大きな古時計
人は紡ぐ。様々な時間を。
時計は刻む。その人の人生を。
私はカチコチと、皆よりもゆっくりと時を刻みながら目前に横たわり目を閉じる我が片割れを見つめた。
我が片割れがこの家に生まれ、私がこの家に来たときからちょうど百年経った。
ボーン、ボーンと五時を知らせる鐘が低く響く。
午後の日差しで温まった空気が僅かに揺れ、片割れが僅かにその青い目を開いた。
青い目が私を映す。
「お前とももう、お別れかもなぁ」
多分に空気を含んだ嗄れた声は、やっと私に届くぐらいだった。
カチコチ、カチコチ。
私は我が片割れがこの世に生を受けた瞬間からこれまでの時を思い出した。
我が片割れが生まれたのもちょうど、黄昏の黄金色の柔らかい光にカーテンが揺れるこの時間だった。
彼は獣のように泣き、白い服を着た女性に優しく抱かれていた。
彼はすくすくと育ち、いつの間にか太陽の光を溶かしたかのような美しい髪の、可愛い小さな女の子といるようになった。
彼らは私の体を拭き清め、私の前で絵本を読み、喧嘩をして、仲直りをして、笑いあった。時には私にも話しかけてくれた。
返事をすることはできなかったが、その代わりボーンと鐘を鳴らすと彼らはキャッキャと楽しそうに笑った。
しかしまあ、子どもというものは、生き急ぐかのように時間を駆け抜けてゆくものだ。
我が片割れが私と出会って10年目、彼の時間は止まりかけた。
だが、彼の時間は止まらなかった。
代わりに彼女の時間は止まった。だけれど、彼女は時を刻み続ける。
彼は時間の中を生き続ける。だが、彼の時は止まった。
彼は泣いた。
私は泣けなかった。
その代わり、針がうまく動かなくなり、鐘の音も少し鈍くなった。
彼の中にいる彼女が時を刻み、彼は私とともに時間を歩み続けた。
我が片割れはあっという間に大人になり、彼の元には綺麗な花嫁がやってきた。
白いベールを被った花嫁の髪は、太陽の光の川のように輝いていた。そんな彼女を、我が片割れは青いガラスの目で見ていた。
カチコチ、カチコチ。
時は過ぎ、彼と花嫁の間には子どもができ、その子どもたちも結婚して子どもを産んだ。
彼はただただ幸せそうに、時折さみしそうに笑っていた。
孫が巣立ち、ゆっくりと時間を歩む彼は、私の体をひと撫でして、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして笑った。
「お前だけは変わらぬなぁ」
片割れが私の背中についたぜんまいを巻く。
「じぃじ!」
彼のひ孫の声が遠くから聞こえた。
彼はひとつ、咳を零して、
「はいはい」
と返事をしながら扉に向かった。そこには、あの子にそっくりな小さな可愛い女の子。
「ミィや。おいで」
片割れが手招きすると、ひ孫は嬉しそうに笑って彼の元に駆け寄った。
「じぃじはまた時計さんといっしょにいたのね」
「あれはオレの片割れだからのう」
私を見つめるひ孫に、彼は柔らかく笑った。
随分と薄くなった片割れの体も、彼女のものだった時計も、ゆっくりと、ゆっくりと、時を刻む。
彼はだんだんと起き上がることができなくなり、ぼんやりと空を見つめることが多くなった。
そして時折訪ねてくる様々な時を刻む家族たちと笑いあった。
ボーン、ボーン……。
そしてちょうど百年。
ここ1年ほど、ずっとぜんまいが巻かれていない私は、最期の鐘を鳴らす。
「…ああ、最期に…」
我が片割れが、虚空に向かって手を伸ばした。
その手の向こうに、彼が、私が失った時間があるような気がした。
遠くであの子によく似たひ孫の、子守唄のような笑い声が聞こえる。微睡む我が片割れが、幸せそうに笑った。
その手は、見えない、失っていた時間を確かに取り戻していた。
彼の時間が、彼女の時が、最期の鐘を鳴らす。
ボーン…。
一際大きな鐘を鳴らした私は、体の中の歯車が全て止まったのを感じた。
彼が目を閉じる。
彼が、彼女が、この世界に別れを告げる。
雲の向こうの、黄昏の向こうの、そのまた向こうを見つめて。
さあ、ゆこう。我がいとしの片割れよ。
お読みくださり、ありがとうございました。