113
僕は猫だ。
名前はまだない。
かといって、僕の名前がないからといって僕が”新種である”なんてことはもちろんないわけで、僕は名前がないけれど猫であって僕は新種の生物じゃなければ猫であるわけだ。
人間だって同じだろ?
その一人の人間に、もし名前がなかったとしても、それは人間以外、というわけでもなければ人間以上でもない。
それはあくまで人間で、新種じゃない。
なに?
当然だって?
どうしてだい、きみたち人間は、よくこう言うじゃないか。
「おい!見ろよあれを!見たこともないやつだ…名前も聞いたことがない、おそらく新種だ!」
ってね。
え?
その場合、「見たこともない」というところが重要?
ほほう、きみもよく言うねえ。
じゃあ、それがたとえ「見たこともない」として、それに名前があったとしたら?
それを新種と思うかい?
ああそうだ。思わないだろう。
だってそれはすでに名前がついているのだからそれは、誰かがすでに見つけてその姿を確認してから名前をつけたであろうから。
では僕はどうだ?
僕は名前がない。
でも僕を見たことがある?
本当に?
では、僕の姿を今、頭の中に浮かべてみるといい。イメージとしてね。
…浮かんだ?
はい残念。
僕はきみが今、思い浮かべたような姿の猫じゃないよ。
なに、それは変なポーズを今僕が取っているとかそういうことじゃない。
僕は想像できない猫なんだ。
それが僕。
生きているか死んでいるかの狭間にいるような猫じゃないというのだけは、確かだけどね。
きみはそれでも、新種じゃないと言える?
きっときみは今、自分の意見を変えようとしているはずだ。
え?違うって?
頑固だなあ。
でもまあいいや。
僕が言いたいのはそんなころじゃないから。
僕が言いたいのは、どうして猫としての僕がこうして、こうしてこのようなことを残しているか、ということさ。
短絡的に言おう。
味噌汁が冷めてしまわないないほどにはね。
きみは僕のことを知って、それから時間旅行、いや、まあこういえばわかりやすいか。
タイムマシーンを信じるかい?
うん、正直それはどっちでもいい。
現にそれは在るのだから。
だからこそ、猫の僕がこうしてこのようなことを伝えているのだし、こうしている僕の存在そのものを、タイムリープとした事象の証明としてもそれは間違いじゃない。
昨今の時代じゃあ、時を遡るなんて未だにSF染みたこと!なんて思っているようだけど、
僕に言わせてもらえば、
それはS・Fの略じゃなくてじゃなくて、
S・Fだ。
思弁的未来、とでも言おうかな。
そもそも、なぜ人間がここでの人間の言うタイムトラベル、いわゆる時間旅行を叶えずにいるのか。
その理由はシンプルだ。
人間は、時間という概念に対する認識を間違えているんだから。
前提が失敗、というか、時間と言うことをわかっていないのだから、それはできなくて当然。
麻婆茄子をまったく知らない人間が、麻婆茄子を作ろうとするようなものさ。
え?
おいしいものができた?
おお、そうかい。
でもそれは美味しい何かであってたぶん、肉じゃがかなんかだ、麻婆茄子じゃあない。
美味しくたって、それは違うものだ。
だからこそ偶然的にも人間は進化し、物質的にも豊かな生活を謳歌できるようになった。
けれどまあそれさえ、ぼくに言わせれば二次産業的なもの。
いわば、おまけみたいなもんさ。
ああそうだ言葉がまた脱線した。
言わんとすることは、ちゃんと言わないとね。
時間という概念を理解するということ。
むしろ「できているよ」と言っても、それ便宜上以上の意味を持たないだろう。
それはもちろん、現状としてはだ。
いいかい?
過去にも、いろいろな人間が「時間とは?」と考えたようだけど、どれも的外れ。
なぜなら、彼らとて、時間を認知していながら、直接は認識できないもの、そう思い込んでおきながらも、時間はそこにある、と誤解している。
そこに誤りはあるのさ。
つまり彼らは結局、穴の開いた虫かごで捕まえようとしていた点に、それこそ根本的な滑稽さがあったわけだ。
僕は何も、「原子時計がずれてるよ」とか、光の「性質」や、それに伴ってメートル法についてや重力、エントロピーに対して違いを指摘するんじゃあない。
もっと根本的なことさ。
だって、もし人間が時間旅行するなら、時間旅行するのは重力や光じゃなくて、人間なんだからね。
でもまあ、ここで人間原理をさらに突き進めようって考える馬鹿は居ないだろうけど、
それも悪いセンスじゃない。
単純なことだよ。
どうして人間は、時間を知覚するか。
外部的な現象を通して認識する?
日が暮れて日が昇るから?
季節がめぐるから?
星の位置?それともその動きでかい?
それとも内部的な現象からかな。
腹が減るから?
眠くなるから?
疲れるから?
どれもそうであって、それのみ単体としての総意じゃないだろう。
けれどね、きみがそうして知覚する時間としてのそれら概念、
もちろんそれら以外にだってある。
歳をとる、とか、状態が変化する、としてはあって、
一番に時間を知覚しそしてさせるもの、それはおそらくきみたちにとっては「死」だろうね。
「死」に向って生きる。
人は誰しもが、「死」に近づくことで生きている。
「生」の終着点は「死」というわけだ。
そのマラソンが長いかどうかは知ったこっちゃないけれどね。
でもなんだかそれだと一方的だ。
けれど可逆として捕らえていない以上は、それは正しい。便宜上的にもだけど。
でもね、当然なのだけれど、「時間」があるのは、それがないものとしての「時間がない」としての意識があるからこそ「時間」という概念も存在している。
じゃあ、その対と成る存在、「時間」の「影」。
その「影」を「何だ?」というわけさ。
ここで僕が言うのはね。




