第2章 伊賀と甲賀
鵺の家の一角に、はつの部屋を作った。部屋と言っても衝立で仕切っただけのものである。それは、同居となんら変わらなかった。
はつとしては、ほとんど知らない男と同居など考えられないことだ。しかも、部屋が複数あるわけではなく、8畳ほどの狭い部屋で寝起きをともにすると言うのである。せめて、家の隣に小さくてよいから小屋を建てて欲しいと頼み込んだが、一蹴されてしまった。隔たれた別の場所にいては、いざという時に対処ができないとのことだったが、おそらく、鵺にとってはつは信用ならないということなのだろう。はつはそう理解した。同居は、鵺がはつを監視しやすくするための案なのだ。
そうは分かっていても、はつも簡単には引き下がれなかった。
「男女7歳にして席を同じゅうせず、という言葉を知らないのか」
と抗議をしてみたものの、
「案ずるな。俺はお前になど何らの興味も持たぬわ」
と返され、多大な屈辱を背負わされることにまでなってしまった。
しかし、鵺にとってもはつは厄介者であろう。そう思うと、申し訳なさも感じるのだ。それゆえにあまり強くも出られない。はつは、やむなしとでも言うように、この状況を渋々ながらも受け入れる覚悟を決めたのだった。
伊賀の里での生活を始めて7日が経ったある日のこと。朝の身支度をしていると、遠くから金属を打ちつけるような音が聞こえてきた。
「はつ、出るぞ」
鵺の号令に、
「どこへ?」
と尋ねる。
「半鐘の音が聞こえるだろう。集合の合図だ」
鵺は言っている間に支度を整え、はつを急かす。
「もう少し…」
言いながら、はつは着物の帯を巻いていた。はつの格好があまりにも目立つことを危惧した千手姫が、2枚の小袖をはつに贈ってくれたのである。着付けもその時に教えてもらったのだが、慣れるにはもう少しかかるらしい。
「まだか」
苛立った鵺の声が響く。鵺がはつを急かすのには理由があった。鵺の家は、他の民家から外れ、里の最も端にある。皆が集まるのは里の中央にある広場で、里人らは大方その辺りに家を構えていた。そのため、半鐘の音が聞こえると同時に家を出ても、到着が最後になることもあった。その上、慣れぬ着物でろくに走れないはつがいては、集合に遅れることは必至である。
「鵺、先に行って」
「そんなことが聞けるか。俺はお前の目付役だぞ」
鵺のことを思っての言葉だったが、それは鵺の神経を逆撫でする結果となってしまった。
そうこうして、なんとか着付けを終えたはつは、鵺に引きずられるように全速力で走らされて集合地点へと向かったのである。
到着した頃には皆はすでにそろっており、頭領を待つばかりとなっていた。
「はつ、何だい? その形は」
浅葱が呆れたように近づいてくる。見れば、下手な着付けの上に全速力疾走をしたので、とても見れたものではない姿を晒していた。浅葱は溜め息をつくと、はつを近くの木陰に連れて行く。そこで、神業のような早さで着付けをし直して、再び皆のもとへと送り出してくれた。そして間もなく、千手姫ともうひとり、幼い男の子を従えた頭領が現れたのである。
「皆の者、我らが里より抜け忍が出たことは知っておるな。その者が先ほど、甲賀にて捕らえられたとの知らせが入った」
鵺に緊張が走ったことを、はつは近くで感じていた。
「甲賀は近日のうちに奴を引き渡してくれるそうじゃ」
頭領の視線が鵺に向いている。鵺は気配を殺すように俯いていたが、里の皆も頭領と鵺の動向を伺っているようだった。
「鵺よ、奴の処刑はお前に任せる」
「……」
「よいな」
「…は、承知致しました」
「話は以上である。皆の者、解散」
頭領の姿が見えなくなると、里人らは動き出し、それぞれの仕事に取りかかる。鵺も家の方へと歩き出した。
