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二
その翌週には私の同僚が職を辞することになり、送別会としての食事を取り囲んでいたときの一幕は、私の内部に一時の不安と決意を抱かせた。同僚は私のひとつ年上であり、彼は都合退職とのことだったが最後までどちらの都合であったのかは明かされなかった。実際、それは些細なことであり、そのような事を気に掛けるほど彼らにも私にも興味や余裕がなかったのであろう。それでも酒を飲むぐらいのゆとりはあり、酒を飲むためのゆとりこそあったのだ。同僚は私の斜め向かいに座り黙々とアルコールを嗜んでおり、その彼の向かいに座った後輩の一人が質問をした。
「これからについては、どのように考えているんですか?」
それは意図を含まぬ質問で、天気予報の曖昧さを好む口調と大差なかった。
だが同僚はうつむき加減の顔を傾斜に起こし、眼鏡の隙間から後輩を上目遣いで睨むように目を向けると咳込みそうになりながら言葉を紡いだ。
「絶対的な真理は存在しない」
同僚の顔は赤く噦りを交え、肩を揺らしてはなったこの言葉に一瞬、ざわめきは消え、私も驚いて彼のほうを見つめた。彼は普段無口であり、概して批判めいたことを言うのを聞いたことがない。予定調和な発言を好み(少なくともそのように思えた)、その発言はエチルアルコールのせいであると。すると私の隣に座った老年の先輩がすぐさま「なるほど、ではその真理は存在しないわけだ」と口走り、それを聞いた同僚は別の色で赤面し、席に座り直すとそれを見ながら私は手元のアルコールをぐいっと飲み、彼はそれを冗談のように振舞まろうと微弱な笑みを浮かべた。そのあと彼は席を立ってトイレに行き、戻ることはなかった。だが彼がこの設けた場を抜け出て独りでに帰ったことを非難するものは誰も居らず、言ってしまえば彼はこの場の主役であって主役ではなかった。彼らにとってあれは一幕のジョークであり、人生こそもまたジョーク。彼らが虎視眈々と狙うのは革新的な注目ではなく、偏にいって運命的な笑いなのであり楽観的厭世主義者なのだから。彼らは願うように思う。この世の最悪こそ、ずっと続くのであろうとそれはおそらくずっと変わらないままにと。
年配の彼らは口に泡の髭を作ってニヒルを笑う。
「しかし」
ほんとうにそうでしょうか、と私は空になったグラスを眺め飽きると口に出しかけ、途中で止める。
それはひとつの体系としての真理に対する言及であり、その意見が彼らの目を怪訝に歪めるであろう事を安易に想像していたからであり、私の思慮の浅さを露呈することに他ならない。
”では『死』とは、真理なのですか?”
口にしようとした意見は同時に、口から出る以前に私の推敲を所望した。
私は自分のこの意見を俯瞰的に一度眺め、絶対的ではないことにすぐさま気づき、それはユークリッド幾何学における”平行線が交わらない”とした命題が非ユークリッド幾何学の発想により”空間を加味すれば平行線は交わる”といったごく単純なことからの演繹的な推論であり、稚拙な思いは酩酊思考の混濁状態であった私の頭脳にひとつの命題を与えたのだ。それは私にひとつの類似を感じさせた。ユークリッド幾何学で示された”平行線の存在性”は、ひとつ、そうひとつの次元によって、それは変わるのだと私にその場で拙く思い込ませた。二次元ではなく、三次元に裾野を広げることのみで、水平線は脆くも意志を曲げた。それは私にとって
『死は真理』
という万人の命題を、次元を増やすという加味を考えることで、『真理ではなくなる』可能性を浮かび上がらせた。突飛な思惟は幻想的で散文的な憂い嘆きを謳った詩のようで、酔い覚め後の私はそれを嗜めるかのように思われたが、実際、私は自分のこうした愚かしい考えを捨て切る気には至らなかった。それは叛逆としての意思が表象としてふつふつと沸き立ち、生命原理の根源へと立ち返る必然性を私に抱かせたことに理由があるように思われた。
人間に限らず生物は最後には死ぬ。
生き尽くす先の終着点は『死』。
それは既に生まれた時点において確定されている絶対的な事実。はたしてそれはほんとうなのだろうか?自分で自分自身の証明こそ行えないことは、すでに何世紀も以前に証明が済んでいる。ならばそれこそ、その正確性を確かめるためには閉じる系を開く必要があるのだ。
『死』もまた次元の数によって必然ではないのだとすれば?
人間は死を超えることができるのではないのか?
次元といった存在の扱いさえも、それを俯瞰できるのであれば。
私の研究とは表向きに言えば●●●であり、しかし根幹には誰にも言わぬこのような思惟が混在していた。




