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戦国乱世伊賀物語 ~はつと鵺~  作者: 高山 由宇
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第7章 裏切りの真実

 伊賀守護であった仁木(にっき)義視(よしみ)は、伊賀衆により甲賀の信楽(しがらき)へと追放された上で滅ぼされた。伊賀を裏切り、北畠(きたばたけ)を手引きしたと考えられたからである。だが、戦が終結した翌日の9月21日のこと、新たな事件が起こった。名張(なばり)奈垣(ながき)郷に勢力を持っていた豪族のひとりである下山甲斐(かい)が失踪したというのだ。それにより、手引きしたのは仁木ではなく、下山甲斐だったのではないかとの噂が伊賀中を駆け巡った。だが、伊賀の裏切り者が仁木であれ下山甲斐であれ、はつにとってはどうでも良かった。今、最も気になることは、かすみの行方である。

 浅葱や菊乃に話を聞いてみたものの、ふたりとも首を傾げるばかりだった。かすみは、任務の最中に忽然と姿を消したのだという。付近には崖があり、誤って転落したのかとも思い調べたがその形跡はなかったらしい。浅葱と菊乃は辺りをくまなく探したが、かすみの行方を知ることはできなかった。そこで、やむを得ず、かすみのことは捨ててきたのだということだった。

 もしかしたら遅れて戻ってくるかもしれないとわずかな期待を胸に待ったはつだが、翌日になってもかすみが帰って来ることはなかった。

「私、かすみを探してくる」

「どこを探すつもりだ」

 駆け出して戸を開け放ったはつの腕を掴み、(ぬえ)が制する。

「かすみ、本当は崖から落ちたのかもしれない。探してくるよ」

「そこまで行く前にお前が迷うだろう。落ち着け」

「でも、このまま帰ってこなかったら…」

「戦だ。伊賀衆が勝利したといっても、ひとりも欠けることなく無事に済むなどと言うのは甘い考えだぞ」

「それじゃ、見捨てるの? かすみがやられるところを見た人はいないんでしょう? なら、生きてるかもしれないじゃないか。それなのに、鵺はかすみを見捨てるの?」

「何を騒いでいるんだ」

 はつと鵺の喧騒を聞きつけたらしい草之助が、開け放たれた戸の合間から顔を出した。

「草之助、私はかすみを探しに行きたいの」

 鵺が駄目ならばと草之助に頼み込むはつと、

「草之助、はつを止めてやってくれ」

 はつを制するように頼む鵺のふたりを交互に見やり、草之助は苦笑を漏らした。

「はつが里の外に出るのは、俺も賛同しかねるな」

 草之助の言葉に、はつは目に見えて肩を落とす。

「それじゃ、ふたりはかすみを見捨てるって言うんだね?」

 はつに睨みつけられ、鵺は軽く息を吐いた。

「俺は、かすみは生きていると思っている」

 その言葉に、はつと草之助は鵺を見据えた。

「浅葱と菊乃が言っていたな。気がついたら姿が見えなくなっていた、と。聞けば、敵と交戦中だったわけでもないらしい」

「それは…どういうこと?」

 鵺の言うことが理解できず、はつが焦れる。そこで、鵺の言わんとすることに気がついたらしい草之助が口を開いた。

「まさか、かすみは故意に姿を眩ませたというのか?」

 鵺は答えなかったが、それを疑っているらしいことは伝わってきた。

「なんで、かすみがそんなことをするの?」

 はつは鵺に抗議する。だが、鵺は淡々と語った。