それから2日後のことである。甲賀忍より抜け忍を引き渡された里の使いが戻ってきたのだ。その日の午の刻に処刑されることが決まった。あと四半刻ほどで時が満ちる。
2日前の集会より、鵺は家に籠りきっていた。はつが傍にいても、一言も話すことなく武器の手入れを続けている。
「伊賀と甲賀って仲が悪いのかと思っていたよ」
はつは、重い空気をなんとか破ろうと口を開いたが、鵺は何も答えない。
「でも、伊賀のために手を貸してくれるなんて、本当は仲がいいってことなのかな」
鵺は手入れをしていた手裏剣をしまうと、次に刀に手をやった。侍が持つよりも短く、鍔は四角い形をしており飾り気がない。そして、刃はまっすぐだ。忍び込みと暗殺に特化した刀…忍び刀である。
「考えてみれば、伊賀と甲賀って隣同士だよね。なら、仲違いしたって何の得もないか」
「その通りだ」
鵺は刀に目を向けたまま、はつに答えて言った。
「大体、お前のその情報はどこから来るのだ。伊賀と甲賀は盟約を結んだ盟友同士だ。甲賀の敵は伊賀の敵、それと同時に伊賀の敵は甲賀の敵でもある。伊賀と甲賀は、昔から互いに協力し合って生きてきたのだ」
「処刑される人、鵺の知り合いか?」
突然話題が変わったからなのか、それとも核心を得ていたからなのか、打ち粉を振る鵺の手が一瞬ぶれたように見えた。
「里の者ならば誰でも知っている」
「何で、里の人たちは奴なんて呼ぶの」
「奴は抜け忍だ。里を裏切った。最早仲間ではない。仲間でないならば名を呼ぶ必要もない、ということだ」
「そんな…」
「名が知りたければ教えてやる。与一という。だが、もう呼ぶことのない名だろうがな」
鵺は腰を上げた。
「刻限だ。出る」
先ほど手入れをし終えた刀を腰に差す。
「待って、鵺」
はつは、咄嗟に呼び止めた。
「来い、じゃないの? 鵺は私の目付役だよね。私から離れていいの?」
「そうか…そうだな。ならば、ついて来い」
そこで、はつは鵺について処刑場に向かった。
処刑場には里の者たちが大方集まっていた。鵺ははつの傍を離れ、皆の視線の中を歩いて行く。そして、2メートル四方ほどの穴が掘られている場所で足を止めた。
「鵺、どうするかな」
はつの隣の男が呟いた。
「鵺は腑抜け者だからな」
近くの男が嘲笑うように言った。
「力もないくせに修行もろくにしたがらないしね」
女の声も混ざっている。
「そんな錆ついた腕と刀で、人の首が落とせるのかねえ」
別の女が言った。
「逃げ出して終いさ」
周囲に嘲笑が広がる。
鵺が里の人々からよく思われていないことは知っていたが、これは相当嫌われているようだということを、この時はつは知った。1ヶ月以上もの間、里の誰よりも鵺ははつにとって身近な存在だった。しかし、はつは鵺を嫌ってはいない。鵺には騙されたこともあるし、良い人間だと思うにはまだ少しばかり時が必要だろう。しかし、世話になっていると思うところも確かにあるのだ。総じて、好きではないが、決して嫌うべき相手でもなかった。
それは、はつがまだ鵺のことをあまり知らないせいかもしれない。里人らにとっては、鵺に対して耐えがたい何かがあるのかもしれない。だが、いずれにしても、今のはつには口を挟むことのできない難しい問題であった。
ざわついていた周囲から一切の音が消えた。皆の視線を追えば、頭領が座に着こうとしているところだった。そしてほどなく、後ろ手に縄をかけられた青年が歩かされ、穴の前に跪かされたのである。鵺や浅葱たちの年齢を考えるに、青年と見えて実はまだ少年なのかもしれない。どことなくあどけなさの残る顔立ちをしていた。
