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世界は欺瞞に満ちている。
それはそうだ。
欺瞞がなければ世界は存在し得ない。
何もここで私は「これは相手のためを思って…」の所謂「きれいなうそ」などというものを指しているのではなく、まさに言葉通り、直喩として言っているのだ。
欺瞞。うそ。だましだまされ。
では、どうして人はだまされる?
それは相手にうそを突きつけられたから。
しかしその時点ではウソは嘘のままであり、同時に、受け取った当人はそれに気づいているのか?
無論、気づいていない。
でなければ、「だまされた」とは言えないのだから。
すると、その当人は「うそ」を「ほんとう」の事として、受け取ったわけでいる。
その時点では、受け取った当人は「ほんとう」のことしかもっていない。
ではそれが、いつ「ウソ」へと変移する?
つまりそれは、その変移さえを防いでしまえば「ウソ」は生じない。
そんな世界。
果たしてそれを、あなたは”ユートピア”と呼称できるだろうか?
もちろん、その受けとった「うそ」としての「ほんとう」は「うそ」であり、それは悪魔が天使に化けた、とでも言えば子供の学芸会で劇として催されるぐらいにはわかり易い。
けれど現実はよりややこしくて難解で、どうしてコードは勝手に絡まるのか?に近い難解さを所持しているのだ。
渡された「うそ」を「ほんとう」と知覚し認識し、それを意識として持ってしまったら、
それは「うそ」をその人にとっての「ほんとう」にかえてしまう力さえ持つだろう。
意識野においても力学の法則が通用するならば、質量保存の法則に倣い、
「「うそ」を「ほんとう」に、「ほんとう」を「うそ」に変移したとして、それらの質量は変わらない。それはすなわち、得た人にとって「うそ」か「ほんとう」にかかわらず、逆へと変移するには同じ対価が必要となる。」
ほんとうだろうか?
けれどここで私が呈した、ほんとう、がもしも、「ほんとう」になった瞬間、あなたはそれを信じることができる?
ここでいわば便宜上にも、ブラックボックスを登場させよう。
するとすぐさまこのブラックボックスは活躍の場を与えられ、
それはすぐにブラックボックス1に「うそ」をいれ、
ブラックボックス2に「ほんとう」を入れるだろう。
これで厄介ごとは一応にも片付いた。
ああ良かった。
…そうだろうか?
なぜならブラックボックスへと放ったそれら二つは巷にあふれ、今か今かとその姿を現し、否が応にも訪れてくる。
私が先ほどの”…そうだろうか?”に、”ほんとうに”との言葉をつけなかったのはそうした理由があり、私たちは「ほんとう」と「ウソ」から完全に逃げ切るのは無理なことだろう。
それこそ、いくらブラックボックスを用意しようとも。
だからこそ世界は欺瞞に満ちているのであり、
「ほんとう」のことを受け取る行為すべて、それは同時に「うそ」を受け取る行為であり、単に変移していない状態を維持しているだけに過ぎない。
すると「じゃあ、変移しない、純粋な「ほんとう」はないの?」
と問われることになる。
それこそ「純度100の金を用意して!」ということよりは容易なことに思えるだろう。
私が答える。
「ええそうよ。純粋な「ほんとう」も存在するわ!」
するとあなたは喜び、
「なあんだ、やっぱりそうなんだ!安心したー」
と安息の意を漏らすかもしれない。
そこで私は表情をニヤつかせ、
こう付け加えるのだ。
「けれど、私の言ったことが「ほんとう」かは知らないわ」
とね。
ここで私はなにも
「すべてを疑うべきで、「ほんとう」と「うそ」はもはや、その意味としての機能をまっとうしない!」
なんて大袈裟なことを主張してるわけじゃない。
それは当然、「ほんとう」の「ほんとう」も存在し得るし、「うそ」の「うそ」も同様。結果的に分別と相互理解における程度の問題であって、同じ尺度を持ってさえいれば大丈夫。
けれどもし、ひとつだけ、ここに私としての真意なる意を打ち込めれるのならば、私は是非ともこう打ちたい。
「この主張、言葉として意思の表記をしているのは、果たして「ほんとう」に「私」?」
意味としての理(ルールといったほうがわかり易い)をもし、相手がそれを受け取る側としての役割を果たさず、それを一方的な役割とだけして行うのであれば、それに対処するすべはある?
善処はあろうが、では悪処とでも?
指しに良手があるのなら、悪手があるように。
「ほんとう」として受け取る情報、それは何も受容側が意図して受け取ることに限らない。
それは供給側が、もしくは受容側が、意図せず行ってしまうことがあるのだ。
もしも私のことを
「うそつき!」
と指差し批判を言うのならば、大雨の中に立ち尽くすような気分を私に与えるだろう。
それを私は笑い、喜びながら答える。
「「ほんとう」をありがとう!」