8.7
数十年前、
「人間の意思決定とは、脳活動によって事前に準備されている。意識が働き始める際においては既に、大半の行動が実行されている」
とする実験結果が話題となったことがある。
その際に、上記の説を反駁する論文として脚光を浴びず埋もれたものがあった。
けだしその論文を今にしてようやく取り上げることになった経緯には理由がいくつか。
その前にひとまず、その論文において反駁をする点における重要箇所を抜粋、引用したものを下記に示す。
―すなわち、意識に先立って脳活動が既にそれを行おうとしている、それら提唱「人間の決定は、脳活動によって強力に準備されている。意識が働き始める時点までに、大半の処理がすでになされている」における最大の誤謬とはつまり、「では、その脳活動によって行われる実験結果の観察における、意識の遅延」に他ならない。それは要するに……
中略
ではここでひとつの可能性を示そう。なるほど確かに、上記の主張どおり「脳活動が先立ち、その後の身体的ならびに意識的作用は付随的である」とした場合、ではその実験としての結果を、知見する事象もまた脳活動が先行しているのではないか?という疑問が必然的に検証されるべきであろう。
すなわち、0.35秒ほど脳が先に働きかけ、意識的な意図は脳活動に遅れをとっているのであり、意識的な意図としての事象は脳における作用であり意識的なものではない。とする場合、では観測する実験結果もまた、脳作用における意図であり、寧ろここではあえて恣意的なものであると述べよう。
つまり、脳活動が先導しており、それによって意識による認識さえも遅れをとる、すなわち脳活動の一環に過ぎないのだとするならば、それは物事の理解に対する抜本的な真理性が取り除かれることを意味しているのだ。つまり……
中略
なるほど、脳活動によって理解が作用されるというならば、意識しての理解よりもより客観性を抱いているのであり、ならば科学的見方としては寧ろベストなのではないか?とする疑問も尤もである。けだし、そこで問題となるのはすなわち、そこで示される”客観性”についてである。科学的として扱う”客観性”とはすなわち、帰納的推論が用いられ同時に帰納には客観的事実が構造として必要不可欠となる。だが帰納的推論の正しさをを帰納的推論で示すことができないように、客観性に対する真理性はあくまで蓋然性、可能性の枠を出てはいないのだ。さらに”客観性”とはその存在が、”主観”以外から生まれることを許されない存在という制約が、なおもその存在性を揺るがすことは想像に容易いことであろう。したがって……
中略
つまりここでの結論としてはこういえるのである。
仮に、脳活動が諸意識作用に先立ち影響を与えているのだとすれば、意識として作用する諸行為、行動、認知や思考においてもそれらは脳活動の領域から抜け出せず、検出するデータに対する認識もまた同様にそれは認識する意識に先立ち脳活動の作用がそれを賄っている、ということになる。
すると我々が物事を理解し、認識している行為は、すなわち脳が認識させているのであり意識が認識を用いない。この仮説は各々に対する、”自由意志”や”魂”といった諸概念の存在を否定することにあらず。
それは認識としての意識が示威的であることを示す。
簡易的にも総括すれば、このようなことを言うことになるのである。
「認識としての意識は、示威的であり正しさなどは持ち得ない」
つまり我々は、今までの認識としての事象一切を、すべて<真>ではなく、<偽>としてのものを<真>であると思い込んでいたに過ぎないのである。よって……
中略
―だがでは何故、人はこれまでにおいて<偽>を<真>としておけたのか?
その答こそコペルニクス的転回なのである。
すなわち、「人間は<偽>を<真>として認識するために、<偽>を定義的にも<真>として扱うことにしたのである!」
故に、人は有史以来、こうした矛盾に対峙せず抜本的な誤謬を避けて通ることができたのだ。
けだしそのことに対し「幸か不幸か」における記述こそ、私には避ける他ないのである。
何故なら、それもまた―
文献ではここで途切れており、その先が意図的に切られた文章なのかどうかはいまさらになって知る由もない。一見して分かるとおり、この論文は論文と呼ぶに嫌悪を抱くほどには稚拙であり、支離滅裂としており反論するどころの話ではない。
にもかかわらず、この論文(一応形式上にも)が昨今になり一部で注目を浴びるようになった理由には、その一端にも注目すべき真理性があったからに他ならない。
寧ろ現実の人間というのはより功利的であり、その真理性とも言えば高名だが、実際には現実のトラブルにおける解決に後光を差し込むための架け橋になる可能性を見出しからに他ならないからであろう(このような前世紀的言い回しが思いがけず上記の論文の影響だとすれば、それは悲しい誤算だ)。
だがそれでも尚、この論文が示す事柄において、注目すべき点は「人間意識としての認識作用における誤謬性と真理性に対する妄信」、それと「観測を結果と捉えるべきか?」と疑問定義した部分。
そして―
おっと、このレポートの提出としての文字制限に引っかかるので、あとひとつだけ。
朗報的に思えるであろうことをここに記して”終わりよければ、すべてよし”という風にでもしよう。
安心してほしい。今のところの見解においては、
「自由意志の存在はある!」
とする意見が主流だ。
尤もそれは「今として」だということには当然であってあしからず。