第5章 伊賀、孤立する
3月になると、甲賀が織田に落ちたらしいとの噂が囁かれるようになった。
「この状況って、かなりまずいんじゃないの?」
言いながら歩くはつは、屈んでいる青年の姿を目の端に捉えた。草之助である。草之助は、小さな菜園の雑草を抜いているところだった。
「草之助」
はつが声をかけるよりも先に、傍らの鵺が声を上げた。
「聞いたか?」
鵺が尋ねれば、草之助はすでに承知しているようで、
「ああ」
と頷き、再び雑草に手を伸ばした。
朝早く戻って来て、「甲賀が織田に落ちた」と言ったきり家を出て行った鵺を追って来たはつだが、鵺は草之助のもとへ急いでいたらしい。気がつけば、草之助の家の前に着いていた。
「どうなるのかな」
はつが焦燥したように言う。そんなはつとは逆に、鵺と草之助は落ち着き払っている様子であった。
「伊賀に攻めてくるんじゃ…」
「いずれはな」
はつの焦った声に、そう鵺が答え、
「だが、当分それはないだろうな」
と草之助が補足した。
「どうして?」
「織田信長には今、問題が山積みのはずだ。それを解決せずして、伊賀にまで手は伸ばせぬだろうよ」
草之助の見解に、鵺も頷く。
「どういうこと?」
尋ねるはつに、鵺はわずかに声を荒げて言った。
「はつ、お前も少しは治世を気にしたらどうだ」
「おい、鵺」
雑草から手を離し、草之助は鵺を止めに入る。
「はつは女子なのだ。治世に疎くとも仕方なかろう」
「こいつは知らな過ぎだ」
「里の女たちと一緒にしては酷と言うものだぞ。世間一般の娘は、大体にしてはつと同じようなものなのだ」
「俺は、はつが身分卑しき娘だとは思えぬ。金平糖なる南蛮菓子を知っていたこともそうだ」
草之助はうむと唸ると、思い出したように言った。
「はつは、記憶を失っているからだろう」
「そこだ、草之助。俺にはこいつが記憶をなくしているようには思えん。忘れていたり思い出したり、都合が良すぎる」
鵺の言葉を聞き、草之助は手についた土を払いながらはつに向き直る。
「はつ、お前が里に来てからもうじき半年になる。何か思い出すことはないか?」
はつは言葉に詰まる。確かに、5ヶ月もの間何ひとつ思い出せないというのは、都合の良い話であった。だが、そうはいっても、何を語ることもはつにはできないのだ。真実を語ったとして、受け入れてなどもらえる見込みはなかった。
「何も」
それだけを言うと、はつは俯く。
「そうか」
と草之助は言うが、おそらく怪訝に思っていることだろう。草之助でさえそうなのだから、鵺に至ってはさらに疑念を強めているに違いない。しかし、ふたりはそれ以上追及することはなく、話題は仁木氏へと移った。
「なあ、丸山城の件だが、やはり仁木が怪しくないか?」
草之助は、はつと鵺に家に入るよう促しながら言った。
「仁木が手引きしたのだと俺は思うが」
「そうだな」
草之助の考えに鵺も頷く。
「仁木はもともと織田側の人間だ。充分ありうる話だな」
「しかもこの時期を狙って来るとは」
「この時期って?」
草之助にはつが尋ねた。
「上忍三家のことを知っているか?」
草之助に問われ、はつはこくりと頷く。
「その内の服部殿が、少し前に伊賀を抜けたのだ」
「抜けたって、抜け忍になったってこと?」
「いや、抜け忍とは、勝手に里を出た者のことを言う。服部殿は理由が確かだし、他の上忍や中忍に認められてのことだから抜け忍ではない。だが、服部殿は上忍の中でも筆頭の地位にあってな、それが抜けた穴は大きい」
「どういうこと?」
「ふむ。はつに分かるよう話すためにも、まずは伊賀国について話さねばならないな」
草之助は、ふたりに白湯を淹れてやりながら続けた。
「伊賀は8里四方ほどの小国だ。守護はいるが、仁木は名ばかりの君主だ。多くの土豪たちが集まり、それぞれ里を築いている。里同士は敵でもあり、またある時は味方にもなりうる関係にある。だが、伊賀衆のほとんどが伊賀惣国一揆に加わっているのだ」
「伊賀惣国一揆…?」
