35
メディが喋る数字をアイリスが運転席で入力し、仕上げにタッチパネルをいくつか触ると、パトカーは自動で走り始めた。
閑静な道路、といって的確なほど車の行き来は皆無であって、このパトカーの独擅場と呼べるほどには邪魔がない。おかげで事故の心配もなければ、目的地までもすぐさま到着し、それは徐々に緩まるスピードから察し、窓の先に見えてきた建物には見覚えあり。
「パン屋さん?」
思わず漏れでた呟きは「そうみたい。まさかこことはね…」といった、アイリスの返事をもたらした。
彼女は同時に横でいくらかパネルをタッチし入力をすると、パトカーは店の前へと横向きに停車した。
我先に、といった勢いですぐさま下りて店内のほうへと向う。
扉を開けるとチリン、チリンと大きく鈴の音が揺れて響き、中の様子を目に入れた瞬間、息が詰まる思いに駆られた。
…店内の様子は特に何もない。
荒らされている事もなく、一見して異常な点は皆無。
今朝に寄った際と、変わらないように見えた。
「あーいらしゃいませ」
今朝と同様、赤毛の女性店員がけだるそうに声を出し、
「通報があったんだけど、どうかしたの!?」
とアイリスがショーケースのほうへ駆け寄り声をかけると相手は「はあ?」と眉を動かし上擦った声。
「通報があったのよ、このお店から!」
「いえ、私…通報なんてしてませんけど…」
女性は視線を斜め下に逸らし、けれど矛先にあるパンは目に入ってないように空ろだった。
「そんなはずは…ないんだけれどねえ」
雨漏りを受け取るように手を水平にかざして、アイリスは困惑したことを示すような動作を伴い喋り、次に振り返って、雛尖が抱くメディに目を向ける。
皆の注目が集まると機械猫は、
「たしかにつうほうあり。たしかにつうほうあり」
と繰り返す。
アイリスはもう一度、確認するように店員へと視線を投げるも、相手は首を横に振った。
「はあ…ったく」
身を翻して雛尖に近づき、抱き抱えられているメディの目線に合わせてアイリスは膝を折る。
「まったく、しっかりしなさいよ!このポンコツ!」
「ぽんこつじゃない。ぽんこつじゃない」
「じゃあ、あんた、中古かなにかい?」
「ぼ、ぼくはちゅうこなんかじゃあないぞ」
メディは初めて感情をあらわにしたような口調を呈し、本物の生き物のように「ふー!ふー!」と息を荒くする仕草をそのまま言葉として出した。
「ま、まあまあ」
雛尖が双方に視線をやって仲裁するように声をかける。
それからメディの頭を撫でながら「そういうこともあるよね?」と慰める。
しかしメディはアイリスとの睨み合いに敗北を喫した如く顔を少しうな垂れ、口篭った。
わたしはそれらやり取りを横目にしながら一歩進み、前へ向きなおしてパンの並べられているショーケースに目をやった。
ケース自体に外傷はなく、何かトラブルがあったようには見えない。
次に視線をずらしていき店員さんへと目を向ける。
彼女はメディとアイリスとのやり取りへ視線を向けながら、左右の手は腰元で組んで合わせており、左手は右の手首を掴んでいる。しかし注視すれば左手はさするようにしており、見え隠れする右の手首付近。
微かに青ずんだ箇所がチラッと視界に映る気がした。
痣?
訊こうとする時、店員女性はこちらの視線に気づいて目を合わせ、ほんの少々会釈するように頭を少しだけ下げてきた。それは腕を後ろに回す動作に付き添い、「あの何か?」と顔を上げた後にわたしがまだ見つめていると訊いて来た。
「ほんとうに、何も問題は起きてないんですね?」
「…ええ、はい」
店員の女性は初めてはにかんだ笑みを見せ、小さく頷いた。
「ねえどうせ来たんだから、何か買っていきましょう」
とアイリス。
「賛成!」
その提案に雛尖ははしゃぐ様子で同意し、しかしメディは彼女の腕の中でまだ落ち込むように顔を下に向けたまま。
「わざわざ来てもらったみたいですし…」
それを聞いた店員の女性は、素早くショーケースからいくつかパンを取り出し紙袋へと詰めると、その膨らんだ紙袋をこちらに差し出し、「売れ残りですけど、よかったら持っていってください!」
思いがけない展開に目を丸くしたアイリスが彼女と向き合い「…いいの?」
と切符を所持した上で乗車するように訊ねる。
「ええ!是非どうぞ!」
「わるいわねえ…」
そう言いながらも瞳の奥からは歓喜の情念がふつふつと姿を見せ隠れさせてており、その姿はもはや、はみ出して見えたほど。
「じゃあ、ありがたく頂くわね!」
袋へ伸ばした野暮っぽい手は遠慮なく袋をつかみ受け取り、「何かあったら今度こそ通報してね。またすぐに来るから!」とご機嫌な声を残して背を向ける。
事件ひとつを解決したような満足の表情を示すアイリス。
いいや、実際の事件解決の現場に遭遇したことがないわたしにはそれが適切な表現かはわからない。それでも前世紀の刑事ドラマなどで見た、屈託のないその笑顔は事件解決時によく見られるものだった。実際、ドラマにおいてその笑顔の持ち主が警察だった場合のみではなかったのだけど。
「わかりました。またお待ちしていますね」
女性店員は抑揚のない声でわたしたちを送り出し、店を出る際、わたしは少し振り返って彼女の顔を少し見た。ショーケース越しに立つ彼女の、最後に見えたその表情は、視線を落とすように俯き、目を窪ませて涙を溜めているように思えた。
「でも、どうして本当に誤報だったのかしら?」
パトカーへ戻って助手席に着き、横のアイリスに早速訊ねる。
わたしの疑問に興味なし、といった風体で彼女はさっそく袋からカレーパンを片手に持って出し一口かじると、ほお張りながら後部座席を指し「さあ?あの子に訊いたら?」と、口をもぐもぐさせながら言う。
「メディちゃんは悪くない!」
今度、雛尖は機械猫を人形のようにギュッと抱きしめるような形で居り、メディは腕と胸に圧迫されて少し苦しそうにさえ見えた。
「ぼくは…ぼくは…」
機械猫は繰り返す。自己の誤認識を自己で確認するように。
「さあて、今からどうしたものかねえ」
アイリスはカレーパンをほお張り続けて、そのひとつをちょうど食べ終えたあたり。
パトカーの外、前方から言い争う声が聞こえてきた。




