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ジョークは面白い。
けれど、「はい、ジョーク」と言ったところで面白くもなんともない。
それはつまり「ジョーク」という言葉自体は面白くないから。
ジョークは面白いけど、「ジョーク」は面白くない。
何故か?
それは、ジョークとしての意味に、「ジョーク」自体が含まれていないからだ。
ジョークは「ジョーク」を含んでおらず、
では「ジョーク」は何だということになる。
それはジョークであるけれど、「ジョーク」ではないのだから。
「ジョーク!ジョーク!ジョーク!」
と叫べは、人は笑うのだろうか?
笑わない。
ジョークとして示される「事象」が面白いのであって、ジョークそのものが面白いわけではないから。
けれどまあ、「ジョーク!ジョーク!」と必死に喚いている人がいれば、反って笑えるかもしれないけれど。
だけど、この話のポイントはそこじゃない。
私がここで言いたかったのは、ジョークは「ジョーク」でない、ということだ。
それはつまり、名称がその名称を示さず、その名称自体の中身は実際に空っぽ。
コンテンツ、とでも言えば、まだ伝わるかな。
それは中身の重要性を示すいわばフォルダ名のようなもので、ジョーク、という言葉自体は便宜上のもので、それ自体には意味がない。
でもこれって、煎じ詰めれば「私って何?」という問題に普及する。
つまり、ジョークの例と同様に、ジョークそれ自体が「ジョーク」を示さないのだとすれば、
私は「私」を意味するのだろうか?
それもまた便宜上のものに過ぎなく、
私が、「私」を示さないのだとすれば、では私とは、認識されるべき「私」とどのような関係に居り、そして「私」はいったいどこにあるのか?
そうした思念を持つきっかけは、彼らが自分たちのことをなんら知らず、知り得ずそれでいながら彼らは自らを「私」「俺」「僕」などと呼称し、それらの意味の内容をトートロジー的に扱い虚偽に包括して感じたから。
そんな折、私が十三歳ぐらいだったときの、淡い記憶がふっとよみがえる。
朝、起きていくとリビングにも台所に誰も居らず、私は喉の渇きと空腹を覚えており、それで何か適当に食べようと思って辺りをまさぐった。
六枚きりの食パンの袋。三枚残っていた。
私は二枚を食べようと袋から取り出して、雲みたいな湾曲を描く頭を下にしてトースターに差し込んだ。
足元では猫、ポンティがベッドで私と一緒に寝ていたので、私とともに起床し、それから私に付き添い頭部の豊富な産毛で私の脛辺りを暖めてくれていた。
すぐにポン、と食パン二枚は焦げ目をつけた尻を見せ、取り出すとお皿へ重なるように放った。
それから冷蔵庫の中を確認し、バターを取り出す。
専用の塗りスプーンを使えばバターは容易に可塑性を示し、厚さとして二ミリ、と測れるほどたっぷりと塗った。
「ねえ雛」
ポンティは鼻をすんすんとふるわせながら訊いてきた。
「なに?分けてほしい?」
「いいやそうじゃないよ。ねえバタートーストの法則って知ってる?」
「なにそれ?」
「えっとね、確かこういうのだ。”バターを塗ったトーストは、床に落とすと必ずバターを塗った面が下になる”」
「うそね」
「でも本当らしいよ」
「科学的根拠は?」
ポンティはやれやれと言った風に、優雅に首を左右に振った。
「試してみれば?」
「ポンティは信じているの?」
「そう聞いたからね」
「そんなの、ぜったいうそよ…」
そうは言いつつ、私も多少興味が沸き、皿に乗せた一枚、手首に近い掌部分でとんとんと微かに叩き、自然を装いわざと床へ落とした。
「ほら、ごらんなさい!」
そのトーストした一枚は、バターを塗らなかった面を下にして床に着地した。
勝ち誇った顔でポンティを見ると、残念そうな顔でまるで眉毛を底辺のない三角形にしたような表情。
それからへの字の口を開くと、こう言った。
「ああほんとだね、じゃあ塗る面を間違えたんだ」
今にして思えば、あれも一種のジョークだったのだと思う。
けれど当時の私はそれが意図してわからず、ぽかんとしていた。
だけど今にしてその意味がわかるのは、
まさに私の現状がそのような状態にあるからだ、と思う。
私は当時のバタートーストのようなもので、
私は塗る面を間違えたのか。
そう思えるし、
けれど今の私ならば、当時のポンティにあえてこう返事するだろう。
「じゃあ今度は、両面にバターを塗る?」