「かすみの言動には、これまでにも不審な点がいくつかあった。そして、戦の混乱に乗じて姿を消した。下山甲斐も、失踪したらしいな」

「待て、鵺。では、お前は、かすみが下山甲斐と繋がっていたと、そう言いたいのか」

 さすがの草之助も、それを聞いては胸中穏やかではいられないらしい。

「分からん。だが…」

「そんなことない!」

 鵺の言葉を遮るように、はつは叫んだ。

「かすみが裏切るなんて…」

 その時、はつの胸中には、かすみと最後に話した時に感じた違和感が湧き起こった。はつは、それを打ち消すようにさらに大きな声で否定する。

「かすみはこの里が好きだった。裏切るなんて、絶対ないよ」

「そうか。かすみはこの里が…」

 鵺はひとりごちる。

「ならば、なおのこと揺れたろうな」

 鵺の淡々とした物言いに激昂しかけたはつだが、次の鵺の言葉で落ち着きを取り戻した。

「かすみを探すならば、外ではない。この里の中を探すべきだ」

「かすみが里に戻っていると言うの?」

「確証などはない。だが、もしも俺が下山甲斐の手先だったとして、頼りの下山が失踪した今、裏切りの事実を隠しながらこの里に居続けることはできないだろう。この里を好きだと言うなら、尚更だ。そして、俺が死に場所に選ぶとしたら…きっと、この里だ」

「待ってよ。それじゃ…かすみは、死ぬつもりなの?」

 3人の間に緊張が走る。

「もしそうならば、急がねばならんな」

 草之助の言葉に、はつと鵺は頷いた。


 鵺は、雑木林の中にいた。

 二手に別れてかすみを探すことを提案した鵺は、はつを草之助に託すとひとりで動き出したのである。

 鵺はかすみとは別段親しくなかったが、思いつく限りの心当たりを探した。かすみは散歩と称して、里人でも滅多に足を踏み入れないような所によく出向いていたように思う。鵺もそういった傾向があったから、時折鉢合わせすることもあったのだ。

 初めに、鵺の家の裏の原っぱを覗いた。次に鵺の家付近にある薬草園をくまなく探した。だが、どこにもいなかった。そして、以前、ヤモリを捕っている時に出くわした、柏原城にほど近い雑木林の中を探すことにしたのである。

 鵺は、この場所でかすみと会った時に不審に感じたことを思い出していた。なぜ、かすみはここから見える柏原城が好きだと言ったのか。鵺は、「堂々と見たらどうだ」と言ったが、今思えばそれができる状況ではなかったのかもしれない。あの時、かすみはここで何をしていたのだろうか。この林はかなり広く、生い茂る木々が陽の光を遮るため年中薄暗い。雨が降っていたとしても、この林の中にいれば大方防げるぐらいに葉や枝が乱雑に絡まり合っていた。

 鵺は、よくここに薬の材料となるヤモリを捕まえに来たり、薬草を摘みに来たりしていた。だが、林のほんの入り口辺りでこと足りたので、奥にまで行ったことはなかった。鵺は意を決し、背の高い草や乱雑に伸びる枝を掻き分けて、奥へと歩を進めたのである。

 半刻ほども歩いた頃、ようやく林の最奥が見えてきた。その暗がりの中、鵺はあるものを見つけた。それは、穴である。木の枝が絡まり合ってできた、小柄な者ならば通れるだろうという小さな穴であった。

 鵺の中で、かすみへの疑念が確証を持ち始める。

 ふと、穴の付近に動くものを見た気がした。目を凝らして見る。その先に見えたのは、小柄な体躯の者が穴の傍らに座り込んでいる姿だった。顔までは見えなかったが、鵺にはそれがかすみであると分かった。

