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戦国乱世伊賀物語 ~はつと鵺~  作者: 高山 由宇
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第4章 草之助と千手姫

 はつが滝野の里で暮らすようになって3ヶ月が過ぎた。天正7年1月―現代の暦では2月にあたる。伊賀は山に囲まれているため、夏は暑く、冬は寒いという、温暖の差が激しい地形であった。この差についていけなかったはつは、連日の寒さに体調を崩し発熱し、鵺の家で寝込んでいた。

 熱に浮かされながら、はつはまた夢を見た。

 はつは走っていた。

 すぐ後ろに、草之助と千手(せんじゅ)姫が続く。ふたりとも、汗と泥と煤に汚れた酷い姿をしていたが、気に留めることなく、ただひたすらに走っていた。

 はつが叫んだ。だが、それははつの声ではない。男の声だった。

「姫」

 転んだ千手姫を抱き起こす草之助。

 はつと思われた男が、ふたりに先に行くよう促した。

「……っ!」

 千手姫が、はつに向かって何かを叫んでいる。

 千手姫は、泣いていた。

 泣きながら、草之助に手を引かれた千手姫が去って行く。

 千手姫は、ずっとこちらに向けて何かを叫んでいた。

 ―泣かないで。

 ―生きていて。

 ―どうか、幸せになって…。

 千手姫が去って行く姿を見据えながら、はつはただそう願っていた…。


 はつは、突然のひやりとした感覚に俄かに覚醒した。朦朧とする意識の中、目で周囲を確認する。そして、すぐ傍に座している女をとらえると、ぼやけていた視界が一気に開けるような気がした。