鵺が刀を抜くと、その刃に手桶の水をかける女がいた。遠目にかすみであることが見てとれた。鵺は刀を上段に構える。その後は一瞬であった。気がつけば、跪いていた少年の身体は崩れ、穴の中に頭をすっぽりとはめたような姿をしていた。首は、穴の中で離れてしまっているのだろう。
ほとんど血飛沫も上げず、返り血も浴びていない様子の鵺に、周囲は俄かにどよめいた。その中を、かすみは懐紙で鵺の刀についた血痕を拭き取り、淡々と後片付けに取りかかった。
はつは鵺を探していた。
鵺は任務を終えるとすぐに姿を眩ましたのだ。家に戻ったのだろうと思ったが、そこに鵺はいなかった。またどこかに隠れてはつのことを監視しているのかもしれないと思い、気にしないことにしたのだが、ひとつだけ気になることがある。里人が鵺をなぜあそこまで嫌うのかということだ。
はつは、近くの木の幹に背を預け、そのまま座り込んだ。
「鵺って、そんなに嫌な奴かな…」
「そなたはどう思う?」
はつはびくりと背筋を伸ばした。呟きに答えが返ってくるとは思わなかったのである。はつが腰を下ろしていた木の葉が揺れたかと思うと、目の前に音もなく現れたのは頭領であった。
「…頭領」
はつの呼びかけに、頭領は笑った。
「まさか、そなたにそう呼ばれようとはな」
「すみません。しかし、私は頭領の名を知りませんので」
「滝野十郎吉政」
「え…?」
「それが、わしの名じゃ」
「滝野…様」
滝野吉政はにっと笑い、はつの隣に腰を下ろした。その笑顔に、はつの中にあった緊張が解れていくのを感じる。
「鵺との生活はどうじゃな?」
「今はまだ…慣れないことばかりです」
「鵺と寝食を共にするというのは、不便も多かろうのう」
「ええ。ですが、鵺が眠っている姿をまだ見たことがありません。きっと、私に気を使って他で眠っているのでしょう」
すると、吉政は首を振った。
「鵺はそれほど気の回る男ではなかろうて。その件については、そなたが気にするようなことは何もない」
「滝野様、それはどういう…」
「吉政」
「え…?」
「里の者は皆そう呼んでくれるでな」
はつは、こくりと頷いた。
「吉政様。鵺をこの里に連れてきたのは吉政様だとか」
「そうじゃ。あれは23年前の嵐の夜でな。落雷があっての。奴はそこにに捨てられていたのよ」
「鵺の名は、吉政様がつけられたのですか?」
「さよう。鵺とは、昔の読み物に出てくる物の化の名でな。落雷と共に現れると言われておる」
「鵺がこの里の出身ではないから、皆は鵺に厳しいのでしょうか」
「さてのう。じゃが、わしにとって鵺は、他の里人らとなんら変わらん。いや、わし個人として言うならばそれ以上やも知れぬ。長らく子に恵まれなかったでな。鵺はわしにとって最初の子のようなものじゃ」
吉政は立ち上がり軽く手を上げる。その仕草に吉政の視線を辿れば、そこには草之助の姿があった。
「はつよ。鵺はもうじき戻ってくるじゃろう。戻ってきたら、変わらず迎え入れてやってはくれまいか」
「え? …はい」
「それと、今の話は里の者らには内密にの。育ての親として贔屓目で鵺を見れば、彼奴はさらに生き辛くなろうて」
駆け寄ってきた草之助に、吉政は、
「鵺が行方を眩ませたらしい。はつを頼むぞ」
と言い含めると、他に用があるとのことで、来た時同様に風の如く姿を消してしまった。老いてもさすがは忍び里の頭領だなと、吉政が去った後を見つめていると、
「鵺の話でもしようか」
と、草之助が笑って言う。
「鵺のことだ。何も話してはいないのだろう?」
はつは頷く。
「鵺がこの里の出自でないことは知っているか?」
「はい」
「そうか。では、何について話そうか」
「鵺は、なぜ里の人たちに嫌われているのでしょう?」
「その話か。だが、それは一口には言えないな」
「浅葱が鵺を恨んでいます。鵺が、浅葱の兄さんを見殺しにした、と」