「かすみ」

 声をかけるが、影は一向に動じていない。鵺の姿は既に見つかっていたらしい。

「かすみ…そうだろう?」

 応答がないことに不安を覚えた鵺が尋ねると、含み笑いが聞こえてきた。

「そうだよ、私さ」

 かすみの声である。

「こんなに早く気づかれるとは思わなかったよ。しかも、この場所まで気づかれるなんてね」

「なぜ裏切った?」

「里の皆はもう知っているのかい?」

「答えろ」

「裏切ったも何もないよ。私はもともと甲斐様に送り込まれた間者だったんだから」

 かすみが懐に手を忍ばせるのが見えた。

「何をするつもりだ」

 鵺が構えたのを見て、かすみは笑った。

「何もしやしないよ。ただ、今から私が死ぬだけだよ。甲斐様は…おそらくもう生きてはおられないだろうからね」

 かすみは懐剣を取り出すと、鞘から抜いた。それは、白く鈍い光を放つ。

「面倒だろうけど、私の死体の始末を頼んでもいいかい?」

 そう言って振り上げた刃を、かすみは喉元に突き刺す。鮮血が迸った。かすみは驚きに目を見開く。

「…何をしているの?」

 いつもの淡々としたものではなく、わずかに震える声でかすみが言った。

「お前からはまだ何も聞き出せていない。ここで易々と死なせるわけにはいかないんだ」

 鵺は、かすみから懐剣をもぎ取った。暗がりでは分かりづらいが、その右手は赤く染まっているのだろう。鵺は、かすみが振り下ろした刃を、寸でのところで素手で受け止めたのだった。

「お前はこの里で生まれ、育った。いつ下山甲斐と関係を持ったのだ」

「それは、かすみという娘のことだね」

「なに? まさか、お前は…」

「ああ、私はかすみじゃないよ。8年前にかすみになったのさ」

「なりすましていたのか」

 かすみは、答える代わりにこくりとひとつ頷いた。

「殺したのか?」

 かすみはまたも頷く。

「私は鵺と同だよ。私がほんの小さい頃、伊賀の山中で山賊に襲われてね。親を失くして、ひもじくて、もう今日にでも死ぬんじゃないかって思った時にさ、甲斐様が握り飯を下さったんだよ。そして、伊賀のために生きろと仰ったんだ。それ以来、私は甲斐様のためだけにあろうとしてきた。私が9つの時、甲斐様は滝野の里から私と同じ年頃で同じ背格好のかすみという娘を攫って来た。かすみの家は知っての通り死人(しびと)の始末がおもな仕事。その日、里の外で死人の始末をしていた父と兄の仕事を、運悪くかすみは見に来ていたんだよ。そこを甲斐様に目をつけられて攫われ、私と入れ替わるために殺されたのさ」

「下山甲斐の目的は何だ?」

「そんなこと、言うわけないじゃないか」

「下山はもう死んだのだろう」

「なら、もしも頭領が死んだとして、鵺は頭領の不利益になる情報を話すのかい?」

「……」

「私にとって甲斐様は、鵺にとっての頭領と同じさ」

「……」

「私を拷問して聞き出すかい?」

「いや」

 鵺は首を振った。

「下山甲斐が伊賀を裏切り滅ぼそうとしていたなら、お前をここに寄越したのは頭領の動きを見張らせるためだろう。頭領を通して、百地殿の動向も探れればとでも思ったのか。服部殿の次に伊賀を率いる力があるのが百地殿だからな」

「なかなか鋭いね」

「ここを潜り抜ければ里の外へ出られると言うわけか」

 鵺は、かすみの傍らの穴を見据えて言う。

「下山と連絡を取り合っていたな」

「そうだよ」

「なぜ下山は伊賀を裏切ったのだ?」

「さあね」

「伊賀惣国一揆か」

「……」

「下山はことあるごとに伊賀惣国一揆に反発していたと聞く。伊賀惣国一揆は伊賀を揺るがす大事の際に伊賀衆が寄り集まって評議し物事を決めるのが掟。だが、そこで言う伊賀衆とはおもに上忍三家と十二人衆のこと。俺やお前のような下忍の意見が取り上げられるわけではない。そして、下山甲斐も十二人衆ではない。とすれば…」

「黙れ」

 暗がりに、かすみの眼光が鋭く光った。

「それ以上甲斐様のことを語るな」

 一瞬気押されて後ずさった身体を立て直し、鵺は言った。

「そうまで感情を剥き出しにしたお前を初めて見たな」

「……」

「それが、本来のお前の姿か」

 だが、かすみは次の瞬間にはいつもの淡々とした表情に戻っていた。

「ひとつ教えてあげるよ。北畠(きたばたけ)に甲斐様からの書状を届けたのは私だよ」

「なんだと」

「敵の間者を8年間も飼っていた挙句に、その間者が戦を引き起こすきっかけになったなんて知れたら、頭領にとってはこの上ない不名誉なことだろうね。滝野の里も無事ではすまないかもしれないね」