「…千手姫」

 はつが起き上がろうとしたところを、千手姫が制する。

「安静になさって下さい」

 はつは再び床に寝かせられた。

「なんで、姫がここに…」

「はつが病床に就いていると聞いたものですから」

「病床だなんて、大袈裟ですよ。ただの風邪ですから」

「はつ、感冒(かんぼう)を侮ってはなりませんよ。こじらせれば死に至ることもある病なのですから」

「え、風邪で…?」

 はつは背筋が寒くなるのを感じた。

「案ずることはありません。薬を飲んで安静にし、しっかり滋養をつければじきに治まるでしょう」

 そこへ、戸が開く音と共に(ぬえ)が現れた。感情を表に出したがらない鵺だが、この時ばかりは心底驚いている様子だった。

「千手姫、何をしておいでですか?」

「はつが病床に就いていると伺いましたので」

「はつの面倒ならば私が見ます。姫がなされることではありません」

 鵺はなかば強引に千手姫を家から追い出そうとする。

「待ってよ、鵺。そんな乱暴な…」

「黙れ、はつ。姫にうつしたらどうするつもりだ!」

 はつは鵺が焦っていた理由が分かった。今の時代、風邪は死に至る可能性のある病なのだ。そうとも知らず、千手姫に看病を許してしまったことを反省した。

「兄上」

 唐突に漏れ聞こえた言葉に、鵺は動きを止めた。

「そう呼んでいましたね」

「昔のことです」

「私が高熱を出した時、鵺はずっと傍についていてくれました。あの当時、兄弟のいない私にとって、鵺は(まこと)に兄のような存在でした」

 懐かしむように千手姫が言う。

「鵺、いつでも屋敷に顔を出してくれて良いのですよ」

「今さらそうはいきません。それに、今では亀之助様がいらっしゃるではありませんか」

「鵺…」

 問答を続けていると、

「戸口で何をやっているのだ?」

との声に、一同はそちらに目を向けた。

「草之助様」

 開け放たれたままの戸口から姿を見せた草之助に、顔を綻ばせる千手姫と苦虫を噛み潰したような表情の鵺を、はつは交互に見やった。

「何をしているんだ、鵺」

 鵺は千手姫を外に連れ出そうと、千手姫の腕を軽く掴んでいた。草之助はそこに目を留める。

「勘繰るな、姫を外へお連れしようとしただけだ」

「勘繰る、とは何のことだ。なぜ姫がお前の宅にいらっしゃるのだ」

「それは俺が聞きたい…」

「草之助様、はつが病床にあると聞き及び、私が勝手に参ったのでございます」

 きょとんとした表情でふたりの会話を聞いていた千手姫だったが、困っている様子の鵺に助け舟を出す。

「姫、このようなところに来てはなりません」

 想い人にもそう言われ、千手姫は渋々ながら外へと連れ出されてしまった。

 草之助と千手姫が出て行くと、どっと疲れが出たのか、鵺はその場に座り込む。

「奴の嫉妬深さにはついていけんな」

 そんなやりとりを目の端に捉えながら、はつは荒い呼吸を繰り返す。鵺がこちらを向いた。そして、部屋の奥から薬研を取り出すと、今しがた採って来たのだろう、手にしていた四種の草を磨り潰した。それらを手際よく調合していく。出かける前に囲炉裏にかけていた湯もすでに沸いていた。鵺は薬を煎じ始める。部屋中に漢方の臭いが広がった。

「飲め」

 鵺がはつの身体を起こしてくれる。

「なに、これ?」

 口元に差し出された湯呑からは、表現しづらい色の液体が覗いていた。また、溶けきれなかった成分がたくさん浮いているのも見えた。

麻黄湯(まおうとう)だ」

「なに、それ?」

麻黄(まおう)桂皮(けいひ)杏仁(きょうにん)甘草(かんぞう)を煎じたものだ。感冒によく効く」

 確かに見るからによく効きそうな薬ではある。平たく言えば、実に苦そうな液体だった。鼻が利いていたなら、この家から逃げ出していたかもしれない。鼻が詰まっている状態でも、漢方の強烈な臭いは感じていた。

「飲め」

 湯呑を押しつけられ、冷や汗が背中を伝った。

「うん、飲むよ。でも、ちょっと待って…」

 この時代では死に至るかもしれない病を早く治すためにも、薬を飲まなければならない。そう思うのだが、なかなか手を伸ばせるものではない。その時、再び戸が開けられた。

「鵺、空腹時に薬を与えてはかえって毒ですよ」

 鵺は湯呑を落としかけるが、なんとか耐える。戸口に目を向ければ、草之助と、手拭いで顔を覆った千手姫が立っていた。

「何のおつもりです、姫。…草之助」

「すまない、鵺。姫がどうしてもはつを見舞うのだと申されてな」

 鵺と草之助の心配を他所に、千手姫ははつの元へと向かう。

「はつ、今から拵えますから、少し待っていて下さいね」

 目元に笑みを浮かべると、千手姫は囲炉裏にかけられていた小さな茶釜を下ろすと、代わりに鍋を置いた。

「何をなさるのですか」

「粥を作るのです」

 鵺の問いに、千手姫は笑顔で答えた。

「そのようなこと、姫がなされてはいけません。それに、昨晩の残りがあります」

 千手姫が囲炉裏にかけた鍋の蓋を取ると、そこにはわずかに汁物が入っていた。

「これを食べさせ、薬を飲ませるとしましょう」

 汁を椀によそう。

「鵺、私にもいただけませんか?」

 千手姫の言葉に、鵺と草之助の間に緊張が走った。

「いえ、姫のお口には合わないかと…」

「そうです。鵺の拵えたものは、おやめになった方がいい」

 千手姫は首を傾げる。

「ですが、昨晩、鵺とはつはこれを召し上がったのでしょう?」

 そう言われれば、返す言葉が見当たらない。やむなく、鵺は椀によそった汁を千手姫に差し出した。草之助も千手姫に付き合って椀を受け取る。ふたりは、それを一口飲むなり顔を顰めた。

