから。それ以外にある?」
男を指差しながらユーコは得意げに語り、男は表情を曇らせて沈黙を守り、傍観者となった僕としては「あいつ何ばかなこと言ってんだ!?」とした焦燥、「あの男の言ってること分かってないじゃん!?」などとした困惑とさまざまな感情が入り混じり、混沌として根をはり身体を縛り付け行動を制限した。
「‥ない、があるか」
男は小声で喋りながらうつむかせた顔を上げた。
それから得意げにしている、目の前の女の子に向けて
「面白いことを言う」
と言った。
えへへ、とユーコはそれこそ馬鹿みたいに照れており、
僕はようやく会話劇が落ち着いたことで全体を俯瞰する状況を得ると、再びこの場の違和感を鳥肌と共に取り戻した。
「というか、お前はいったい何者なんだよ!?」
脳がどうとか、魂が何か?なんかより、よほど気になり、そして一番に訊きたかったこと。それがようやく口から飛び出ると、ユーコはハッとしたようにして一歩退き、男はギロリとこちらを見てくる。
獰猛な顔した不審者野郎。通報してやろうか?
なんて言おうとすると、
男は右手を首筋に当てて「やれやれ…」といった具合に小さく首を回し、
「ここで見たこと一切合切、すべて忘れろ」
「な!?そ、そんなこと、いまさらできるか!」
「だろうな」
はぁ、とまるで今から重労働に向うような哀愁ある溜息を見せると、
僕らのほうへ密接するように近づいてくる。
「な、なんだよ!?」
眼前に迫り、庇うように僕はユーコの前に立つ。
相手は高くに視線を抱いたまま沈黙を貫き、次に右手を自身の腹に当てた。
「…腹、減ったな」
「はぁ?」
思わず首をかしげた。
こいつ何言ってるんだ?とした戸惑いを示すように。
「お前ら、飯を喰いにいくぞ」
「さ、さっきから何を言ってるんだ?」
「いいから来い。おごってやるって言ってるんだ」
「ご飯でごまかそうって魂胆なのかしら」
ユーコが後ろで独り言のようにつぶやくと、
「ああそうだ!」と男はその言葉を拾って張りのある声で堂々と返事をした。