はつの言葉に、穏やかな草之助の表情が俄かに曇った。
「それは誤解だ」
草之助は情景を思い返しているのだろうか、空を見上げながら淡々と語った。
「5年前のことだ。鵺は里の中でも駆けるのが得てで、身のこなしも軽い。ゆえに、あの頃から諜報を任されることが多かった。諜報とは、基本的にふたりで行動する。ひとりが囮となればもうひとりが情報を得やすくなるし、例え見つかったとしてもどちらが情報を手にしているか分からん敵を撹乱することもできる。たとえば、ひとりを囮として差し出せば、その者が死んだとしてもどちらか一方は生きて戻れるために情報は守られるということだ」
「では、鵺と同じく諜報の任務についたのが、浅葱の兄さんなんですね?」
「そうだ。諜報任務の際、しくじって追手がかかってしまったらしい。鵺も浅葱の兄も、足には自信があるから逃げた。だが、敵の放った手裏剣が、浅葱の兄の腕をかすめたのだそうだ」
「…かすっただけですか?」
「手裏剣のおもな使い道は暗殺と毒殺だ」
毒という言葉に、はつは背筋が寒くなるのを感じた。
「だが、浅葱の兄はそれを隠した。何のことはない。くだらん見栄のためだ」
「鵺に対する、ですか?」
「ああ、そうだ。鵺が異変に気づいた時には、すでに遅かったらしい」
「……」
「腕が腐ってしまっていたのだそうだ。そうなってしまっては道はふたつ。そのまま死を待つか、腕を斬って生き延びるか。だが、腕を斬ったからとて助かるかは分からぬ。いずれにせよ、忍びとしての生命は絶たれることになろう」
「それで、その人はどうしたのです?」
「何もしなかった」
「なら、そのまま死ぬのを選んだのですか?」
「そうでもない。奴は何も選ばなかった。ただ、死にたくないと…ただそれだけを言い続けていたらしい。鵺はその場に留まり、死を見届けることもできた。だが、奴はそれを許さなかった。奴は鵺を馬鹿にしていたからな。そこで、鵺は奴を置いて立ち去ったのだ。飲めば瞬時に楽になれる毒を置いてな。使ったかは分からぬ。翌日、鵺は奴を置いてきた場所へ戻ろうとしたらしいのだが、浅葱を中心に鵺を糾弾する声が激しくてな、里を出ることはかなわなかったのだそうだ」
「鵺は、何でそれを浅葱に言ってやらないんですか?」
「兄の死に際がそんな惨めなものだったなど、知りたくはないだろう」
「それでも、私は真実が知りたいと思います」
「浅葱の兄は鵺と一緒だったから死んだと、鵺は思っているのかもしれない」
「どうして?」
「鵺に対する見栄や意地が奴を死なせたなら、他の者と一緒ならば死ななかったかもしれないということだろう」
「そんな…」
「そんなくだらないことを、と思うだろう? だが、鵺とは、そういう面倒な考え方をする奴なのだ。そして、その一件以来、鵺は単独で動くことが多くなった」
草之助ははつに向き直る。
「だからこそ、鵺には真に分かってやれる者の存在が必要なのだと俺は思う」
「草之助さんのように、ですね?」
「そう呼ばれるのは新鮮だな。だが、草之助でよい」
「けれど、草之助さんは千手姫と恋仲なんですよね? そんな方を呼び捨てにするなんて…」
「はつは話が早いな」
そう言う草之助の頬が、ほんのりと赤く染まって見えた。
「里の誰も、俺に敬称をつけて呼ぶ者はいないし、敬語も使わない。できれば、はつもそうしてくれ」
草之助は腰を上げる。
「すまないが、俺ももう行かねばならない。他に用がないなら、家に戻ってはどうだ。鵺が戻っているかは知らぬが、今ならばかすみが草木の手入れをしている頃だ」
「そうですか」
「はつ。ここでの話は内密にしてくれないか。はつにはどういうわけか口が回ってな。要らんことも話してしまったようだ」