「素材の味がしっかりと出ていますね」

「というか、素材の味しかしないな」

 草之助は千手姫の手から椀を取り上げる。そして、

「鵺、お前は良いかもしれないが、はつにこの飯は酷というものだぞ。これでは治るものも治らぬ」

と鵺を叱責するが、

「いや、はつの方がもっと酷い飯を作るぞ。それに、昨晩も何の文句もなしにこいつを平らげていたしな」

と鵺は言って、草之助の残した汁をはつに与えた。はつは、それを何食わぬ顔で啜る。

「はつ、旨いのか?」

「いえ、旨くはないけど、食べられるから平気」

 草之助の問いに否定を表しつつも、はつはけろりとして言った。

「私は食にはあまり興味がないんだ。エネルギーにさえなればいいと思う」

「えねるぎい…? 何ですか、それは?」

 千手姫の問いに、はつはやってしまったと思い、言い直す。

「えっと…そう、力になればいいってことですよ」

「どこかで聞いた話だな」

 草之助は鵺に目をやりながら、頭を抱えた。

「鵺、はつ、食事は人の身体を形成する上で最も大事な行為だ。力になればいい、動ければいいということではない。身体だけでなく、心も丈夫にしてこその食事なのだ」

 草之助の言葉を聞きながら、千手姫は空になった鍋を使い、手早く粥の支度に取りかかった。

 腹に物を入れたことで少し落ち着いたはつが、先ほどから気になっていたことを尋ねる。

「亀之助様って、どなたですか?」

「私の弟です」

 千手姫が答えて言った。

「では、頭領の…」

「ご嫡男だ」

 鵺の声に、はつは3ヶ月前のことを思い出した。抜け忍が甲賀領で捕らえられた際、里人が集まっていた場で頭領の背後に控えるようについて来ていた男の子…おそらく彼がそうなのだろう。

「亀之助様も大きくなられたな」

 草之助の言葉に、

「ええ。もう11ですから」

 千手姫は嬉しそうに微笑んだ。

「姫も歳を重ねるごとにお美しくなられて」

「草之助様…」

「草之助、姫と散歩にでも行って来てはどうだ」

 草之助と千手姫の甘い空気に耐えきれなくなったのだろう、鵺がそう提案するが、

「お前だけではつの看病をするというのか。それは不安だ」

と、草之助は首を横に振った。

「お前と姫がいた方がはつの熱が上がるというものだと思うがな」

 鵺の苦々しい呟きは、幸せの中にあるふたりには届いていないようだった。

 はつは床に就きながら、鵺も意外に苦労性なのだななどと考える。表向きはいつでも飄々と物事をこなしているように見えるが、その実、胸中は波立つことが多いようだ。草之助と千手姫のこともそのひとつなのかもしれない。

「あの」

 はつの声に皆は振り向いた。

「折角なので、この機会にぜひ聞きたいのですが」

「何ですか?」

 千手姫に促されるように、はつは尋ねた。

「鵺と千手姫のことです。鵺とは兄弟のように育ったようですけど…」

「姫と兄弟のようなどと、無礼なことを申すな」

 鵺には一喝されたが、千手姫はころころと笑って答えてくれた。

「実は、私もよくは憶えていないのです。それほど小さな頃に、鵺とは離別致しましたから」

 千手姫の視線が鵺に向く。それを感じたのか、鵺も口を開いた。

「亀之助様がお生まれになってすぐにお屋敷を出ましたので」

「ご嫡男が誕生されたとあっては、そうなるだろうな」

 草之助が頷く。

「そうすると、鵺は私よりも若いうちからひとりで暮らしていたのですね。それは、随分と苦労されたことでしょうね」

「いえ」

 千手姫の言葉に、鵺は軽く首を振った。

「私は全てをひとりでこなせるつもりでいました。ですが、全くのひとりというのは初めてのこと。不自由致しました。そんな中、私を常々気遣って下されたのが頭領と、そして奥方様でした。お二方のお陰で今日(こんにち)の私があるのです」

