52
冷房機が役目を終えポンティの毛も実りを見せ始めた頃の事。
ひとりで夕食を済ませた後にシャワーを浴びた。
身体を洗い終えてお湯を止め、出ようと換気の窓を少し開けたとき。
そのとき、外界への隙間からは初冬を思わせる冷気に混じり漂うシチューのような香り。
迷い込むように入り込んできた暖気と冷気を混合したような空気は、火照る身体に冷水を浴びせ、心拍音を聞かせるように情緒をかみ乱す。
その空気は微かな間、私を混乱させた。
シャワーを終え、部屋に戻るとベッドの上に。
寝転ぶわけでもなく、のぼせたように何もせず座っていると、
「どうしたの?」
微かに開いたドアからポンティが入ってくる。
ベッドと床との段差がある手前、前足を揃えて座り、尻尾を角みたいにその先っぽを頭上の真ん中に振り立てて見せた。
「うん…ちょっとね…」
何も考えないつもりでいながら、捉えられた情動から逃れることは難しく、匂いはせずとも嗅覚が強固に固執し記憶していた。自分を抱きしめるように、今度、私は身を縮めて座った。
「へんだよ?」
ポンティが無垢な声で訊いてくる。
「うん…」
ただ頷くように答えた。それから真ん丸な目を見つめて
「ねえ」
と声をかけた。
「なに?」
ポンティは微かに頭を横に傾け、こちらをじっと見つけてくる。
私が目を合わせても逸らすことはなく、にらめっこのようになっては互いに口を利かず、ただ沈黙のまま見つめあった。
その勝負に時間はあまり用いず、私の負けで目を逸らすと、それは言葉を発する踏ん切りをつけるきっかけでもあった。
「家出しよ?」
「えっ?!」
逸らした目を戻すと、ポンティは大きな黒目をより大きく呈し、前足を乗り出してベッドに着き、立ち上がっては「いったいどうしたのさ!?」と、尻尾を蛇みたいにくねらせながら言う。
「理由が必要?」
「当たり前だよ!」
ポンティは語尾を強めると、咎める様に目を細め、それからぴょんと末端から飛び移るようにベッドに上がってくると、目の前に対峙するように座る。
「理由は?言ってごらんよ」
「…なんとなく、かな」
「なんとなく!?」
それじゃあ、やめてくべきだよ!
ポンティは呆れるように、ふぅ!と鼻息を鳴らし、それから窓のほうへ目を映した。
「今から出かけたら、心配するよ」
「誰が?」
「誰がって…」
そこでポンティは口ごもり、一瞬言葉を詰まらせた。
その後すぐに、思い直したように口を開けると「家族に決まってるじゃないか!」
私はふふ、と短笑をもらす。
「心配する訳ないじゃない」
「どうして?」
「だって…」
私が今度、窓の外に目を向ける。
若干の、人工雪とも見て取れる塵が降って見えた。
「…みんな私に興味ないじゃない」
「そ、そんなことないよ!」
「どうしてそういえるの!お父さんは全然帰ってこないし、お母さんだって、私たちの面倒を見ようとさえもしないじゃない!」
「それは…」
その…、とポンティは言葉を詰まらせ、次には項垂れるように首を下げ、粒子の虫を探すようにベッドのほうばかりを見つめ続ける。尻尾は枯れた睡蓮のように萎れていた。
私は猫相手に言い過ぎたことをすぐに悔いた。
「…ごめん、ポンティ」
謝ると猫はすぐに顔を上げる、無言で首を横に振る。
それから窓の外に目を向け、
「…行く?」
と、燦々と降るものから目を放さず、猫は小さく呟いた。