「うん。里の人でない私には話しやすかったのでしょう。分かったよ」
笑顔を向ける草之助に、はつも笑顔で返す。そして、小走りに去る草之助を見送ると、はつは鵺の家に戻ることにしたのだった。
鵺は、まだ戻ってはいなかった。
しかし、家の前の草木を手入れするかすみを見かけた。
「かすみ」
声をかけると、かすみがこちらに振り向いた。
「何をしているの?」
「手入れをしてるんだよ」
はつの問いに、見て分からないのかとでも言いたげにかすみは答えた。
「どうして、鵺の家の前を…?」
「誰の家の前でも構わない。ここの草木はみんないきいきしている。私はね、この場所の草木が里の中で一番好きなんだよ」
「そうなんだ。ねえ、かすみは鵺をどう思う?」
「どうとも思わないよ」
「里の人たちは鵺を嫌っているみたいなんだ」
「里の人たちって誰のこと? 里の人たちが嫌っていたら、私も嫌いにならなければならないと言うのかい?」
かすみは、一輪の白い花をつける草をはつの前に差し出し、
「どう思う?」
と尋ねた。
「綺麗だね」
「これはサギソウというんだよ」
「へえ」
「白鷺に似た花でしょう? どこにでも生える草だよ。はつは、どこにでも生える草よりも、育てるのが難しくて、とても高価な蘭なんかの方に価値があると思うかい?」
「…え?」
「私は、花だろうが雑草だろうが、それを見て美しいと思った心にこそ価値があると思う。はつはサギソウを見て綺麗だと言った。その綺麗だと思った草が、鵺の家の前に咲こうが、頭領が持つ畑の一角に咲こうが、関係ない。美しいものは美しいんだ」
そう言い切るかすみを見て、ふと、はつは親友のことを思い出した。かすみは美雪にどことなく似ている気がする。容姿はまるで似ていないが、物の考え方や、普段は物静かなのに時に力強さを感じさせるところなど、美雪を彷彿とさせた。
「鵺はね、弱くなんかないよ」
「どういうこと?」
「鵺は、里の誰よりも修行に打ち込んでいる。夜遅くから朝までね」
それでかと、その時はつは合点がいった。
「だから、鵺が寝ているところを見ないんだ…」
「修行の合間に眠っているみたいだよ」
「それで休まるのかな?」
「鵺は頑丈だからね。はつが来る前からそうなんだから、気にすることはないよ」
「何で、かすみはそれを知っているの?」
「私は散歩するのが好きだから。里で起こっていることは、気にしていなくても自然と目や耳に入ってくるんだ」
かすみはまたも言う。
「鵺は強いよ」
「どうして、そう言い切れるの?」
「鵺は他所者の上に里の連中から煙たがられている。そんな鵺には、誰もやりたがらない汚れ仕事ばかりが舞い込んでくるんだ。その中には、決死の覚悟ってのが必要なものもある。でも、鵺はいつだって生きて戻ってきた」
死ぬ思いというものを味わったことのないはつには、まるで想像もつかない話だ。かすみの言葉を、どこか遠くで聞いていた。
「里の連中は、鵺が腰抜けだから怖気づいて逃げ帰ってきたんだって言うけど、私たちの役目は果敢に敵に挑むことじゃない。特に諜報は、どんな状況でも生きて情報を持ち帰ることが大事なんだ」
「そうか。敵が鵺を逃してる時点で、鵺は敵に勝ってるってことになるんだね…」
「そう。だから、里の連中のあれは、鵺に対する嫉妬だと思うよ」
「嫉妬…」
「鵺は草之助のように人当たりがよくないからね。そんな他所者が頭領に一目置かれているのが気に入らないのさ」
「なるほど」
「今日の鵺の仕事ぶりを見たかい?」
処刑場でのことだろうか。はつはこくりと頷いた。
「見事な太刀筋だった。切っ先が震えることなく、無駄な傷を一切与えずに一振りで首を落とすなんて、並みの者にはできないよ」