「そうですか。父上と…母上が」

 話を聞きながら、はつはふと思った。

「奥方様には、まだお会いしてませんね」

「はつ!」

 鵺の制する声が鼓膜に響く。

「良いのですよ、鵺」

と、包み込むような柔らかな声で、千手姫は鵺の心を静めた。

「母は、3年前に亡くなったのです」

 はつは、驚くとともに詫びる。千手姫は気にしていないというふうに、変わらず笑みを湛えていた。

 そうこうしているうちに鍋がぐつぐつと音を立て、泡を吹き出した。

「そろそろできますよ」

 そう言うと、千手姫は椀を4つと箸を4膳用意する。草之助と千手姫の分は、千手姫が屋敷から持参していたようだ。もともと、はつに粥を作ってやるつもりで来たのだろう。

 鍋の蓋を開けると、真っ白な湯気と共によい匂いが立ち込めた。

「鵺が薬を煎じる前に来ればよかったな」

 草之助の言葉に、千手姫も苦笑を零す。蓋を開けた瞬間は確かにいい匂いがしたのだが、すぐに麻黄湯の臭いと混ざって掻き消されてしまった。

「でも、綺麗…」

 起き上がって鍋を覗き込んだはつは、感嘆の声を上げた。

 透き通るような飯の中に、緑、黄緑、黄色という、優しげな色合いの草が散りばめられている。

「七草粥を作ってみました」

「そうか、今日は人日(じんじつ)の節句か」

 鵺の呟きに、

「姫と採って来たのだ」

と草之助が答える。

「さあ、どうぞ」

 千手姫は椀に粥をよそうと、はつに差し出した。はつはそれを受け取ろうとするが、なかなか手に力が入らない。それを見てとった千手姫は、椀の中の粥を匙で掬うと2、3度息を吹きかけて冷まし、それをはつの口元へと持っていった。はつは一瞬、どきっとした胸の高鳴りを感じたことに違和感を覚えたが、千手姫の差し出す匙に口をつける。

「美味しい…」

 はつがそう言うと、千手姫は実に嬉しそうに顔を綻ばせた。先ほど感じた胸の高鳴りは、女の自分から見ても千手姫が美しいと思えるからだろうと、はつはそう解釈した。覆面をしてはいたが、目元だけでも充分に伝わってくるほどに千手姫は美しかったのだ。

 千手姫は、椀の中が空になるまではつに付き添って食べさせてやった。

「草之助、いい加減に落ち着け」

 鵺が声をかけた先には、はつに粥を食べさせる千手姫を、匙を噛みしめたまま見据える草之助の姿があった。

「何のことだ」

 草之助は平静を装って言う。だが、明らかに苛立っている様子だった。

「はつにまで嫉妬してどうする」

「な、俺は別に、嫉妬など…」

「自覚がないのか?」

 ふむ、と草之助は考え込む。そして、ひとつの結論を出した。

「お前とはつは、どこか似ているな」

「どこがだ」

「食に対してもそうだが考え方とか、雰囲気というものが似ている気がする」

「俺はそうは思わんがな」

「だが、そうすると得心がいく。はつが姫といると、お前と姫がそうしているようで…無性に腹が立つのだ」

 草之助の言い分に、鵺は粥を咽に詰まらせかけて咳き込んだ。

「何を馬鹿なことを…」

「ふむ、確かにな。実に馬鹿げたことだ」

 口では馬鹿げたことだと言いつつも、目がそう言っていない。鵺は溜め息とともに、粥を咽の奥へと押しやった。

 粥を食べ終えると、鵺が湯呑に入った麻黄湯をはつに差し出す。冷めたそれは、鼻につくにおいも幾分か落ち着いたようだった。

「飲め。これを飲めば数日で癒えるだろう」

 湯呑を受け取ったものの、なかなか飲む勇気が出せない。

「はつ、鵺の薬はとにかくよく効く。鵺が数日で癒えると言うのならば、(まこと)にそうなのだろう」

 草之助にも背中を押され、はつは意を決して湯呑の中身を咽の奥へと流し込んだ。その途端、強烈な臭いと味が口内に広がる。舌の上にはざらざらとした感覚がいつまでも残っていて、別な意味で気分が悪くなった。

 苦々しい表情のはつに、

「はつ、口を開けろ」

と草之助が言う。咽の調子でも診るのかと思い口を開けたはつだが、ぽいと何やら放り込まれ、咄嗟に口を噤んだ。その後、苦い味を和らげるかのように、口中に仄かな甘さが広がった。