「伊賀国を揺るがす大事が起きた際、上忍三家と伊賀衆の代表である十二人衆が中心となって評議し、決議するという、あらゆる外敵から伊賀国を守るための掟だ」
「その中で、筆頭の立場にあった服部氏が抜けたのだ」
鵺が口を挟んだ。
「伊賀は小国なれど、伊賀惣国一揆の掟ゆえにいざという時の団結力には優れていた。だが、服部殿が抜けたと知られれば、その団結力も疑われるというものだ」
「それじゃあ、仁木って人が、服部さんが伊賀を抜けたことを織田に告げ口したってことなのかな?」
鵺と草之助は黙ってしまった。
「違うの?」
「さてな。上忍三家も十二人衆も、仁木に重要な情報は伝えていないはずだ」
鵺の言葉に頷きながら、
「だが、どこからか伝え聞いたのだろう」
と草之助が結論づけた。そして、疑問を口にする。
「そう言えば、服部氏は今どこにいるのだろうな」
「今は徳川についているらしいな」
鵺の言葉に、草之助は顔を顰めた。
「徳川と言えば、織田側の人間ではないか」
「表向きはな」
「お前は違うと見ているのか?」
「俺はいち下忍だ。政のことは分からん。だが、徳川家康という男は相当の狸だと聞くぞ」
言うと、鵺はおもむろに立ち上がった。
「どうした、鵺」
「用を思い出した。草之助、はつを頼む」
鵺が草之助の家の戸を開ける。そこから共有の井戸が目に入った。浅葱と菊乃、それにかすみの3人が楽しそうに話をしながら水を汲んでいる。
「本当に仲がいいよね、あの3人」
はつがそれを見つめながら、微笑んだ。だが、鵺は3人の光景を訝しげに見据えている。
「いつからだろうな。あいつらが仲良さそうに見え始めたのは」
鵺が言う。
「あいつらが子供の頃から知っているが、前はそんなに親しくなかったと思ってな。昔のかすみは、誰とも口を利かず、誰とも親しくしようとしない奴だったと思う」
「まるでお前のようだな」
草之助が茶化した。だが、鵺は至って真剣の様子だ。
「何か気になることでもあるのか?」
草之助が問うが、鵺はうむと唸ったきり何も言わずに家を出ると、後ろ手で戸を閉めた。
鵺は、雑木林の中にいた。そこからは、柏原城が一望できるほどに吉政の屋敷に近かった。
鵺は地に這いつくばると何かを探しているようだった。
ふと、何かが動いた。
鵺は、すかさずそれを捕らえると、手にした魚籠に投げ入れる。また、何かが動く。また、捕らえては魚籠に投げ入れた。それを3度繰り返した時、
「ヤモリなんか捕まえてどうするのさ?」
女の声が降ってきた。顔を上げれば、そこにはかすみの姿があった。
「お前、なぜここに…?」
「鵺こそ」
「俺は、薬の材料を捕っていただけだ」
「幻覚を起こさせる薬ね。ヤモリの黒焼きを粉にして混ぜるといいって聞くけど」
「ああ」
「鵺は薬の知識も豊富なんだね。今度、私にも教えておくれよ」
「俺も元々は草之助から教わったんだ。知りたいなら草之助に言え。俺よりもずっと上手く教えてくれるだろう」
「そう。なら、そうしようかな」
「お前、浅葱たちといたんじゃなかったのか?」
かすみは、「ああ」と頷き、
「今しがた抜けてきたんだよ」
と言った。
「お前はここで何をしているんだ?」
「散歩」
訝しむような鵺の視線など気にも留めず、かすみは続けた。
「立派なお城だよね。私、ここから見る柏原城が好きだよ」
「どうせなら林を抜けて、堂々と見たらどうだ」
「いいんだ。私はここから見るだけで充分なんだ」
そう言うとかすみは鵺に向き直り、微笑んだ。
「私、頭領に仕えることができて良かった」
「……」
「私、この里が好きだよ」
かすみの言動を不審に思った鵺が、その言葉の意味を尋ねようと口を開きかけた時、遠くから半鐘の音が聞こえてきた。
はつが草之助とともに広場に着くと、鵺がかすみと共に歩いて来るところだった。
ほどなくして、里中の者が集まって来た。皆が集う頃合いを見計らったように、吉政が千手姫と亀之助を従えて現れた。里人らは跪く。
「皆の者、知らせが入った。丸山城の一件に激怒した北畠が、近々我らが伊賀に乗り込んで来るつもりのようじゃ。北畠の動向は追って伝える。皆は己が身と武器の手入れを怠らずに待て。以上じゃ」
