第6章 天正伊賀の乱
眠りが深かったのか、半鐘の音に気がつかなかったらしい。広場に着いた頃には、吉政も含め、鵺も里の皆もそろっていた。吉政は、遅れて来たはつには構わずに話し続ける。
「以上じゃ。伊賀惣国一揆の掟に則り、急ぎ仕度せよ。半刻後には立つ」
はつが着いてすぐに解散の運びとなった。
「鵺」
声をかけると鵺は険しい表情で、
「戦だ」
と答えて、駆け足で去って行った。
「かすみ」
去り際の背にはつは呼びかけた。
「北畠が攻めて来るの?」
「そのようだね。だから、急いで仕度しないといけない」
「え…かすみも出るの? だって、かすみはまだ…」
16歳なのに、という言葉を飲み込んだはつだが、察したらしいかすみが言った。
「私は今年17だよ。17から50の者には出陣の義務があるんだ。それが伊賀の掟だよ」
「そんな…」
「全員が戦に行くわけじゃない。はつは他の皆と里で待ってなよ。伊賀は、きっと負けないから」
そう言って仕度にかかろうとするかすみの腕を、はつは両手で掴んで歩みを止めた。
「かすみ」
「なに?」
「私、最近同じ夢を見るんだ。決まって戦の夢なんだ。本当に、伊賀は勝つのかな…?」
言った後で、はつはしまったと思った。そして、俯く。
「これから戦いに行く人に、言うことじゃなかったね。ごめん」
だが、かすみはいつもと同じように、淡々として言った。
「頭領も仰ってたけどね、北畠は伊賀を攻めるに充分な準備はできていないと思うよ。丸山城の一件から感情的になっているんだと思う。兵の数だって、1万くらいだろうって言うし、侵入経路も大方予測できる」
「そうなの?」
「うん。長野峠、青山峠、鬼瘤峠辺りから攻めて来るつもりだろうね」
「そうなんだ。凄いね、忍者の情報って」
「忍者…?」
かすみが首を傾げる。この時代、「忍者」とは言わないのかと思い直し、
「あ、忍びって凄いなって…」
とはつは言い直した。
「ねえ、かすみ。行く前にひとつだけ聞いてもいいかな」
「なに?」
「かすみは、生まれ変わりってあると思う?」
はつの脳裏に昨夜の夢の情景が浮かんできた。はつが鵺の生まれ変わりだとするなら、会った時からどこか美雪に似ていると思ったこの少女は、もしかしたら美雪の過去の姿かもしれないと思ったのだ。かすみといる時、はつは美雪といるような感じを得ていた。
「戦に行く前に聞きたいことって、それなの?」
「…うん」
「あるんじゃない?」
「え…」
「あ…違うね。あればいいと、そう思うよ」
かすみは空を見上げた。はつもつられて見上げる。雲ひとつない青天がそこには広がっていた。
「もしも、過去も未来もなく、これっきりの命だって言うなら、私は何のために生まれてきたのか分からないもの」
そう言ったかすみの姿がどこか儚げに見える。
「全く違う世の中にいて、全く違う私が全く違った命を生きる…仏教にはそういう教えがあるんだってさ。悟り切ったらそういうものから解き放たれてこの世に生れてくることはない…とか。でも、もしそうなら、私はずっと悟れなくていいと思うんだ。私は、この命が尽きたら、全く違う場所に出て、全く違う命を生きてみたいと思ったりするんだよ」
かすみは、空からはつに視線を戻した。
「なんでそんなこと聞くのさ」
はつが答えに迷っていると、かすみは訝しげに目を細める。
「はつ、あんた、もしかして…」
言った後、かすみは自嘲気味に笑った。
「ふふ…そんなこと、あるはずないね」
かすみは、はつに背を向ける。
「あったらいいとは思うけど、現実逃避していても仕方がないからね。私はそろそろ行くよ」
歩き去るかすみの背を見据えながら、はつはどこか違和感を覚えた。
はつが家に着くと、鵺はすでに仕度を終えているようだった。
「早いね」
「前々から言われていたことだからな。今さら備えるものなどたかが知れている」
「そんな軽装で行くの?」
「身軽さこそが忍びの最大の武器だからな」
「でも、集合まではまだ時間があるしさ、もう少しゆっくりしていきなよ」
はつの言葉に、鵺は珍しく素直に従った。はつは鵺に白湯を淹れてやる。
「こういう時って、打ち鮑、勝栗、昆布を肴に酒を飲むものなんだってね」