「金平糖…?」

 はつの呟きに、草之助は驚く。

「よく知っているな」

「なんだ、それは?」

 鵺は、聞き慣れない言葉に首を傾げていた。

「南蛮の菓子ですよ。南蛮では食すだけでなく、祝い事の際にこれを撒いたりするのだそうです」

 千手姫が言う。

「以前、千手姫から頂いたのだ」

 草之助が照れたように笑うと、一粒口に入れた。そして、鵺や千手姫にも分け与える。

「そんな珍しい菓子を知っているとは、もしやはつは身分ある姫だったのか?」

 鵺は訝しげにはつを見るが、はつに答えられるはずもなかった。


 鵺の薬はよく効いた。翌日には高熱が微熱程度にまで下がり、次の日には咳が出なくなった。その次の日には平熱となり、起きて歩き回れるまでに回復したのである。

 はつが目覚めた時、鵺はまだ帰って来ていなかった。体調もよいので、久しぶりに外の空気を吸おうと戸を開ける。すると、そこにかすみが立っていた。かすみはわずかに驚いた表情をしたが、すぐに元に戻す。

「おはよう」

「おはよう…」

 はつは、驚きつつもかすみに挨拶を返し、尋ねた。

「どうしたの? こんな朝早くから」

「最近、夜に鵺を見ないから、何かあったのかと思ってね」

 かすみの返答に、はつは目を(しばたた)かせた。

「鵺は毎晩外に出ているよ。昨夜も帰ってないしね」

「そうなの? けれど、修行しているわけでもなさそうだよ。ここ数日、姿を見ていないもの」

 かすみはそう言いながら家の周りを見渡す。そして、足元の土に目を止めた。

「はつ、もしかして、体調が悪かったのかい?」

「うん、少しね。でも、鵺の薬が効いたみたいで、もうすっかり良くなったよ」

「そうか。なら、鵺はここにいたんだ」

「え…」

「土の色、ここだけ変わっているでしょう。鵺はここに座って夜を過ごしたんじゃないのかね?」

 そう言われてみれば、はつにも思い当たる節があった。夜中に誰かが額の手拭いを換えてくれたような気がする。夢だと思っていたが、あれは鵺だったのだろうか。

「私、風邪をひいて3日間寝込んでいたんだよ」

「そう…。早く癒えたみたいで、何よりだね」

「鵺の薬と、草之助と千手姫がお見舞いに来てくれたお陰だよ」

 かすみの顔色が俄かに変わる。

「千手姫が来たのかい」

 はつは失言に気がついて慌てた。

「覆面をして、うつらないように注意していたんだよ。かすみ、千手姫のことは黙っていてもらえないかな」

「全く、あの姫にも困ったものだね」

 かすみは溜め息をついた。

感冒(かんぼう)の恐ろしさを知らぬわけでもないでしょうに」

「どういうこと?」

「姫のお母上様はね、感冒でお亡くなりになられたのよ」

 はつは頭を金槌で打たれたような衝撃を覚えた。かすみは続ける。

「まあ、はつが気にすることじゃないよ。姫に何かあれば、草之助と鵺が何とかするでしょう」

「姫に何かって…」

「感冒はこじらせる前に手当てすれば数日から7日程度で癒える。はつのようにね。姫のことは草之助がいつも見てるようだから、気にやむことはないよ」

 かすみの言葉に、はつはひとまず胸を撫で下ろした。

「あのふたりが来ていたのでは、鵺はさぞくたびれたことだろうね」

「どうして?」

「千手姫と草之助の仲を見せつけられてさ。まあ、仲陸まじいのは良いことだろうけどね」

 はつは笑った。

「そうだね。鵺は、草之助が嫉妬深くて困るって言ってたよ」

「嫉妬深い、ね」

 かすみは含み笑いを零す。

「他の連中が千手姫と何をしていようと、草之助は嫉妬なんかしないよ」

「そうなの?」

「姫を幼い頃から知っている鵺だからこそ、草之助は嫉妬するんじゃないのかね。それに、姫も鵺のことを大事に想っているようだからさ」

「そう言えば、幼い頃は兄のように慕っていたって言ってたね」

「もしかしたら…鵺にとってもそうなのかもしれないね」