「お前…」

 鵺は、腰に下げた刀に手をかけた。

「そうだよ。だから、私は死ななければならない」

 かすみは立ち上がり鵺の傍に来ると、刀に置いた鵺の手に自らの手を添えた。

「私が甲斐様の手先だったこと、北畠に密書を届けたこと、それらを知っているのは鵺だけだ。鵺は、頭領の不利益になるようなことは絶対に漏らさないでしょう? あとは私さえ消えれば、頭領もこの里も守られるんだよ」

「なにを…。お前は、下山甲斐の手先だろう。まるで、吉政様を案じているかのような口振りだな」

「私には甲斐様だけだと思っていた。甲斐様の役に立つことだけが私の全てだった。けれど、この里で、私は大事なものを他にふたつ見つけたんだ。甲斐様が消えた今、私はそれを守りたい」

「ふたつ…? ひとつは頭領のことか。もうひとつは…」

 鵺はしばし考え、ああと頷いた。

「弥助のことか」

 そう答えると、かすみに少しばかり睨まれたように感じた。

「まさか、鵺がそんな話をするなんてね」

「違ったか」

「私が弥助を好きだって話はね、浅葱に取り入るための口実さ。浅葱は色恋の話が好きだからね。それに、弥助はよく浅葱と組んで任務を行うことが多いから、利用し易かっただけだよ」

 そして、かすみは意を決したように鵺を見据えた。

「鵺、私を殺してくれないかい。この刀でさ」

「なに?」

「私のは鵺に盗られてしまったし、私が死のうとしたのを助けたのだから、鵺にも責任があるんじゃないか」

 鵺は刀から手を離そうとするが、かすみががっちりと押さえているためにそれはかなわなかった。

「斬りなよ」

 かすみの目には決意の色が宿っている。

「鵺だって、私をこのまま放ってなんかおけないだろう?」

 鵺はかすみの手を振り解いた。

「なぜ、俺にそんなことを言う? 俺ならば手心を加えるとでも思ったか」

「思わないよ。鵺は誰よりも頭領に忠実だからね。頭領の不利益になることはしないはず…そうだろう?」

 かすみは鵺を見上げて、再び言った。

「私を斬っておくれ。私は、鵺に斬られたい」

「なぜだ」

「鵺は、私と境遇こそ同じようなものなのに、何もかもが違っているんだね」

「…拾われたということか」

「そう。私は甲斐様に拾われ、鵺は吉政様に拾われた。私は甲斐様のもとで間者となるべく厳しく躾けられた。幼い頃からあらゆる毒を口にし、その味を覚えさせられ、また耐性を身につけた。あらゆる拷問にも耐えられるように、死ぬ寸前まで痛めつけられたこともしばしばだったよ。そして、あらゆる感情を捨てろと言われた。喜怒哀楽は必要に応じて使い分けるようにと、そう命じられてきた。けれど、鵺はそうじゃないんだよね。同じ他所者なのに、吉政様にも大事にされている」

「お前は俺が憎いと、そういうことか?」

「初めはそうだったかもしれないね。だってさ、何ひとつ持っていない私と比べて、鵺は何だって持っているように見えたから。忠義を尽くすべき主君も、心から案じてくれる友も、優れた腕も、それに…人らしい心も」

「お前にだって尽くすべき主君はいたのだろう」

「甲斐様は、私をただの捨て石としか思っていなかったよ。私はそれでもいいと思っていた。けどね、吉政様と鵺を見ていたらさ、何か、胸の底から湧き上がってくるんだよ。それが何かあの頃は分からなかったけど、たぶん、妬みや憎しみってものだったのだと思う」

