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「んぉ~い、もう、起きろよ!」
布団を弱々しく揺さぶられながらも微かな振動を感じて目を開けると、眼前には看病するかのように横へちょこんと座るポンティの姿。
「わかってるよもう」
邪険に寝返り打って背を向ければ、
「んもぉ~う」
ポンティは溜息交じりのような声を出す。
ポンティはわたしが十一歳のときに家へ来た猫で、昨今では既にあまり稀有ではない種の喋る猫。
尤も、来た当事は珍しい品種であって、それは父の研究機関も関与していたらしく、故に早々にそうしたうちの一種を譲ってもらえたわけだ。
フルネームはネロ・ポンティ。
メインクイーン種。銀と黒の毛並みを基調としながら、腹部にかけては淡いクリーム色が覆い、わたあめのようにふわっと、している全身の毛並みが特徴的で、布団に入るのを拒む春の訪れには黒ごまムースのような塊が毛として乖離する。
彼の名前をつけたのは父と母。
それぞれ、父がネロ、と名付けて、母がポンティ、と名を付けた。
父が”ネロ”と名付けた理由としては、一代目が初めて(うちに来たのは三代目の種)喋った言葉が「寝ろ」だったらしく、そこから付けたとのこと。
ちなみに母のポンティは、たまたま父の書斎で開いて落ちていた本を拾った際、そこで目についた名前だという。
わたしにとっては当然どうでも、どっちでもよく、呼びやすいほうの名を選択するのは当然の帰結。
それでも「じゃあなんで長いほうを?」と問われれば、それは一種のこだわりかもしれないということは否定しようがないけれど。
「どうだ!すごいだろう!」
父がはじめてうちにポンティをつれてきたときのことはよく覚えている。
彼は夕食の主役座に置かれ、その小さな体に不似合いなほどの大きな瞳を左右に不安げに泳がせ、それから首を傾け「にゃあ」とは鳴かずに「ここどこなの?」と、父に目を向け震える声を聞かせた。
父はポンティの頭を撫でながら「大丈夫だ。今日からここがお前の家だよ!」と珍しい表情で言う。
その日の晩餐の父は恐ろしいほど機嫌が良くて、ニュースを読み上げるキャスターのように言葉を途切らさず饒舌に言葉を発し続けては興奮を抑えるように冷水を何度も飲んでは空にし、私たちへポンティのことを解説し続けていた。微酔したように薄っすらと薄紅色に火照る頬の色、匙よりも口を主に動かす仕草に嬉々する意思を示しては、私にとって初めて見る父の姿であり、まるで子供のようだった。
「ねえ、この猫ちゃんはどうして言葉が喋れるの?」
姉が言葉を挟むように訊ねても父の機嫌は損なわず、
「いい質問だ!いいかい?今回の研究はFOXP2遺伝子の操作から始まり、変異させる時点ではまだ容易であった。だが難しかったのはここからだ。猫には喋る為の舌と咽頭がないからね、だからどうしたと思う?びっくりするだろが、なんとオウムの…」
父は手のジェスチャーを交えながら雄弁に語り、姉は横で興味を示す風に、うん、うん、と父のほうをまっすぐ見て、見据える素振りをして、所々で「へえ!」「すごーい!」とまるで理解しておらず、理解する気もないくせに、大げさなリアクションを示して見せるのだ。まだ十一歳なのになんとまあ、あざといのだろうか。と下心に思いながらも声には出さず態度にも表面だって浮かばせず、辟易に飽きたように私は静かに席を立って小猫の横に行き、「こんにちわ」と声をかけた。
「…きみは?」
小猫は震えて今にも消えてしまいそうな繊細な声を出して、不安げにその葡萄の実を思わせる眼球を私に向けると、三日月のような瞳孔が上弦のように広まり、小さな尻尾が静かに波打った。
「怖がらなくても大丈夫よ!」
そう言って頭に手を置き、父の書斎にある古風な繊毛の埃払いのようなフサフサとした感触が手につき、滑らせるように静かに動かす。
一度。二度。強張る小猫の小さな身体が徐々に緩和するのを微かに感じ、背中のほうにまで手を滑らせる。
「ひゃあ!」
小猫は驚いたような声を出し「ご、ごめんね」と私は反射的に謝った。
「…大丈夫」
涙袋を膨らませたような表情で私に目を合わせると、気丈を装って言う。
「抱き上げてもいい?」
訊くと、小猫は少し黙り込んで椅子の座り心地を確かめる如く項垂れて若干、真下を見つめた後、
「…いいよ」
と言った。
「ありがとう!」
そうして腕の中に抱き上げると、小猫の背中は下を向き中心に。毛むくじゃらな体は酷く強張らせていたけれど徐々に緊張をほぐして感じ、次第に「ごろごろ、ごろごろ」とした、瓦解する喉音を鈴のように聞かせた。
「これからよろしくね!」
「…うん」
私の腕の中でおなかの全体像を見せながら、小猫は口を窄めるように顎を沈め、気恥ずかしそうに頷いた。
これが私とポンティの、出会った最初の夜のこと。