「そんなこと、どこで聞いた」
「草之助だよ」
「ああ。あいつは武士に憧れているからな」
「武士がやるものなの?」
「三献の儀式のことだろう? 大将が打ち鮑、勝栗、昆布の順で口にするのだ。打って、勝って、喜ぶ、という意味になる」
「そうなんだ。まあ、打ち鮑と勝栗はないけど、昆布ならあるよ」
「なぜ、そんなものがあるんだ?」
「この間、千手姫から頂いたんだよ」
千手姫という名に、湯呑を持つ鵺の手が一瞬ぶれたように見えた。はつは、小皿に乗せた昆布巻きを鵺の前に出す。
「鵺が帰ってきたら、千手姫は喜ぶよ」
鵺がはつを見据える。その視線から逃れるように、はつは俯いた。
「こんなこと言ったら駄目かもしれないけど、誰も討ちとらなくていい。勝てなくてもいい。でも、帰って来てよ。千手姫のためにもさ」
はつの脳裏に夢の情景が浮かぶ。戦の中、逃げている3人の姿だ。それが正夢だったなら…。もしくは、鵺がはつの過去の姿だったなら…そう思うと、はつは胸が締めつけられた。
「姫には草之助がいる」
「もちろん草之助は大事だよ。でも、鵺のことだって大事なはずだよ」
「なぜ、お前にそんなことが分かるんだ」
「千手姫は、鵺を兄として慕っているからだよ。兄弟がいなくなって悲しまない人はいないでしょう?」
「……」
「鵺は、いざとなったら草之助の身代わりにでもなろうとか思ってるんだろうけどね」
鵺は俄かに目を見開いた。鵺のわずかな動揺を感じ取ったはつは、やはりそうかと思うと顔を上げた。
「駄目だよ、絶対。千手姫にはふたりとも大事なんだから」
鵺は気まずそうにはつから視線を外し、昆布巻きを一口で平らげると、冷めた白湯でそれを喉の奥へと流し込んでやった。そして、おもむろに立ち上がると刀を腰に差す。
「はつ。俺が帰らなかったら、その時は草之助を頼れ」
鵺は、はつに背を向けて戸に手をかけた。
「だが、俺も、そう易々と殺されてやるつもりはないがな」
そう言うと、鵺は振り向くことなく出て行った。
それから間もなく、それぞれに武装した滝野の里衆は、滝野吉政を先頭に長野峠へ向けて出陣して行ったのである。
滝野の里衆が出陣して一刻ほどが過ぎた頃…。
はつが鵺の家に籠っていると、戸を叩く音が聞こえてきた。
今までこの家の戸を叩く者などいなかったので、不審に思いながらも戸を開くと、そこには幼い女の子の手を引いた老婆が立っていた。話したことはほとんどないが、面識はある。女の子は菊乃の妹で、老婆は浅葱の祖母だったはずである。
「はつや、お屋敷に参らんのか」
老婆の言葉にはつは首を傾げる。
「皆、頭領のお屋敷に集まっておるぞ」
「頭領のお屋敷に…」
「こういう時はの、ばらけてはいかん。皆が一丸となり、戦っている者らの無事を祈るのじゃ。戦場に行くことはできんが、せめて私らの心だけでも届けられるようにのう」
菊乃の幼い妹は、繋いでいた老婆の手を離すとはつの手を両手で掴んだ。
「行こう」
そう言って笑った女の子を見て、はつはそれまでの嫌な思いから解き放たれたのを感じた。
「ひとりでいるとろくなことを思わんものじゃよ」
はつの胸中を察したのか、老婆はそう言って微笑む。
屋敷に着くと、里中の子供や身重の女、老人たちが集まっていた。上座には亀之助が堂々とした風格で座し、その傍らには千手姫が控えている。
「はつ、よく来ましたね」
はつが着くと、千手姫は小走りで近寄り、はつの手をとった。
「さあ、こちらへ」
そう言って手を引きながら、皆のもとへと連れて行く。その場にいたのは皆顔見知りではあったが、浅葱の祖母同様にほとんど口を利いたことのない者たちであった。はつが知っていると言えるのは、千手姫くらいのものである。だが、そこにいる者たちははつのことをよく知っているようであった。おそらくは、話好きの浅葱や菊乃から聞いていたのだろう。
「はつ、まだ何も思い出せないの?」
そう尋ねてきたのは菊乃の幼い妹だった。
「うん、そうなんだ」
こんな幼い子を騙すのは心苦しかったが、はつはそう答えた。
「でも、もうじき思い出せるよ」
菊乃の妹は笑う。
「ずっと思い出せないままなんてことはないんだって、姉上が言ってたもの」
