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父は私が十六の時、自ら命を絶った。
拳銃を握り、頭部から血を流しだらしなく倒れていた。
直接に見たわけではなく、そう伝え聞いた。
実際として実感を与えたのは、第三者から渡された遺書の存在によるところが大きい。
そこには箴言のような区切られた文章が連なり、
中でも印象的だった一節。
「”死”とは何かを理解した。確かにそれは楔だ。だが解けぬほどには雁字搦めではない。故に、紐解く行為として最善と思われることを試してみるに過ぎない。中庸」
その一文のみが妙なほど私の意識を刺激し、悲しみよりも当惑。
当然のごとく、涙は流れなかった。
母もその後を追ったのはすぐ。
確か一ヶ月ほどあとだった。
誰もが後追い自殺と思い深く追求はせず、それは見慣れた光景であって、親しみのある行為ではない。母は飛び降り、遺体の散乱具合を目にしなかったのが不幸中の幸い、と言えるかもしれない。
葬式においても涙はその萌芽さえも感じさせず、ただ形式じみた一連の流れを全うするに尽き、大して感慨深くなった覚えもない。
ただ姉はぼうっとしていたのを覚えている。
肩をゆらゆらと緩やかなカーブで前後に揺らし、まるで眠たいように。
帰りには話しかけられた。
「いよいよ家族はわたしとあなただけね」
姉は言った。
「そうだね」
私は答えた。
「あなたはこれからどうするの?」
「…まだわからない」
「そう」
急に興味を失せたようにそっぽを向き、溜め息代わりに夜空を仰ぐと、見下すように視線を今度、空から私のほうへ移してきた。
「わたしはここを出るわ」
「そうなの?」
「ええ。良かったら遊びに来なさい」
そう言って姉は微笑んだ。そんな表情を見るのはいつ以来かわからない。淡い記憶を辿ろうにも、淡い記憶は鮮明となったとして、それを事実と思う確信はない。
「…何処に行くの?」
「落ち着いたら連絡するわよ。それより…」
姉は私の耳に口を寄せた。
先ず吐息が微かに触れると、背筋がひんやりする。
「あなたはもう知っているの?」
「知っている?何を?」
思わず顔を退かせて、姉に問う。その目は凛として輝いており、満月を宿したような目の輪郭は優美で綺麗だった。
「もちろん、”死ぬ”ってことが、どういうことか?ってことをよ」
私は唖然としたように姉を見た。私の情緒に敵意はそこになく、恨めしくもなく、ただ真っ白な壁に微かに存在する染みを見つけてはそれを純粋に眺めるように。
頬にまた薄っすらと笑みを残し、口角を微かに上げ、そして呟いた。
「大丈夫。わたしはまだ「試そう」なんて、気はないから」
そのときの私は緊張をしていた。
鼓動が高鳴り、けれどその情緒を明確に説明できる術を持ち得ず。
安心?残念?不安?恐怖?安堵?憤り?
どれもが正解でありまた不正解。
自分のことなど、自分が一番よく知らない。
「お、お姉ちゃんは…」
「ん?」
私の口は意思に逆らうように、自ずと言葉を続けていた。
「”死ぬ”ってことが…”死”って何か、知っているの?」
すると姉は「ふぅ」と地面に向って嘆息めいた息を吐き、
「猫から教わったのでなくて?」
と訊いてくる。
「ポンティから?あの子は何も…」
「言わなかった?」
私が頷くと、姉は、あっはっはっは、とそこで声を上げて笑った。
「やっぱりね!」
一旦、収まりかけた笑い声。その狭間に姉は言い、それから再び、背を若干、仰け反らせて口を空に向って開け、大きく笑った。
「…じゃあ、わたしはもう、行くから」
ようやく笑い終わると、姉はまるで静観していた様に表情を戻し、それから私へ窄めた目で一瞥。
声をかけてくると背を向け、歩き始めた。
私はそこでもう、二度と姉に会えないような気がした。
ポンティのときと同じような感覚、重なる既視感。
けれど「待って!」とはその背中に声をかけられず。ただぼんやりとその背中を見送った。
「あ、そうそう」
一度だけ、姉は振り返ると口を開いた。
「一度だけ箴言してあげる。あなたは…」
遠くを見つめるような視線に、私は透明となりその場に居ないような心境に苛まれる。
それから生気を取り戻したようにこちらを見据え、
「猫の云わんとした事を理解し損ねているみたいね?」
私は黙って頷いた。
「そう。やっぱり。まあいいわ。それでもいいと思うわ実際。でもね、あなたはそれでいいの?」
「私?…ポンティの意思は知りたい。でも、何も言ってはくれなかったから…」
「ほんとうにそうかしら?」
「えっ?」
「もう一度、じっくり考えてみるべきね」
そう言って今度は振り向かず、去って行く。
けれど今度、私はその背に目を向けず、意識を過去へと向けていた。
焦点を、一匹の猫に当てようとして。