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「あのう、この子に名前はないんですか?」
「ああそうだ!名前がないのが、名前なんだ!」
博士に問うも、猫が反射的に答える。そこで目を向ければ猫、鼻息を荒くしている。
「なにそれ?じゃあ呼ぶときは、”アンノウン”でもすればいいの?」
「いいや違うよ!だって、見えているでしょ!わかっているでしょ!何かって事は!」
「まあ確かに…ね。でも、不便じゃない?」
「ぜんぜん!寧ろ、だからこそ、自由だといえるのだからね!」
ふんぞり返る猫。
そのままブリッジでもできるようなら、少なくともいくらかの小銭は稼げそうだ。
「じゃあ、”フリーダム”、もしくは”アナーキ-”とでも、呼ばれているとか?」
「だから違うんだって!僕は自由であって縛られない。ゆえに、僕の名前は」
猫はすぅーと息を吸って若干腹部を膨らませた。
「 って、わけさ!」
「…それが名前?」
「そうだよ!驚いたかい!」
「驚いたも何も…」
それはつまり名前がないということなのじゃあ…として、呆れるようにハッとする。
「それが、つまりは名前、名無しの名前、っていうことなのね」
「そういうこと。ようやくわかってくれた?」
猫は満足そうにニヤケて頷き、ピンと張ったヒゲを微かに揺らせた。
得意げな表情に目は細まり、ここぞとばかりに慎重に手を伸ばして…
「お二人さん、話し込んでいるようで悪いけど、」
声が割り込み、そうっと向けられていた手は止まらずを得ない。
綿毛みたいな触感は得られず舌打ち代わりに目を向ける。
二人の視線が注がれ、博士は前置きのように「こほん」と咳払い。
それから構わず話を続けた。
「見る、とはどういうことかな?」
突拍子のない問いに対する抵抗も生まれては、
「入力された信号を視床から大脳新皮質へ中継された後に、そこから生ずる認識する意識の結果、なのでは?」
と便宜的にも答えた。博士は小さく二度、頷いた。
「まあ大雑把に解釈すればそんなところだ。けれどそれは、認識、ということに他ならない。脳は、その目を通して光を受け取り、その信号を脳が受けとって解釈をする。例えば、ああこれはピザだ、みたいにね」
そっと視線を片隅に詰まれたピザの箱に向けて言う。
「だがね、そこで疑問を挟むべきだとすれば、それはすなわち、何を見ていたか?という事に他ならないだろう。では、人は脳を通じて、脳は目を通じて、物を見る。捕らえて認識をする。じゃあ、目そのものは何を見ているのか?」
「それは…見ているのではなく、光を捉えている、と言いたいのですか?」
「ああ、そうだろう。けれどね、じゃあ脳が消えればすべて認識できないと、きみはそう思うのかな?」
「もちろんです」
「そしてきみはこう思うはずだ。「脳がない状態を原理として想定することは不可能だ。なぜなら、脳がない状態では思考もできないのだから。そのような状態では思惟することも当然できなく、気づくことさえも範疇の外。ゆえに、そうした推論は無意味である」とね」
「…違うんですか?」
「ぼくは経験主義的ではあるけれど、無秩序者でもない。だから実際に試そうとか、そこまで狂気染みちゃ居ないよ。けれどね、もし脳が存在しないとしても思考ができる、とすれば、その思考はいったいどこから生まれてくるのかな?」
「そんなこと…馬鹿げています!そこに思考は存在しません!それに、」
「それに?」
「…自分でおっしゃっていたように、それは確かめようのないことです!だから、」
「机上の空論だと?」
「…はい、そのとおりです」
博士は私の反論、言おうとしていることがすべてわかっているようだった。
その上で語り出していたのだ。
「なるほど。試せないのであれば再現性もなく、実際の現象としての確信は有り得ない…確かにそのとおりだ。けれどね、史実として、それがあったとするなら?」
「えっ?」
「脳がないやつが喋った、と言っているんだよ」
「あるわけないです!それはきっと夢、もし聞いたというなら夢ですよ!もしくは幻聴です!」
「ではぼくが今…」
そういって博士は右手で自分のこめかみ辺りを覆うようにして触る。
「この中が、空っぽ、だとしたら?」
「えっ?」
「見せてあげようか?」
左手はピザカッターを持っていた。それを右手で支えた頭に近づけていく。
当然、ピザカッターのような貧弱な刃では、頭皮を切り裂くことなどはできない。
それでも場の雰囲気に気圧され、私の身体は微々として震えていた。
頭皮に触れようとするところで左手は止まる。
「冗談だよ、本気にしたかい?」
「…ぜんぜん、まったくです」
「おいおいふてくされないでくれよ」
「ふてくされてなんかいませんから!」
「悪趣味やろうめ…」
猫がつぶやいた。
「とにかく、ぼくがここで言いたかったのは、脳と存在とその役割についてさ。きみたちはずっとこう思う、脳が外来からの刺激の伝達を受け取り処理を行い解釈をする。それを「認識」と呼び、意識の根源であると思い込んでいた。そうだろう?けれどそれは、どうしてだろうね?」
「生化学的、脳科学の見地」
猫が棒読みのように答える、ホトトギスみたいに均一な声で。
「それを実証するデータが生まれたからさ。けれどここで偏見が生ずる。いいかい?そのデータを正しいと認識する、それとは、なんだい?」
「…頭脳」
「そのとおり。つまりは「脳」だ。あれれ、ここで何か「ん?」とは、思わないかい?」
「何がですか?」
少々ムッとして答える。
横で猫がこっそり微笑した。嘲笑するように。
「脳が正しく働いているかどうかを、脳が審査する。そこにどうして「絶対的な正確性」があると保障する?」
「そんなことは自明のことです。博士は、懐疑自慢でも成されたいんですか?」
「いいや違うよ、そんなことじゃあない。でもね、脳が脳を審査する。それはつまり、役人が役人を裁けるか、といったことにも通ずるなんだよ」
「…どういうことですか?」
さっぱりわからない、という風情に飲み込まれてお手上げ状態。
降参を辞さず、といった中において、次の瞬間に喋ったのは猫。
「脳がブロックをかけていたのさ。主の保全、安全装置としてね。いわばセーフティーロックといったやつだ」
三毛猫は言う。
「どういうこと!?」
狂言染みたことを言う狂言猫。もはや狂言だらけで、ここは狂気の館?
そんな折に猫は、こちらの意図など気にせずに続ける。
「嘘をうそと知覚できなければ、それを本当と思い込む。単純な原理さ。だからね、幻覚を、それ自体を、知覚できるそれがあるのだとすれば、それは脳ではないのさ」
閉口していると、「まあもしも、の話だけれどね」と猫は無邪気に言う。
次には、
「さすがにもうわかっただろう?主の保全を企てる、”主”が、何かってことぐらいはさ」
なんて、今にもその上げた右腕で顔を拭いそうな雰囲気まま、猫は暢気に続けて言うのだ。