そんな無邪気な笑顔を見つめながら、菊乃がどういうつもりでそんなことを言ったのかを考えた。菊乃はもともとはつを受け入れてなどいなかった。ただ、浅葱に言われ、仕方なく仲良くしていただけなのだ。一向に記憶が戻らないというはつのことを不審に思っていても仕方のないことだった。
「徐々に思い出していけば良いわ、のう?」
浅葱の祖母はそう言って笑った。だが、その目は全く笑ってなどいなかった。
そこで、はつは理解した。
はつの目付役である鵺と草之助が戦に駆り出された今、残された里の皆で監視するためにはつを屋敷に呼び寄せたのである。しかし、そうは言っても、はつにとってこの状況はありがたいことでもあった。ひとりでいるよりも余程気分が落ち着いたからである。
その日の夜、老人たちは皆それぞれの家に帰ったが、女子供らは屋敷に残った。
皆が寝静まった頃、はつは目が冴えてしまってどうにもならず、寝間を抜け出して縁側へと出向いた。美しい日本庭園がそこには広がっていた。
心地良い夜風に吹かれながら、はつは滝野の里衆のことを思う。そして、鵺と草之助のことを思った。はつは溜め息をつく。
「私は、本当に素直じゃないな」
誰にともなく呟いた。鵺が戦に向かうという時に、はつは鵺に、千手姫のためにも生きて帰って来いと言った。はつはそれを、今さらながらに後悔していたのだ。
「鵺も草之助も、私にとってもさ…必要な存在なんだよね…」
空に向けて放った声を運んで行くかのように、そよ風が吹き抜けて行った。
それから、ふとかすみのことを思った。かすみと最後に話した時に感じた違和感についてである。
「あれって、どういう意味なんだろう」
かすみに生まれ変わりについて尋ねた際、かすみは「あればいいと思うが現実逃避していても仕方がない」と言った。それは、今の生き方から逃れたいということのようにはつには聞こえた。かすみの家は貧しいと聞くが、貧しさから逃れたいということなのだろうか。
怪しまれないうちにそろそろ寝間へ戻ろうかと思った時、はつは声を聞いた。視線を動かすと、庭の片隅に立つ地蔵が見えた。そして、その前に跪く人影を見つけたのである。闇の中にいて分かりづらかったが、少し近づいてよくよく見れば、その人影が千手姫であると分かった。
「千手姫」
声をかけると千手姫は驚いたように振り返ったが、はつだと分かると安堵したように微笑む。
「寝つけないのですか?」
「ええ、まあ。姫もですか?」
「そうですね。強い伊賀衆が負けるはずはない、そうは思うのですが…」
千手姫は地蔵に視線を向けた。
「御仏にお縋りしておりました。今も戦っている伊賀衆のために、私にできることはこれより他にございませんので」
そう言って縁側まで近づいて来る。その千手姫の足元に目を向けたはつは、声を呑んだ。
「千手姫、裸足ではないですか」
「御仏にお縋りしようというのに、草履など履けません」
その言葉には迷いがなかった。それを聞き、意を決したはつは素足のままで庭に降り立つ。
「千手姫、私も一緒に祈ります」
そう言いながら地蔵の前に歩み出ると跪き、はつは恭しく手を合わせたのだった。
鵺と草之助は、闇に身を隠し、長野峠の木々の合間を駆けていた。ふたりの任務は北畠軍の物資を奪う、または破壊することであった。
滝野の里衆が向かった長野峠には、北畠信雄が自ら率いる軍勢が伊賀に向かって攻め入って来ていた。密偵の情報によれば、その数は8000騎であるという。鬼瘤峠には北畠重臣の柘植が率いる1500騎、青山峠には1300騎という総勢1万余りの兵力である。迎える伊賀衆は総勢5000人程度。長野峠には3000人が配置されていた。数で見れば明らかに劣勢ではある。この戦力差を詰めるため、伊賀衆は得意のゲリラ戦法をとったのだった。
伊賀衆は皆、必要最低限の少人数で組んでいた。ある者らは木陰などの間に身を隠し、矢などを射かけた。見えない敵からの攻撃に、北畠の兵は心身共に疲弊した。またある者らは、足軽から身につけているものを奪うとそれになりすまし、兵たちの間に「殿が討たれた」や「この先に伏兵がいるらしい」などの嘘の情報を流し、混乱を招いた。そして今、物資の供給を断つべく、鵺は草之助とともに北畠軍の中枢を目指しているところであった。