「それで、お前は憎い相手に斬られたいと言うのか」

 鵺は怪訝そうにかすみを見据えた。

「鵺は人を殺めることが嫌いだろう?」

 かすみは微笑んだ。

「だから、鵺に斬って欲しいんだ」

「まさか、お前にそこまで憎まれていたとは思わなかったな」

「初めはって、そう言ったよ」

「今は違うのか」

「違うよ。人を殺めることを嫌う鵺の中になら、少しの間は留めておいてもらえるんじゃないかって、そう思ったんだ」

 かすみは自嘲するように笑った。

「はつが言ってたんだ。生まれ変わりがあると思うかってね」

「生まれ変わり…?」

「もしあるならさ、今度は全く違った人生に巡り合いたいものだね」

「はつが、そんなことを…」

「もしもそんなことが叶うなら、また会いたいと思うよ。鵺とは」

「……」

「もし会えたらさ、その時は友になれたらいいな。まあ、鵺が嫌だと言うなら、それも仕方がないけどね」

「お前とは特に親しくはなかったが、これまで、俺はお前の言動に救われていたと思う」

 鵺はかすみから顔を背けた。暗がりで表情までは見えなかったが、その声はわずかに震えている。

「お前が望むなら、今からでもなれるのではないか。…友に」

 それを聞き、かすみは声を上げて笑った。初めて聞く、かすみの笑い声だった。

「今はいいよ。来世があったらっていう話さ。だってさ、友ならば斬りづらくなるんじゃないか?」

 鵺は、かすみに向き直った。

「鵺は私を斬らないといけない」

「……」

「吉政様と里のためにも」

 その言葉に、鵺は柄に手をかけた。そして、意を決したように刀を抜く。白い光が、鵺とかすみの顔を照らした。鵺は眉を寄せ、涙こそ見せないが泣きそうな表情をしている。その一方で、かすみはどこか晴れやかな表情で、笑みさえも浮かべていた。

「はつは鵺を憎むだろうね」

「そうだろうな」

「でも、すぐに分かってくれるさ。はつと鵺は、どこか似ているからね」

「どこがだ」

「はっきりとは分からないけれど、はつには鵺の考えていることが分かるみたいだよ。鵺にもそういうところがあるんじゃないかい」

 かすみは鵺の手を取ると、鵺の持つ刀を自分の胸元に誘導した。

「さあ」

 促すかすみを前に、これ以上は何も言うことはないと悟った鵺は、刀を持つ手に力を込めた。それをかすみの胸に突き立てる。崩折れるかすみの身体を受け止め、寝かせてやる。かすみが吐血した。刀を抜けば楽になるだろうと思い引き抜こうとしたその手を、かすみが弱々しく掴む。そして、最後の力を振り搾るように、鵺の袖、袷と掴んで身体を起こすと、鵺の唇に噛みついたのである。ぴりりとした痛みと共に、血の味が口内に広がった。

