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博士は一瞬、ムッとした表情を見繕いながらもすぐに解き、リラックスした様子で語りだした。
「といっても、ぼくは計算的神経科学の専門じゃあないからね。これ以上、脳の獲得的なアルゴリズムについて、どのように偉人を認定するかなんてことを討論し続ける気は無いよ。いわば、もっと形而上学的な、そう、それはだね。彼らにとって、どうして、”それが最適の理である”として、入力をされているのか?それを知りたいのさ」
「まあそれだって、一種の計算的神経科学の、ひと概念だろ」
「なんだい?きみはまだ怒っているのか?」
「ったく、当然だろ!」
猫はプリプリした様子で、博士に鋭利な声を向けては食いかかる。
「ピザを忘れたぐらいで、そう怒らなくても…」
その言葉がさらに起爆剤となったように、「そんなこと!?」と猫は声を裏がした。
「頼まれたピザを忘れるやつがあるか!まったく、ひどいやつだなあ!あんたは!!」
「それについてはもう、十分に謝っただろ?ほら、その代わりにパンを買ってきてやったわけだし、好きだろ、これ?」
そうして呈するのは、卓上に乗せられたクリームパン1個。ついでベーコンエピの二本。それは交差して置いてあった。
「はいはい、なるほどね。エピをクロスして置いて、「はい、これがほんとのエピクロス」なんて、言いたいのか?それじゃあ、胃袋を満たさせて懐柔させようって言うことの、もしくは、こいつは腹いっぱいになればそれでもう満足だろう、と卑下する皮肉かい?」」
猫は憤慨した態度で、捲くし立てて言う。
「それは深読みというものだ!」
「へえほんとにそうかい?」
「あのう…」
二人の口論に再び口を挟んで中断させる必要性を覚えると、控えめに声をかけた。
「ああ、そうだ。言い争いこそ、すべきでないからね。自分の言葉に呑まれるところだったよ。ねえ?」
ようやく落ち着いた様子で、博士は猫に目配せを。
けれど猫は「ふんっ」と顔をそらして、つっけんどんな態度。
はあ、と呆れを示す溜息のあと、博士は私に目を向け、口を開いた。
「”無”から”有”は生まれると思うかい?」
「生まれない、と思いますけど…」
「例えば、リンクについて考えてみよう。もちろんそれは”リング”のことではなく”リンク”。つまり”他の情報との結びついていること”を指し、オンライン上においては、他の情報との関連・結びつきのことだ」
「それが何です?」
「あるウェブページのリンクから、新たなページひとつを孤立して派生させたとしよう。ではここで質問だ。このリンクから派生させたページ。これは何から生まれたことになるかな?」
「それは、元のページですよ当然です。だってそれは、元のページのつながりから、辿って出たぺージなんですから」
「けれどそのページを戻るにしても、それは戻れない。戻る先がないからだ。それは個として、ただ独立して存在している。ただこれでは、これを当然、無から生じた有とは呼べない。情報のつながりであって、その楔からの切れ端として生まれたとしても、それは脈略を受け継いでいるのであり、当然、そこに表示されるデータは、そこですべて新として生まれたわけじゃない。もっとも、生まれたのだとしても、それはウェブページの胎児であって、それは”リンクもとのページからにおける子供”という概念と名付けても、そこまで的外れじゃないだろうね。ということは無から有は生じてない。だけどね、無と認識できる存在からは、有は存在する。としたら?」
「はい?」
「”彼は居なかった”ではなく、”彼は居るはずがなかった”。この違いはわかるかい?」
あいまいに首を振った。
「”彼は居るはずがなかった”。それは”彼”の存在性を絶対的に否定しながらも、同時にその存在を確証させる。つまり、無いことを訴えることでその存在の証明を行っているんだよ」
「それって…つまり…」
唾を飲む。
何が言いたいんですか?
そうした言葉を出す手前。相手のほうが素早かった。口を開くのは。
「”無”が存在しないことをあるとして、その概念を認識できる。そこには確かに”有”としての意識が、”無”に包括されているんだ。無は、有を持っているんだ。とんだ誤謬に思えないかい?そうは思わない?だろうね、実際におかしくはないのだから。いい?つまりは、」
「無からは、有も生まれるってことさ」
猫が言った。いいところ取りで、口角を上げ、したり顔。
「あっ!」
と博士が言うもとき遅し。ときおすし。なんていわんばかりに、「まあまあ」と猫はそのおすしのしゃりみたいな手の先を、博士に向けては仰いで咎め、落ち着かせようとする。満足そうな顔。
「それでね」
猫は私に眼をくれる。
じっとその目を見つめた。
ヒスイ色。
黒目が少し広がった。
「ゼロは、その認識としての零を持ちえた時点で、それは0から何だって生み出す可能性を秘めているのさ。それに気づいていないだけでね。けれどここが一番に重要。いいかい、一度だけ言うよ」
そして猫は「言うよ?うん、そうか。言うわけか」
といって、自分の言葉がジョークのように、自分の言葉でクスクス笑ったのち、
目配せして合図をしてくる。その一瞬を見逃すなよ、と言わんばかりに。
「 」
それから猫は口を開いた。
ただ、それは私の不注意か、もしくは意図的だったのか。
そのときの私にはわからない。
ただ唯一わかったのが、開いた口が何も音を聞かせてくれなかったことであり、
そして目迷う既視感は、他の猫の姿をトレースして目の前の猫に重ねて見せたことだった。
私は壱つのことしか、その瞬間にはわからず、
二つのことが、そのときにはただわかっていた。