彼女と星の椅子
「ライトは点けないでくれるかしら。星を見ていたいの」
それが、僕が初めて聞いた彼女の声だった。
◇
僕がこの病院に来たのは二週間前。事故で足を骨折して、入院することになった。全治一ヶ月。それから、この退屈な毎日が始まった。
足を怪我したと言っても、動けなかったのは初めの一週間だけだ。それ以降は、松葉杖で歩くことが出来た。病気で入院している人たちと比べると、僕はまだ軽い方だろう。
僕の病室は四人部屋。僕は窓際のベッドを使っている。隣におしゃべりなおばさん、その向かいには無口な男性がいる。そして、僕の正面にあるのが彼女のベッドだった。
白石希。
彼女はいつも誰とも喋らない。カーテンを閉め切った自分のベッドに籠っているか、車椅子で病院内を彷徨っているかのどちらかだった。
彼女は重い病気らしい。随分長く入院しているようだ。ずっと病院にいるというのはどういう気持ちなのだろう。僕には想像も出来ない。一度、同年代だから仲良くなれるかと思って、話し掛けた事があったが、見事に無視されてしまった。
彼女は綺麗だ。
美人とか、可愛いとかの言葉より、綺麗、という言葉が最も相応しい。整った顔立ちも、黒くて長い髪も、歩き方、雰囲気、それら全てが美しかった。僕は殆ど会ったこともないし、まして喋ったことは一度もないが、僕は確実に彼女に憧れのような感情を抱いていた。
その日はすることもなかったので僕は彼女を探した。今朝は、僕が目を覚ます前には、既に彼女はいなくなっていた。いつもどこに行っているのだろう。暇だったというのもあるが、彼女と仲良くなりたいと思ったのが本心である。
僕は病室を飛び出し、病院内を探し回った。松葉杖のせいで進む速度は遅かったが、急ぐ必要はない。時間はたっぷりあるのだから。
病院内は広い。全てを見て回るとなると相当な時間が掛かる。彼女の行きそうな場所を定めて、探すことにした。
最初に来たのは待合室。外来の患者が受付を待つ場所だ。ここは一方の壁が一面ガラス張りになっており、外の風景が見える造りになっている。この時間はある程度人がいたが、彼女の姿はなかった。そこで僕は、彼女は人が多くいる場所には行かないような気がして、人気のない場所を探そうとその場を後にした。
その後も、廊下のつきあたりや階段の踊り場、屋上にも行ってみたが彼女は見つからなかった。気が付けばもう夕方になっていて、今日はもう探すのは止めることにした。僕は別に、何が何でも彼女を見つけるというつもりではなかったので、特に悲しい気持ちにもならなかった。寧ろ、ゆっくり時間を掛けて病院内を散歩したのだと考えれば、普段は一日ベッドで寝ているだけだし、時間を無駄にしたとも思わなかった。
消灯時間になる頃には、いつの間にか帰ってきたのか、彼女のベッドはカーテンが閉じられていた。僕もさっさと寝ようとベッドに横になった。
夜中、トイレに起きた僕は、なんとなくそのまま戻って寝る気にはならなかったので、少しこの真っ暗な病院を歩いてみることにした。
病院内は必要最低限の照明しか灯っておらず本当に真っ暗で、ここで生活している僕でも少し怖かった。昼間とは比べ物にならないほどひっそりとしていて、まるで別の場所に来たような錯覚を覚える。
松葉杖でゆっくりと歩いていると、一階の待合室まで来た。そこに足を踏み入れたときに、その光景に目を奪われた。
綺麗だ。
壁一面の窓から淡い月の明かりが降り注いで、動く者のない部屋を静かに照らしていた。そして、その光の中に彼女がいた。車椅子に腰かけた彼女は窓の外を見上げ、その、どこまでも暗い髪は、車椅子の下の地面に届きそうなほど長かった。
◇