吉政が去ったのを見届けると、里人らは各々動き出した。鍛錬に励む者、家に引きこもって武器の手入れを始める者など様々だが、皆、吉政の言葉に従うように動いていた。
「…戦になるのかな」
はつの不安げな声に、草之助は笑顔を向ける。
「案ずるな。はつのことは俺が守ってやる」
そう言う草之助を前に、ああ、これが女たちを虜にする草之助の笑顔か、などと頭の片隅でぼんやりと考えていると、
「はつのことはどうでも良い。お前は千手姫だけをお守りしろ」
との鵺の声が降ってきた。
「まあ、草之助には千手姫をお守りして欲しいけど…」
どうでも良いってことはないのではないかと、はつは鵺に抗議の目を向けるが、鵺はさして気にしたふうもなく続ける。
「たとえどのような戦になろうとも、俺は頭領とともに戦うだけだ」
そう言った鵺の瞳には、確かに覚悟の色が宿っているように見えた。
吉政の御達しより6ヶ月、何事もなく平和な日々を送っていた。
「このまま過ぎてしまえばいいのにね」
いつものように、何やら調合していた鵺は手を止める。
「戦なんか起きなければいい」
「そうはいくまい」
鵺は粉状の薬を麻袋に入れると、口元を覆っていた手拭いを外した。
「できたぞ」
「何の薬なの?」
「幻術用のものだ。次の戦で使えるかもしれん」
「…織田につくことになったとしても、生き残る道を選んで欲しいよ」
ぼそりと言ってしまった後で、はつは慌てて口を噤んだ。
「あ、でも、それでも、伊賀の誇りは守らないといけないよね」
繕うように発した言葉に、鵺は意外にも落ち着き払って、
「お前もそう思うか」
と言う。てっきり盛大に雷が落ちるものと覚悟していただけに、拍子抜けしてしまった。
「頭領も同じお考えだ」
「頭領も…」
「北畠と戦を起こせば、勝ったとしても必ず信長からの報復が待っている。伊賀衆がいかに精鋭揃いと言えども、織田信長は脅威だ。無駄な血を流させたくはない、とな。千手姫にそう語ったそうだ。草之助から聞いた」
「そんな…」
「だが、十二人衆の評議により徹底抗戦すると決まったのだ。決まったからにはやれることをやるだけだ」
鵺は麻袋に粉を詰め込んでは、いくつも床に並べていった。ここ最近、鵺が薬作りに励んでいたのは、仲間に無駄な血を流させないために自分にできることをしようとした思いの現れだったのかもしれない。
その日の夜、はつは夢を見た。
ああ、またか…そう夢の中で思っていた。
頻繁にみる同じ夢に、はつはすっかり慣らされているようだった。
その日も、いつもと同じように、草之助と千手姫との3人で逃げている。
ふと、鵺はどこにいるのだろうと思った。
—行け。
はつが叫ぶ。草之助と千手姫を逃がそうと、追手の前に立ちはだかった。
―鵺。
草之助が叫んだ。その言葉に、今日こそ鵺が出て来るのだろうかとはつは期待する。
―鵺、そなたもこちらへ…。
千手姫が懇願するように叫んだ。その瞳は、まっすぐにはつに向けられていた。
はつは、草之助に手を引かれながら走り去って行く千手姫に、笑顔を向けた。
―草之助、姫とともに生きろ。
そう叫んだはつの声は、紛れもなく鵺の声であった。
翌朝、目覚めたはつは、頬を濡らしていることに気がついた。そして、昨夜の夢のことを考える。立て続けにみる同じような夢、自分が鵺と同一であるような感覚…。これが一体何を意味しているのかを考えた時、ひとつの考えが浮んだ。
「もしかして…鵺って、私の前世の姿だったりするのかな…?」
言ってみたものの、すぐに頭を振ってその考えを追い出した。
そんなことあるはずないとはつは思ったが、ではあの夢は何を訴えているのだろうという疑念が再び首をもたげた。ひとりで悶々と考えていると、突然に戸を開いて鵺が現れたので、はつは大仰に驚いてしまった。そんなはつを訝しそうに見ていたが、そのことには特に触れず、
「早く仕度しろ。出るぞ」
とだけ言うと、鵺は再び戸を閉めたのだった。