「ぬ、え…す…き…」

 力を失くしたかすみを、鵺は抱き止めた。そのまま、力強く抱きしめる。

 薄暗い林の中に、鵺の嗚咽する声が静かに響いていた。


「鵺」

 別れてから一刻あまりが経った。かすみの行方もいまだ知れず、その上どこに行っても鵺に会わないことが心配になった頃、はつはようやく鵺の姿を見つけたのだった。

「かすみがよく行く所を探し回っているんだけど、会えないんだ。もしかしたら、里にはいないんじゃないかな。やっぱり、外を探した方がいいじゃない?」

 かすみを早く見つけなければと気が急いているはつは、鵺の様子に気がつかない。だが、はつの傍らで鵺を見据えていた草之助は違った。

「鵺、その傷はどうした?」

 草之助は鵺の右手と、自分の唇を指差して問う。しかし、鵺はそれには答えずに言った。

「かすみを探す必要はない」

 はつと草之助は目を見開く。

「どうして?」

 そう言ったのははつだった。一方の草之助は、俄かに理解したように口を閉ざした。

「かすみは死んだ」

「え…」

「だから、もう探す必要はない。このことは他言無用だ。里の外に知られでもすれば、頭領のお立場を揺るがすことにもなりかねん」

「そんな…」

 はつは、がくりと地に膝をついた。

「かすみは、やっぱり里に戻っていたんだね…。最期をここで迎えるため、戻ってきたのかな…?」

「さあな」

「鵺はかすみの死に目に会えたの?」

「ああ」

「でも、鵺が着いた時には、もう手遅れだったんだね?」

「いや」

 当然肯定されると思っていただけに、はつは驚きに顔を上げた。

「なら、鵺はかすみが死ぬのを見ていたの?」

「いや」

「なら、何なの!?」

 苛立つはつに、鵺は努めて冷静に答えた。

「かすみは、俺が斬った」

「え…」

「かすみは下山甲斐に差し向けられた間者だった。ゆえに、処断した」

 おもむろに立ち上がると、はつは鵺に掴みかかった。

「どうして? なんで…ねえ、鵺!」

「言っただろう、かすみは伊賀を裏切った下山の手先だ」

「だからって…」

「かすみ自身、頭領を騙し続けてきた。許すわけにはいかない」

「だから、殺したの?」

「そうだ」

 きつく唇を噛みしめると、はつは鵺に拳を振り上げた。それを草之助が横から制する。

「落ち着け、はつ」

「止めないでよ、草之助」

 そんなふたりのやりとりには目もくれず、また呼ぶ声も聞こえない様子で、鵺はどこかへと歩み去ってしまった。

 はつの手を引き近くの川辺に向かった草之助は、川から綺麗な水を竹筒に注ぐとはつに飲むよう促した。はつはそれを一気に咽の奥へと流し込む。

「少しは落ち着いたか」

 2、3度むせび声を上げたはつの背を擦ってやりながら、草之助は言った。

「かすみを見つけたのが鵺でなく俺だったとしても、結果は同じだったろうな」

 はつは俯きながら、ただ黙って川の流れに目を向けていた。

「おそらくはかすみが望んだことだ。鵺が人を殺めることを嫌うのは知っているだろう?」

「うん」

 はつは顔を上げた。その瞳には涙が溜まっている。

「分かってるよ。…でも、認めたくなかったんだ。かすみが死んだなんて…鵺が殺したなんて…。鵺が自分を責めて欲しくてあんな態度をとっているってことも、本当は分かってたのに…」

 はつは立ち上がった。そして、涙を拭う。

「私、鵺を探して来るよ」

 そう言うと、鵺を探しに駆けて行った。


 はつが去るのと入れ替わるように、鵺が川辺に現れた。

「はつがお前を探しに行ったぞ」

「そのようだな」

 草之助は鵺の物言いに苦笑を漏らす。

「はつは後悔していたぞ、お前を責めたことを」

「そうか」

「まあ、どうせ見ていたのだろうがな」

 鵺は答えずに草之助から顔を背けた。

「ところで、その傷はどうした」

 草之助は鵺の唇を指差す。

「女にでも噛まれたか」

「ああ」

「お前にそんな女がいたとは知らなかったな。どんな女だ」

「いい女だった」

「…そうか」

「あいつは、俺に斬られることで俺の中に留まりたいと言っていた。この傷も、おそらくそういうことなんだろう」

「つく相手を間違えたな」

 珍しく険しい表情の草之助を目の端に据えながら、鵺は川辺を後にした。


 黄昏時になっても家に戻らない鵺に業を煮やしたはつは、戸を開けると外に飛び出した。鵺を探しに行こうとしたのである。だが、戸を開けてすぐ、家の壁にもたれるように座っている人影が目に入った。

「鵺!」

 驚愕と歓喜とが入り混じった声で呼ぶ。

「鵺、ごめ…」

「かすみは林の中にいるぞ」

 先ほどのことを謝ろうとしたはつだったが、鵺の言葉に遮られてしまった。

「林の中から見る柏原城が好きだと言っていたからな。そこに埋葬してきた。明日にでも見舞ってやるといい。案内してやる」

 はつは涙を堪えて、こくりと頷いた。そして、空を見上げる。それを鵺は横目で見やった。

「お前は、いつの世からここへ迷い込んだのだ?」

 溜まった涙を引っ込めようと必死になっているはつには、鵺の呟きは聞こえなかった。はつは目元を拭うと、鵺に向き直る。

「私、ここに来て、最初に会ったのが鵺で良かったよ」

 鵺はその言葉に、問い質すのはまた次の機会にしようと心を決めた。そして、空を仰ぎ見る。陽が沈んだばかりの西の空に流れ星がひとつ、落ちて消えていった。

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