次の日は生憎の晴天だった。どうせ出られないのなら雨のほうがマシだ。
今日も彼女を探した。目が覚めて、向かいのベッドに彼女がいない事に気付くと、僕はすぐに病室を飛び出していた。昨夜、これ以上つきまとうな的な事を言われたが、やはり気になって身体が勝手に動いていた。
今日は見つけた。一日探し回って、渡り廊下に佇む彼女を発見した。彼女の傍まで行き、口を開きかけたが、何と声を掛けていいか解らず黙っていた。
「何?」
すると彼女のほうから声を掛けてきた。
「あ、いや……」
僕は口ごもる。彼女を探していたのは単なる暇つぶしだし、彼女を見つけた後のことまで考えていなかった。
「用がないのなら、さっさとどこかに行ってくれないかしら。私につきまとわないでって昨日言ったわよね?」
彼女は窓の外を見ながら、僕の方を見ずに言う。
「でも、白石さん僕は……」
「口を開かないで。私は貴方と話す気はないわ」
鋭い視線で僕を睨み付けた彼女は、すぐに目を逸らすと通路の反対側へと車椅子を押して行った。僕は何も言えず立ち尽くして、彼女が立ち去るのをただ見つめていた。
それから一週間、僕は彼女を探して病院内を彷徨った。彼女を見つけることもあれば、見つけられないこともあった。見つかった時の彼女はいつも不機嫌で、僕を一度だけ睨むと、何も言わず、すぐにどこかへ行ってしまう。彼女は毎回違う場所で見かける、見つかる度に場所を変えているようだ。まるで、僕と彼女のかくれんぼのようだった。
そんな日々が一週間続いたある日、僕は再び夜中に目が覚めた。トイレに行って帰ってくると、彼女のベッドが空っぽになっているのを発見した。そして、あの夜のことを思い出し、僕は待合室へ急いだ。
彼女はそこにいた。
あの時と同じように月明かりに照らされて、どこか、この世のものではないような雰囲気があった。僕は声を掛ける機会を逃して、暫く見蕩れてしまっていた。
「この場所は、もう駄目ね」
ポツリと、彼女は呟いて、僕の方を向いた。初めて真正面から見た彼女の姿に、僕は感動を覚えた。そして、彼女は僕に言う。
「貴方は何? ストーカー? どうして私につきまとうの?」
刺すようなその目線に、僕の身体は固まってしまった。「僕はただ、君と仲良くなりたくて……」
「仲良く? 笑わせないで。私は貴方と仲良くなんかなりたくないわ」
そう。彼女はずっと態度で示してきた。彼女の言う通り、僕はつきまとっていただけだ。ただ、言い訳を言わせて貰えれば、僕はいつもはそんなことをする人間ではない。彼女がどこか、寂しそうに見えたからだ。しかし、彼女にそのことを言うのは失礼な気がした。
「……白石さん。昼間、よくどこかに行ってるよね。いつもどこに行ってるの?」
返す言葉を失くした僕は、別の話題を探していつも思っていることを聞いた。
「貴方に関係ないでしょう」
一蹴された。まぁ、当然の反応だ。
「まだ私を追い回す気?」
「いや、それは……」
言葉に詰まる僕を鼻で笑い、興味を失ったように視線を窓の外に戻した。
「ここ、気に入ってたんだけどな……」
聞こえるか聞こえないかのかすかな声。少し残念そうな響きを帯びたそれは、僕に向けられた言葉ではなかった。僕は躊躇ったが、彼女に向けて一歩踏み出した。彼女は僅かにピクリと反応したが、無視を決め込んだらしく、何も言わなかった。僕はゆっくり近づいて、彼女の隣に並んだ。
僕たちはお互い黙って窓の外を見つめていた。
時間が止まってしまったような感覚だった。長い事そうしていたような気がする。ただ、彼女は少し俯いていて、星を見ていないような気がした。
「ねぇ」
僕は口を開いた。
「何よ」
彼女は僕の方を見ずに言う。
「綺麗だね」