わずかに前を行く草之助が立ち止まると同時に、風の切れるような音が耳に届いた。それに答えるように、鵺も風切り音を届ける。ふたりの口元には矢羽が添えられていた。忍術で言うところの矢羽音である。ふたりは矢羽を使い、暗号を音に乗せて届けていたのだ。
風切り音とともに動いたのは草之助だった。草之助は闇に紛れ、野営を張っている陣地に近づいた。そして、兵糧と武器弾薬が置かれている位置を確認する。
兵糧の傍にはふたりの見張りが立っていた。草之助は大きめの石を拾うと、遠くの茂みへと投げ入れる。その音に、気を張っていた見張りたちの注意がそちらへと向く。見張りのひとりが音の出所を調べるためにその場を離れた。草之助は再び石を手にすると、先ほどとは別の場所へそれを投げてやる。もうひとりの見張りも動くと思ったのだろう。しかし、見張りは警戒したものの、その場を動こうとはしなかった。そうこうしているうちに、もうひとりの見張りが戻って来る。この場は一旦退散するべきかと後ずさった草之助だったが、見回りの足軽に見つかってしまった。
「伊賀者だ、起きろ。出会え」
その声に、陣営の中は騒然となった。
草之助は兵糧に向かって何かを投げたあと、逃げの一手とばかりに木々の合間を逃げた。だが、足軽たちは逃がすまいと松明を焚き、草之助の姿を追った。
松明が邪魔で姿を隠せない草之助に、先に追いついた足軽のひとりが斬りかかる。そこへ、何かが飛んできたと思うと、刀を振り上げた足軽の顔へと命中したのだった。次の瞬間、草之助と足軽の間に鵺が割って入っていた。
「しくじったな」
鵺が言う。
「すまん」
草之助は言いながら、忍び刀を構えた。鵺は、追って来る足軽たちに次々と何かを投げつけて行く。全て顔面に命中した。
「何を投げた?」
「幻影に囚われる薬だ」
「どんな幻影だ?」
「一時的に好戦的となる。血に興奮し、敵味方なく襲い始めるはずだ」
しかし、薬を投げつけられた者たちは、目に入った粉末を拭うと、迷わずに鵺と草之助に向かって刀を振り上げた。ふたりは足軽たちの刀を避け、脱兎の如く逃げる。
「効いていないではないか。あれでは目眩まし程度にしか役に立たん」
「そんなはずは…」
鎧を着込んだ足軽ではふたりには追いつけない。このまま逃げ切れると思った矢先、前方の陣営からも武装した足軽が現れ、ふたりは逃げ場を失ってしまった。
「これまでか」
草之助の呟きを聞きながら鵺も覚悟を決めていた、その時である。対峙していた足軽たちの何人かが、突如として仲間の足軽に刀を向けたのだ。俄かに斬り合いが始まる。
「効いたか…?」
鵺はその光景に息を吐き、額の汗を拭った。
「よし、逃げるぞ」
言いながらも、草之助はなぜか逃げてきた方に駆ける。そして、懐から黒い球状の何かを取り出すと、それに打竹で火をつけ、兵糧のある場所に投げ入れたのである。それと同時に、草之助は鵺のもとへと戻り、再び逃げに徹した。ほどなくして、兵糧のあった方から爆発が起こる。爆風を肌に感じながらも、鵺と草之助はひたすらに逃げた。
四半時も逃げ続け、ようやく追手を撒いた頃、ふたりは兵糧丸を手に少しばかりの休息をとっていた。
「草之助、お前が投げたのは宝禄火矢だよな?」
宝禄火矢とは手投げ手榴弾のことである。鵺の問いに、草之助は頷いた。
「しかし、宝禄火矢にしては威力が高い。何をした?」
「兵糧に近づいた時に、咄嗟に火薬を投げ入れておいたのだ」
なるほどという体で鵺は頷く。
「お前の薬にも助けられた。あれは使えるな」
草之助は言うが、
「いや」
と鵺は首を振った。
「遅効性では駄目だ。改良が必要だな」
そう話すうちにふたりは兵糧丸を食べ終えた。休息も済んだところで、鵺は出立しようと立ち上がる。だが、草之助は木の枝に腰を下ろしたまま里の方角を見据えていた。
「草之助、呆けていると死ぬぞ」
ぶっきらぼうに言う鵺だったが、次の瞬間、動きを止めた。それは、草之助があまりにもこの場に似つかわしくないことを言ったためである。
「お前、千手姫のことが好きだろう」
