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もし、嘘つきだけが住む、嘘つきの町があるとしたら、そんな町は存在し得るだろうか?
答えはイエスでありノウでもある。
なぜなら、嘘つきのみであるならば、そこでつく嘘は嘘になりえないから。
本当、があって嘘は成立するのであり、嘘しか言わないのであれば、それは嘘でない。
すると、彼らが話す言葉は何だろう?
それは私たちが知らない言葉。
未知の言葉であり、新たな造語。
だからこそ、その意味をつかめない。
けれど彼らはそうした世界で、何一つ不自由なく暮らしている。
するとそれは嘘ではなく、真実をただ語っているのでは?
それを「嘘」であると判断するのは第三者、部外者であって、当事者から見れば、それは嘘ではなく、真実なのではないのか?
私だってそう思う。
それは界隈の面倒な部外者が、「嘘つきめ!」といきり立って叫んでいるだけであって、部外者による偏見に過ぎない。部外者の本当が、彼らの本当である必要も結われもない。
だからこそ、私は彼らを嘘つきと呼ばないし、この場所を嘘つきだけが棲む処、とはしないだろう。
けれど、それでも、私は異議を唱え、この場所に反論したいという意思に駆られていた。
彼らは本当のことをついている。
彼らにとっては。
けれど、私や、私たちにとっては、彼らは嘘をついている。
つき続けている。
だからこそ、反旗を翻す必要性を問うのだ。
彼らは嘘をついている。
生命に対して。
生きている。
もしそれの嘘の状態として、それを本当だとしたら?
彼らの本当は「死」であり、嘘は「生」。
「あいつ、死んだよ」
これが単純としての嘘なら、話は早い
「あいつ、生きているよ」
に過ぎないのだから。
それは隠語か暗号的で、言葉遊びでしか過ぎない。
だけどこれが、
「あいつ、生きているよ」
を嘘として
「あいつ、死んでいるよ」
となった。
ではそのときの、彼らが語る言葉に真実性は含まれるのか?
それからの私の頭の中では、まだ私が小さかった頃、ポンディから聞いた話がよく頭に浮かんでいた。
「正直者のパラドクス」
猫はそう言っていた。
「”正直者である”、と自分で言う方が、”嘘つきである”、と自分で言うよりも正直者ではなくなることだよ」
「なにそれ?」
安易に訊くとポンティは肉球をかざしながら雄弁に語りだし、
「正直者である、という者が、実際の正直者ではありえないことさ。なぜなら、そいつは正直がなにかを知っていて自身を正直者と語る。ということは、そいつ自身が嘘を何かと認識しているのだからね」
「じゃあはじめから、嘘つきだ、といった場合はどうなの?」
「それも同様だね。けど少しややこしい。そいつは嘘つきであると告白することによって嘘つきであることを呈する。そこでひとつの正直者になる。嘘をつく、と本当のことを申し出るからだ。だからこそ、嘘つきだ、というよりも、正直者だ、と名乗るほうが罪深い。嘘つきは嘘つきだと申告したその瞬間には、正直者のレッテルを少しもらう。けれど、じゃあ、嘘つきと名乗り出た者は正直者か?と問われれば、無論そんなことはない、正直者だったら、はじめに、嘘つきだ、と名乗ること自体が嘘になるからね」
「どうしてパラドクスなの?」
「正直者、と名乗ったほうが、一時も正直性を得ないからさ。つまり、ここでは正直であることを主張すればするほど、そいつは嘘つきである可能性が高まるわけ。だから本当の正直者と言うのは、嘘といった概念を知らないやつだね。もっとも、そうした場合には正直、なんて言葉も無用だろうけど」
「でもそれって、あんまりじゃない!?本当にその人は嘘をつかないで、正直者なのかもしれないじゃない」
「まるで魔女裁判みたいなことを言うんだね、雛は」
猫は顔を一度、湿らせた右手で拭った。
「でも、その人が本当に、実際に嘘を一度もついたことがないとしてだ、それで”私は正直者”と言ったとしよう。雛が言った様にね」
同意の目配せに私は頷いた。
「でもその瞬間、その人は嘘つきになる」
「どうして?」
「そいつは、嘘の存在を知っていながら、その存在を否定しようとするからさ。仮に、そいつが口から出す言語として、常に正直、つまり正しいと思っていることを口に出しているとしよう。けれどね、そうしたって、その人が口に出す言葉を、果たして誰が”すべて嘘でないこと”と判断をすると思う?」
「それは本人でしょ」
「そう!そこに問題があるんだ。その人は自分自身で自分の真偽を判断する。けれどね、実際ひとは自分が正直としての存在である、そう知覚できるのは結局、嘘の存在によるものなんだ。つまり、嘘の存在なくしては、正直は存在しない。嘘の対極として正直が存在する。ということは、正直である、と語ることは嘘の存在を自身の中に認めることであって、”嘘をついたことがない”とする”私は正直者”は、嘘という存在も通して象られた自己によって申し出ているんだよ。正直者だとね。嘘によっても形成された自己に、果たして”絶対的な正直が何か”を判断できると思うかい?」
当時の私は幼く、ポンティによる言葉の雪崩に混乱した。
「…できるんじゃないの?わたしはだって、正直なことと、嘘が何かってことぐらい、わかるわ!」
「もとをさらに探れば、本当、真実。それが何であるか、それこそ何物でもないんだよ」
「そんなのデタラメ!だってそれじゃあ、会話が成立しないじゃない!」
「まだ君は小さいからね、雛」
ポンティは諭すように、紅茶に落とす砂糖みたいな声音になって言う。
「世の中にはそういった人たちが少なからず居るのさ」
「どういうこと?」
「会話の成立より、秩序の成就より、己の言動を正しいと思う頑な人々がね」
「…そんなひどい人が?」
「そうだ。でもね雛、彼らを一概に悪いものにしちゃあいけないよ」
「どうして?」
「後々、彼らの本当が正しかった、なんてこともあるからさ」
「本当?」
「ああ。そうだよ。だから本当と嘘、それをコインみたいに表裏一体、と考えちゃあ駄目なんだ。それが本当か嘘か、もし君がその答えに迷ったら」
「迷ったら?」
「自分を信じればいい」
「なにそれ?」
「それでいいんだ。だから雛、大人になるって言うのはね、責任を持ってそれが本当か嘘か、見極められるようになるってことなんだよ。いい?」
「ポンティ、まるで先生みたい」
「ハハハハ、そうかもね」
そういって当時のポンティはマスカット色の目を細めた。
そのときの私はその話をあまり重要な事と思わず、小難しい事を考えるんだなぁポンティはと感じた程度。けれど今になって頭にはこの会話が何度も巡り浮かんだ。
しかしポンティの言わんとしていたことがわかるように成ったときにはすでに大人で、私は本当と嘘の分別として責任を持てる大人になったのだろうか?
わからない。
だけど答えてくれるものは居ない。
ポンティ。
心の中でなんど呼ぼうとも、彼はもう居ないのだ。