僕も前を向いたまま言った。
「…………」
彼女は何も言わない。そして、僕は彼女の方を向いた。彼女はどこか不機嫌そうな顔をしている。
「僕と、友達になってください」
彼女は不機嫌な顔のまま、繰り返す。
「私は、友達なんか……いらない」
「どうして?」
僕は俯く彼女に聞くと、彼女は急に顔を上げて睨んだ。
「私はずっと一人だった。これからもそう。一人で十分。貴方もどうせ、私より先に退院してしまうんでしょう?」
「それは……」
「十年よ。私は十年もここで一人ぼっち。仲良くなった人はみんな退院していって、誰も戻って来なかった。もう治ることはないのに……なんで生きてるんだろう」
後半は独り言になっていた。俯いた彼女の顔は見えなかったが、泣いているように見えた。
「……だったら僕が友達になるよ」
僕の言葉に彼女は顔を上げた。
「貴方、話を聞いていたの? 私はもう友達なんか欲しくないのよ」
怒ったように言う彼女に、僕は手を差し出した。
「一人で生きている必要なんて無いんだ。君が過ごした十年を埋めることは出来ないけど、これから過ごす君の時間に僕も混ぜて欲しい」
彼女は黙っている。
「僕は確かに君より先に退院するだろう……。だけど、必ず戻ってくるよ。だから、僕のために生きて」
「……な、何を言っているの。どうして貴方はそこまで……」
「君が好きだから」
彼女は目を見開く。僕は、自分でも気づかないうちに彼女のことを好きになっていたようだ。そして、あまりに自然に出てきた言葉にも僕の頭は冷静だった。
「だから、一緒にいさせてくれないかな」
言って僕は、途端に自分の言葉が恥ずかしくなった。気まずくなった僕は目を逸らして鼻の横を掻いた。
「い、いや、別に気にしなくていいんだ。僕が勝手にそう思ってるだけだから」
彼女は窓の方を向いて何も言わない。呆れているようだ。
「じゃ、じゃあ僕は戻るね」
そう言って、僕は帰ることした。待合室を出ようとすると後ろから声が聞こえた。
「待って」
振り返ると真っ暗な部屋の中で、彼女が車椅子を操作しているような気配がした。
「あ、危ないよ!」
僕は咄嗟に手近にあった電灯のスイッチを押した。
待合室は光に包まれた。
僕は目が眩んで一瞬前が見えなくなった。
「きゃっ……」
大きな音がして、眩む眼を無理やり開けると、彼女の車椅子が倒れそうになっているのが見えた。
「くっ……!」
支えようと手を伸ばす。松葉杖を放り出して、彼女の身体の下に自分の身体を滑り込ませた。音を立てて車椅子が倒れた。
「つ……」
胸の上に彼女の温かさを感じた。近くに車椅子が転がっている。どうやら足元のでっぱりに躓いたようだ。よかった。二人とも無事だ。
「あの、大丈夫……?」
彼女は目を開けた。一瞬何が起こったか解らなかったようだが、そんな表情もすぐに消えて、僕の顔をじっと見た。
「ありがとう」
表情を変えずに言う彼女の顔にまた見蕩れてしまったが、この二人が密着している状況に気付いて僕はあわてた。
「ご、ごめん! すぐどくから! ていうか明かり、勝手に点けてごめん」
彼女が前に言った言葉を思い出して、それを破ってしまったことを謝った。すると、
す、っと手を伸ばして、彼女は僕の顔に触れた。
「ああ、ライトは消さないでくれるかしら」
そして、僕の視界は彼女の長く、どこまでも黒い髪に遮られた。
「貴方の顔を見ていたいの」
挿絵を描いていただいた方に「ヒロインが戦場ヶ原さんみたい」とのお言葉をいただきました。ありがとうございます。
そんなつもりは全くなかったのですが……
ちなみに掲載時にはタイトル違っていました。「彼女と星の夜」というタイトルでしたが、「椅子」が正しいタイトルです。