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五
こんな小話を耳にした事がある。
ある科学者が飲みの席において、冗談半分にこう言った。
「既に口頭で文字の入力が可能なのだから、プログラミング言語としても口頭で入力、いいや、いっそのこと、人間の言葉そのままがプログラム言語にならないだろうか?」
それを聞いていた他の科学者が、つい口を挟んだ。
「人間の話す言葉そのままで動くプログラムがあるのだとすれば、それはもう人間だろう」
私はこの話に深い示唆を感じていた。
泣く事を忘れたのならば、笑うだろう。
重要なのは、立体文学の限定性。
名は体を表す。
しかし文章はうそをつく。
それ自体がうそをつくことはありえず、嘘をつくるのは文章を構築するそれ自体であり、文字自体がうそをつくことはない。
だが仮に、”文字自体が嘘をつかない”それ自体さえもまた、嘘の総体がつくりだしたものであるのならば。
思惟は狂気となって私を愛撫し、やさしく包み込む羽衣の毛布は温い情念を抱かせる。それが氷で出来ていようとも。
重要なのは、立体文学の独立性。
人間の思考の形成に携わるのは文字のみではない。
外層的体験が、肉体を用いる作業、経験が思考の枠組みを作る一端を担い、それは立体文学の囲いを破り出る。そのように思われた。
言語が、思考の構築を担い言語化による合理的判断、それが合理的と評する行為さえ、言語なしではありえない。それは前時代的哲学者における「言語ゲーム」を思わせたが、彼がその立場を言語外からの言語的形式の発見により脱却したように。
立体文学が相互作用、それが読み手に合わせて変容する総意の媒体だとした場合、それが読み手となり語り手となる存在が、文字にのみでは収まりきらない存在であるのだと。
気付いた時には既に遅かったのだ。
顔を上げ空を見上げ、青空という空は、私に「青空」を押し付けた。
文脈の「なさ」に「意味」を添付することは可能である。だがそこでの「意味」に共有性をもたせるためには、恣意的な処理が必要に。
そのように思われる。
仮に、私の言葉が世界を滅亡させるとする。
それは言葉によるものだろうか。
それとも、理解によるものだろうか。
立体文学が、相互理解の外延を伸ばすのではなく、統合を果たす役割を果たした。
だがそれは実際、相互的な完全理解は、「理解できていない」を示すのではないか。
理解とは知ることではない。理解とは強制力である。
反応であり、意思の有無に関せず、状態の変化を強要する。
立体文学が迫る変化は恣意的なものではなく強要する世界は、世界自体が変容するのでなければ私が相同するわけでもなく、構造される元の世界すべてが花のように花開くのを「花のように」と認識させる。
あぶく感情があまねく情念が、型枠から生まれるのではなく枠から型枠が生まれ出る。
間欠泉の如く沸く疑念は、私に文章を抱かせる。
抱かせた。
迷宮は自分のことを「迷宮」であると意識しようとも自分に迷うことはない。
喜び。悲しみ。
愛でさえも、それが強制的かつ妄信的な存在であるのだとすれば。
すべては嘘であり、「うそ」であること自体が偽りとなって存在することが出来なくなる「うそ」はすべての嘘の中に含まれるのだろうか。
だがたとえ、立体文学が記号的包括性を含むのだとしても。
彼女たちへ向けて私が萌芽させた心象は偽りではなく、統合的示唆はないのだと。
愛おしく、慈しみを私に感じさせる。
あてがわれたものであろうと誰が主張する!
一時、私は娘を呼んだ。
「なぁに?」
小さな歩幅で私の前に来た娘は幼く小動物のようであり、大きな瞳は私をじっと見つめてくる。
脆く現実の、それが現実であるのならばその重みに崩れてしまいそうなそのほっそりとした首。
その首に手を。
私は静かに手を伸ばす。
情動は嘘を象ろうとも、指図はするだろう。
「お……とう……さん?」
指が柔らかい皮膚に食い込む感覚、掠れた声は、娘の表情を表した。
「……くる……しい」
表情が歪む。私の目の前で。いたい、やめて。
声は僅かに聞こえる。それは現実だ。
流れろ涙!流れ出ることが出来るのならば!
私の目からは涙は流れない。
だがそれは、ひとつの勝利のように思えた。
ふっと、指の力を抜いていく。
赤らめた顔。ごほっ、ごほっ。愛娘は小さな身体を折って咳き込んだ。
私が笑い出したとして、それでも尚として立体文学の、それのみではない、総合からの自由は果たせたのか、それは仮にも幻想的であろうか。
私はそのとき、無表情で娘を眺めた。
そのときの私の感情は死んでいたのではなく、そのときのみは蘇っていたのだ。