「え、鵺がなに?」

「いや、なんでもないよ。私の勝手な推察さ」

 そこへ、

「こんな所で立ち話か」

と、鵺が戻って来た。話を聞かれたろうかと焦るはつを他所に、かすみは淡々と言う。

「はつの様子を見に来たの。元気になったようで安心したよ」

 そして、かすみはそのまま鵺の家を後にした。鵺も感情がなかなか読めないが、かすみはさらにその上をいっているとはつは思う。鵺は感情を故意に隠そうとしているようだが、かすみはごく自然に、元々何の感情も持ち得ないかのように振る舞っていた。時折驚いたような表情を見せるものの次の瞬間には元に戻っていることから、それらの表情は全て演技なのではないかとさえ思ってしまう。

「はつ、中に入れ」

 鵺に促されるように家に戻る。鵺は囲炉裏に火を起こした。寒さから逃れるように、はつは自然とそちらに歩み寄って火の前に手を翳す。

「ねえ、鵺。千手姫っておいくつなの?」

「姫にお歳を聞くものではない」

「だから鵺に聞いているんじゃないか。知っているんでしょう?」

 火ばさみで炭を動かしながら、鵺は答えた。

「15…いや、今年16になられたか」

「今年って、姫の誕生日は最近だったの?」

 はつの言葉に、鵺は俄かに首を傾げる。

「誕生日…? お前の言葉は時々分からぬな」

 はつは思い出した。この時代において、誕生日という概念はなかったのだ。皆、元日にひとつ歳をとるのである。また、0歳という考えもないから、生まれたらその日に1歳となる。大晦日に生まれた子は、翌日には2歳と数えられるのだ。

「あ、いや、何でもない」

 はつは手を振って誤魔化した。

「だとすると、草之助と姫って歳が離れているんだね」

「6つ違うな。だが、そう珍しいことでもない」

 ふと、はつは、先ほどかすみが呟いた言葉を思い返していた。その時は分からなかったが、もしかして鵺は…。そして、思ったことが、そのまま声になって口から漏れ出した。

「もしかして、鵺は千手姫のことが好きだったり…」

 言い終わらないうちに、鵺に火ばさみを向けられる。鋭い眼光がはつを射抜いた。

「二度と口にするな」

 鵺の逆鱗に触れてしまったらしいと感じたはつは、こくこくと頷く。初めて投げかけられた殺気に、額に嫌な汗が湧き出るのを感じた。鵺は火ばさみを下ろし、再び炭を動かす。

「俺は頭領に救われ、頭領と奥方様の手で育てられた。恩義がある。千手姫はそのお二方のご息女だ。姫だけではない。亀之助様にしてもそうだ。俺は、今後、いかなることがあろうとも頭領につき従う。頭領、千手姫、亀之助様に何かあれば、俺はこの身を賭してお守りする所存だ」

「……」

「好きだ嫌いだなどという感情の話ではない」

「…伊賀忍は忠義など持たないって聞いたけど、鵺は違うんだね」

「確かに、伊賀忍は金銭での契約以上の関わりを雇い主との間に持たぬものだ。雇い主同士が敵であっても、双方に忍びを遣わすこともある。だが、この話はそれとは別だ。これは、俺ひとりの話だ」

 はつは言葉にこそ出さなかったが、失言を恥じていた。鵺が里の人々に何を言われようとも、決してこの里を出て行かない理由が分かった気がした。鵺は幼い頃より、吉政のために生きるのだと強く決めていたのだろう。その気持ちが、なぜだか、はつには痛いほどに伝わってきた。

「鵺」

「なんだ」

 はつの呼びかけに、鵺はぶっきらぼうに答える。

「感冒が癒えたら、木登りを教えて」

「木登りもできないのか」

 鵺は呆れたように息を吐いた。しかし、断ることはなかった。

 鵺は火ばさみを置くと、薬研に手を伸ばす。ああ、あれでまた苦い薬を作ってくれるのだろうな…はつはそう思いながら、部屋に響く炭の弾ける音に耳を傾けていた。

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