「かすみは鵺と親しいの?」
「いや…」
「でも、なら、どうしてそんなに鵺のことを知っているの?」
かすみはしばし思案してから、
「ついてきて」
そう言うと、問いには答えずに歩き出す。
「鵺の居場所が知りたいんだろう?」
その言葉に導かれるように、はつはかすみの後を追った。
「かすみ、何をしているの?」
鵺の家の裏手には背の高い草が乱雑に生えていて、壁のようになっていた。かすみは、鵺の家から桶を拝借すると底を抜き、草の壁に通す。
「こういうのをね、桶がわぬきの術って言うんだよ」
言いながら、かすみは底の抜けた桶に頭を入れる。はつもそれに倣って桶を潜った。
抜けると、小さな原っぱがあった。その中心に大きな広葉樹が佇んでいる。
「ほら、いた」
かすみは体勢を低くしたまま言う。その言葉に、はつも身を屈めながら原っぱを見渡すが、人影ひとつ見当たらない。
「あれだよ」
かすみが指で示したのは広葉樹だった。
「あの葉の奥にいるよ」
目を凝らして見るが、どこに鵺の姿があるのか、はつには見当もつかない。
「見えないけど…ねえ、鵺はあんな所で何をしているのかな?」
「泣いているよ」
はつは、かすみの言葉に耳を疑った。
「鵺は、泣いているよ」
同じことを小声で、それでいてはっきりと言われ、まさかと思いつつも鵺がいるであろう場所に向けて目を凝らす。やはり、はつには鵺の姿を確認することすらできなかった。
「鵺はね、昔から、目の前で誰かが死ぬと姿を眩ませた。そして、決まってこの木に登って泣くんだよ」
「あの鵺が…?」
「驚くよね。私もそうだった。鵺は強い。でもね」
かすみがはつの胸を指す。
「ここが、その実力に追いついてないんだよ」
「…心が、弱いってこと?」
「それを弱さと言うのか、私には分からない。けどね、だとするなら、里の連中が鵺を腰抜けと言うのは、あながち間違ってないことになるね」
「かすみはどう思うの?」
「私は好きだよ」
「え…」
「勘違いしないで。弥助に対する思いとは全く別物だよ。鵺が泣いているのを知った時から、興味が湧いたんだ」
かすみが言う。
「忍びとは人ならざる者。奇怪な術を使って不可能を可能にして見せるのが忍びの技。その技を誰よりも上手く使える鵺が、誰よりも人間らしい心を持っているってことにさ」
かすみは鵺がいる木を見据えていた。しかし、その瞳はどこか違う場所を捕らえているように、はつには見えた。
そうしてふたりは、鵺の居場所が分かったところで、そっと原っぱを後にした。
もうじき陽が沈むという刻限になって、ようやく鵺が帰って来た。
鵺は、戸を開けた瞬間に怪訝な表情を浮かべる。
「おかえり、鵺」
迎えたはつの手には柄杓が握られ、囲炉裏にかけられた鍋から雑炊を掬い上げているところであった。
「かすみと一緒に作ったんだよ」
鵺は得心がいったというように、
「かすみが作ったのか」
と言うと、囲炉裏の傍にやって来た。
「一緒に作ったんだけど…」
「お前は作れないだろう」
はつには返す言葉もなかった。はつは実家暮らしでろくに料理などしたことはなかったし、こちらの時代に来てからは特にそうだった。なぜなら、料理道具の使い勝手も分からない上に、火の起こし方からして知らないことだらけだったのだ。里で暮らすようになって10日足らずだが、鵺に教わって火の起こし方や道具の使い方を覚えた。だが、料理の腕は全く上達しなかった。そう言うのも、鵺自身が料理下手であると同時に、食に対して全くの無頓着だったのである。
「まあ、何でもいいじゃない。折角作ったんだし、食べてよ」
雑炊をよそった椀を鵺に差し出す。受け取った椀とはつを交互に見て、鵺は「そういうことか」と、合点がいったように言った。