鵺は答えない。いや、答えられなかったのかもしれない。
「俺はもちろん好きだが、お前もそうなら、俺に遠慮などするなよ」
「誰がお前に遠慮などするか」
鵺は吐き捨てるように言った。
「草之助、勝手な憶測で物を言うな。千手姫にも、余計なことを言って心乱させるのではないぞ」
「姫に言うつもりはないさ。だが、俺と姫のことでお前が辛い思いをするのは、俺が耐えられんのだ」
「俺がいつ辛いなどと言った」
「お前は言わん。顔にも態度にも出さん。たいした頑固者だ。だからこそ心配になる」
「お前の思い過ごしだ。俺は姫のことは姫として守るべきとは思っているが、それ以上は何もない」
「そうならば良いがな。俺は姫のことが大事だ。だが、鵺、男の中ではお前が一番だ。お前以外に大事な男はいない」
鵺は草之助の言葉に、俄かに顔を顰めた。
「草之助、悪いが二度と言わんでくれ」
「なぜだ」
「気分が悪くなるのだ」
「おい、言っておくが、妙な意味で言ったのではないぞ」
「分かっている。だが、そうでなくとも二度と言ってくれるな」
「なんだ、大事に思われることが嫌なのか?」
鵺は顔を隠すように額に手をあてた。
「男の中で一番などと、頭領を差し置いて俺に言うなと言っているのだ」
「だが、真のことだ」
草之助は言う。
「俺はお前ほど頭領への忠誠心は厚くないのかもしれんな」
「草之助」
制するように鵺が口を挟むが、草之助は気にせずに続けた。
「俺は遠くにいる君主よりも、近くにいる友がいい」
草之助は木の枝から飛び降りると、鵺のもとへと歩み寄る。
「下忍の身では、どんなに頭領をお守りしたくとも傍に置いてすら頂けぬ。だが、お前ならば、いつでも俺の手の届く所にいてくれるだろう?」
草之助は鵺の肩に手を置く。闇の中でも朗らかな笑みが伺えた。
「俺はお前に守られてやるつもりはない」
背を向ける鵺に、草之助は苦笑を漏らす。
「それは結構だな。なら、俺もお前に守られてやるつもりはないぞ」
「俺がいつお前を守ってやるなどと言った」
「言わないさ。だが、お前は何かというと俺をかばうように立ちはだかる。大方、姫のためだとでも思っているのだろうが、それは違うぞ」
鵺の肩を抱き寄せると続けた。
「姫にとっても、お前は大切な兄であり、友だ。かけがえのない者なのだ。それを忘れるなよ」
草之助のまっすぐな言葉を、鵺はどこかくすぐったく感じていた。それを払いのけるかのように、草之助から顔を背けたのだった。
滝野の里衆が出陣して丸2日が過ぎた。そして、3日目、西の空が明るみ出した頃に弥助が屋敷に顔を出したのである。弥助は戦の状況を里に知らせる、伝令役としての役割も担っていた。弥助の話によれば、伊賀衆は大勝利を収めたらしい。
里は久方ぶりに活気を取り戻した。
はつは、昨夜も同じように戦の夢を見ていた。不安にかられる中での大勝利の報に、はつは密かに胸を撫で下ろしたのだった。
弥助の報告からほどなくして、滝野の里衆が帰還したとの知らせが入り、帰りを待っていた者たちは挙って里の門の前に群がった。はつもそれに倣う。
「鵺」
鵺の姿を見止めたはつは、小走りで駆け寄った。
「無事だったんだね」
「ああ」
相変わらずぶっきらぼうな態度の鵺だったが、どこも怪我がない様子にはつは心から安堵した。
「何を笑っている」
問われて、笑みが零れていたことにはつは気がついた。だが、引き締めようにもなかなか締まらないので、はつは諦めたように笑いながら言った。
「祈りって届くものだね」
鵺は、それには答えずそっぽを向く。その動きが、俄かにぴたりと止まった。鵺の視線の先を追えば、そこには草之助と千手姫の姿があった。表情こそ見えなかったが、ふたりを見据える鵺の背中からはどこか哀愁が漂ってくるようにはつには感じられた。
全ての里人が帰還し、門が閉じられた。そこで、はつは声を上げる。
「ねえ、かすみはどこ?」
その声に、鵺も辺りを見回す。
「鵺、かすみのこと、何か知らないの?」
鵺は首を振る。
「俺たちは2、3人で組んで行動していた。かすみは…確か、浅葱と菊乃とともに動いていたはずだ」
新たに芽生えた不安の影に、はつは祈るように胸元で両手を握りしめたのだった。