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窓の外が急に騒がしくなってきた。
それでも僕は顔を前へと向き直し、彼女の顔を見た。
しかし視線はそれらのほうへと向けられ、興味の対象を僕は取られていた。
曲線美を見せる横顔を見ながら、僕は言葉を続ける。
「つまりだ、もし”楽しい”とか”面白い”、”つまらない”とかそういった主観的意識も、可能性としてはそれが、他者の存在によってのみ存在し得ていたとしたら。ってことなんだけど……」
えっ?と彼女は微かに前髪を揺らしてこちらを向いた。
「ごめん、よく聞いてなかった」
僕はため息代わりに質問をする。
「”他者の他者”、いわゆる”他者”が自分を定義づける存在としてある。じゃあそこで、”他者の他者”が自分としての他者を示す場合、そこには客観的な他者としての自分と同時に、主観的な自分が居るよね?」
彼女はゆっくり頷いた。それから触れ合う視線が真剣な眼差しに見えたのは、彼女の口がしっかりと閉じると見えた口元にあるほくろのせいだ。
「それで?」
「だからさ、僕は言いたいのはつまり、たとえで言えば”自由”っていうのが”不自由”という存在があるから成立するように、他者の存在がまた自分という存在を確立させている」
僕の言葉に彼女は呆れたように目を丸くし、それから飲み物をストローで吸い込む。僕に向けて吐き出すかのように思えたけれど、無事に液体は彼女の喉を揺らした。
「今更そんなこと?」
「違う、違うよ」
あわてて弁明するのは、もちろん続きがあるからだ。
「要するにだ、ここで僕は言いたいのは、さっきのたとえの”自由”、”不自由”にしろ、それは対立する概念があってこそ存在する概念ということを前提に、もし”面白い”や”つまらない”といった、個人的な主観的概念も、それと同様だったら?ということを言いたいんだ」
「それってつまり?」
彼女はようやく興味を惹かれたように少し、僕のほうへと身を乗り出した。
「だから仮に、きみが何か遊んでいて”面白い”って最初、思うとする。けれどずっと同じことをしていると”つまらない”と思うようになる。でもそれって、もしその感情さえも実際には、自己自身の内から生まれるのじゃなくて、他者、としての存在が存在しているからこそ生まれるのだとしたら?」
「そんなことはないわよ」
彼女は一蹴するようにぷっと吹き出して笑う。
「だって、私が何かやっていて面白い、と感じたとしましょう。でもそのうち飽きてきて、ああつまらない。そう思う。でもそれが、他人の存在があるからこそ、そう思うかと言われれば違うと思うわ。だって、仮に私だけしかそこに居なくても、同様のことを思うと思うから」
「でもね」
僕はあえて相手の意見を遮る様に言葉を挟む。
「他者が存在しなかったとして、本当に絶対的な孤独状態があったとしよう。そのような状況においても尚、”つまらない”という概念は生まれるだろうか?」
「それは生まれるんじゃない?だって、面白いってことは好奇心を刺激すること、であるとすれば、誰だって楽しい気持ちが面白いと思うだろうし、そのときの気持ちを基準に、心を弾まないことを”つまらない”、そう思うんじゃないかしら?」
「なるほど。確かにそうかもしれない。でもその”面白い”と相反する”つまらない”とする気持ち、それらを認識する自己自体を成立させるには、他者が必要。だとすれば、それはそもそも認識する主体が成り立っていないのだから、やっぱり一個人の存在のみでは成立しないんじゃないかな?」
「面白い詭弁。それだと皆が皆、ひとりぼっちだと面白いもつまらないもわからないってことになるわよ」
「そうだね」
「馬鹿げてる!わたしは一人っ子で、一人きりで部屋に居ても、面白いなあと思うことも、つまらないなあって思うこともあるわよ!」
「でもそれは、他者の存在を既に認識済みのことでだろ?」
「ええそうね。じゃあ、未開の地にでも行ってターザンに訊いてみる?」
「その必要はないよ」
僕は思わず笑った。それから言葉を続ける。
「こうは考えられない?さっきの例のように、”自由”と”不自由”。これらは双方の概念があってはじめて成り立つ。だって、”不自由”がなければ、そもそも”自由”を感じることなんてないんだから。それと同じように、”面白い”に対する”つまらない”もまた、それを双方存在させるための存在、つまり二つを包括するような上位概念があるんじゃないか?と、そう思うんだ」
