53
ポンティは実際、賢い猫だった。
あれは私が十三歳のとき、ポンティと一緒に僅かな冒険に出た。
理由なんかは特にない。
ただ、闇雲に出歩きたかったのだ。
私もポンティも。
だから一緒に出かけたのも偶然のようなものであって、気づけば横一列に並んで同じ方向に進んでいた。
「ねえ雛、あっちに行ってみようよ!」
私は「うん」とだけ答えて、ポンティは私のことを普段は「雛!」というけれど、何か要求があるときなどは決まって「雛尖ちゃん!」や「雛尖さま!」などと口得意げに言うのだ。調子のいいやつ。
その日もいつもとなんら変わらず、冒険といっても近所の少し先、未知のあぜ道を少々歩いては互いに水浴びするみたいにきゃっきゃっして、それで帰ってくるという冒険もどきの行為にしか過ぎない。
ただ、その日は何か違った。何が違った?目に見えるもので答えるなら、いつもより日暮れが少しだけ早かったのかもしれない。
それとも、私たちが向った時間がいつもより若干遅かったのかも知れない。
今となっては、明確にはわからない。
日暮れに照らされた竹林は黒みを帯び始めて先は容易に見渡せず、足を踏み入れたことに何の意図もない。
自宅と呼ばれる建屋に対しての、居心地の悪さを萌芽させ始めていたのだと思う。
自、と付くが、そこには確実に私と言う”自”が存在し得ることを許可しないような、疎外感こそ豊富にあった。そのころから既に、私は目を合わせようともせず、そうしようとも思えなかった。
元来からの気難しさが育ち、勝気な無口はただの傲慢に過ぎない。
ただ私は姉ほどには器用ではなかったのだ。
ポンティとは共に歩いた道すがら、色々と喋った。
「ねえ、死ぬって知ってる?」
私が何気なく訊くと、ポンティは反応するように尻尾をピンと立ってた。
「死ぬ?死のことかい?」
「うん、知っているの?」
「当然さ!現に僕はそれを物語っているのだからね」
「なにそれ?」
「言葉通りの意味さ」
「ふーん」
そのときの私には正直、何のことかまだよくわかっていなかった。
けれどポンティは違った。
彼は、自分の繋がれた鎖のことなど熟知していたのだ。
その日、私たちは気づかぬ間に、私有地に入ってしまっていた。
そんなことにさえ気づかないほどには愚鈍で、ポンティも珍しく警戒を怠っていた。
だからこそ、あんなことが起きたのだ。
警備用のアンドロイドは容赦なく、ポンティを打ち抜いた。
私の目の前で。
人間に対しては発砲せず、警告文を口頭で注意するのみ。
私は慄きもせずただ漠然と立ち尽くし、目の前の光景を受け入れようとしていた。
意識が痙攣するように先ほどの光景が幾度も繰り返し、繰り返し、脳は私に映像を押し付け、見せつける。
拒絶のしようがなかった。
そのあっけない死は、次に、昆虫の死を映像として想起させてきた。
蟻、飛蝗、蜻蛉、蝉、甲虫…。
それらの死は、己ならずとも目撃はしていた。
しかし、そこに哀れむこともなければ、慈しむべき感情を抱いたこともない。
猫の死は、初めての感情を私に植え付けた。
虫に愛着が沸かないのは、おそらく喋らないからだと思う。
だからこそ意思の疎通もできないし、相手が何を思っているかなんてわからない。
だからもし、虫が言葉をしゃべるようになれば、おそらく人は今までのようには虫を殺せなくなる。
ポンティは、私にとって大切な家族で、必要な友人だった。
だけれど私は泣かない。
泣きようがなかった。
理不尽な場面に対してどう対処すればいい?
幼い私はその術を知らず、ただし、泣いたところでどうにもならないということばかりは、反面教師から存分に学んでいたのだ。