「お前、見ていたな」
「え、何を…?」
鵺の目が鋭さを増す。
「まさか、かすみに知られていたとはな」
鵺は床に椀を置いた。
「呆れたか」
鵺が言う。その声は自嘲を含んでいた。
「里の連中が言うことは真だったと、そう思ったろうな」
「思わない」
はつは、きっぱりと鵺の言葉を否定する。
「私は、鵺が腰抜けだなんて思わない。かすみも思ってないって言ってたよ」
「……」
「知り合いを処刑しなければならなくなって、それで平然としていられる方がよっぽどおかしいよ」
鵺は面食らったような表情をしていたが、すぐに元に戻した。その顔から、先ほどまでの鋭さは消えていた。
「与一は、16だった」
処刑した少年のことであろう。
「与一はこの里の下忍の子だ。生まれた時から、伊賀忍として、下忍として生きていく運命を負っていた。与一が抜け忍になったのは、それを受け入れたくなかったからだ」
「それは、与一って人が言っていたの?」
「ああ。与一が里を抜けるのを偶然見てしまった。与一は俺に見逃して欲しいと言い、理由を語った」
「それで、見逃したんだね」
鵺が小さく頷く。
「与一は頭領を心から慕っていたし、里に何か危害を与えるつもりなどまるでなかった。抜けたとしても損にも得にもならないような奴だった」
「それじゃあ、浅葱たちの言うように、鵺は与一を捕まえる気がなかったんだね」
「追い忍の任についたのは予想していなかった。だが、好都合だとは思った」
「でも、甲賀領で捕まってしまった…」
「伊賀領を抜けた後のことは知らん。そこまで面倒は見切れん」
鵺は俄かに俯く。
「馬鹿が…」
小さく吐き捨てた。罵倒ではない。酷く残念がっている様子がはつにも伝わってきた。
「あのさ」
はつの声に、鵺はわずかに顔を上げる。
「頭領って、吉政様って言うんだね」
話題を逸らそうと口にした言葉を、
「口を慎め」
鵺はすかさずに制した。
「不用意にその御名を口にするな」
「どうして?」
「どこに敵が潜んでいるとも限らん。ゆえに、里の者たちは頭領と呼んでいるのだ」
「でも、頭領は皆そう呼んでくれるって仰っていたよ?」
「それは頭領の屋敷とか、特定の場所でのみだ」
叱られて黙ってしまったはつに、鵺は顔を寄せると囁くように言った。
「一度しか言わんからよく聞け」
はつはこくりと頷く。
「頭領は、滝野十郎吉政様。丘の上に見える城、柏原城の城主だ。ゆえに、この里は滝野の里、柏原の里などと呼ばれている。頭領は、百地丹波守様に仕え、伊賀十二人衆のひとりに数えられているのだ」
はつには何のことだかよくは分からなかったが、百地丹波の名には聞き覚えがあった。伊賀忍の中でも特に有名な忍びの名だ。その百地丹波に仕える頭領は、さらに伊賀十二忍衆のひとりであると言うのだから、凄い人なのだろうということは何となく理解できた。
そんな大物と普通に会話をしていた自分に驚くと共に、今さらながらに背筋が伸びる思いがした。見ると、鵺は椀を持ち、何事もなかったかのように冷めた雑炊を啜っている。はつも椀に口をつけて雑炊を啜った。久方振りの温かい料理に心が和む。
「明日も雑炊にしようか?」
はつが提案すると、
「毎日同じ物を食わせる気か」
鵺が憎まれ口を叩く。
「そんなことを言って、鵺だってろくなものを作れないじゃないか」
「俺は食に興味がないのだ」
「でも、これは美味しいと思うでしょう?」
鵺は答えなかった。だが、黙々と箸を動かしていることが答えであるとはつは思った。だが、確かに雑炊ばかりを出し続けるわけにはいかないだろう。とりあえず、明日の朝食は雑炊にするとして、明日は別な料理をかすみに教えてもらおう…そう思いながら、はつは椀に残る雑炊を一気にたいらげたのだった。