「簡単よ。それが自分じゃない?」
「僕もそう思う。でもだからこそ、そこが問題なんだ。だって、その自分がその概念が存在するとして、それが君の言うように、他者を必要としないとしよう。そこで”面白い”や”つまらない”という概念もまた生じるとしよう。でもここで疑問なのは、はたしてその”面白い”は、では、いったい何と比較して面白いと思うのか?ということだ」
「好奇心を刺激することとか?それこそ、小さい子ならばなんだっていいんじゃない?」
「言葉が悪かった。そうじゃないんだ。僕がここで言いたいのは、”面白い”という概念だけを抽出して取り上げているんじゃなくて、個人としての、主観的な感情、そのときの感情とも呼ばれる概念すべてに関してさ。そして、そうした概念が独立して発生し得るかは……」
「堂々巡りね」
彼女はふぅ!と軽度に憤慨して鼻息荒く、腕を組んで見せた。
それでも僕は正面から瓦解させようとするように喋り続けた。
「概念としての存在がコインの表裏のように、対になって存在するのならば、いいや、対になるからこそ存在するなら、他者という存在を欠損した場合において、自己もまた欠損してしまうんじゃないか?っていうのはさっきも言ったけど、その欠損している自己は、そこで完全と欠損という対の概念もまた認識できないとすれば」
彼女が制止を促すように手を突き出してくる。
「ちょっと待って。それはまた問題が違うと思うけど」
「違わないよ!そして今こうして話している内容、こういった主観的概念もまた、実際には対立する存在があるからこそ生じるのであって」
「わかったわよ。結局、主観的な思いは主観的な自分だけじゃ存在しないって言いたいんでしょ?でもそれをいったい……」
彼女が言いかけたところで、どおん、と大きな音。
二人の視線は再び窓の外に注がれ、珍しいなと思うと言葉は途切れた。
「何かしら?」
発言と共に彼女は席を立って、僕のほうを一瞥もせず引き寄せられるようにふらふらと外に出て行った。
僕も追いかけるようにして店外へ足を運ぶ。歩き始めてちょうど道沿いの壁、身長ほどの高さある灰色のブロック塀にはカラフルにも目立つ落書きがされていた。
けれどそれを落書きと呼ぶにはなかなかどうして、洗練されていて、一見して漫画のようなものが描かれている。それは四つほどのコマ割りで、横一列に連続する形。
その落書きは4つの囲みと中の絵で、物語る。
ある慈悲深い神様が居ました。
「ああ、今の人間は愛に飢えている。わたしがご加護を与えましょう!」
その神様は絶世の美女の姿となって、世界に降り立ちました。
そして街頭に立つと、このような看板を掲げました。
”誰とでも、無料でセックスいたします”
誰もが美女の美貌に惹かれるが、彼女に近づく者は居ません。
町の人々は、彼女は何か問題を抱えているのだと思い、躊躇をしました。
するとそこに、立派な髭を蓄えた紳士が通りかかり、看板に気づくと近づきました。
「その看板に書いてあることは本当かね?」
「ええ」
「ではどうして?」
「人類を愛しているからよ」
「それはそうだろう、だって君のような美しい人が…」
紳士は躊躇しました。こんなうまい話があるものかと。
しかし艶かしい美女の視線には抗い難く、紳士は美女を連れて早速近くのホテルへ。
事が済むと、紳士は冷静になり彼女が病気持ちではないのかとうろたえました。
数日、数ヶ月とたっても健康に異常は見られず、紳士はそこでようやくホッとしました。
そして紳士は例の美女のことを思い返すと、こう思いました。
「あの女は頭がイカれているに違いない」
紳士は、神に対してそう思うのでした。
僕はこの風刺漫画を見て思わず噴出し、げらげらと次に笑った。
それから前方に目をやった。時計台?のほうが何やら騒がしい様子。
彼女のことを追おうとしようとしたのだけれど、そこで僕はふと足を止めた。
癖的にも顎へ手を当て、頭の上にクエスションを浮かべる。それからすぐに思い直して、歩き始めた。
「僕はおそらく、いいや一人きりであっても、この落書きを見て笑ったかもしれない」
呟きはよだれの様に自然と口から漏れていた。