第3章 第8話
あともう少し続きそうです。
「馬鹿ね。」
たった一言こちらを見て、知らんふりして口に手をあて、静かに、というそぶりを見せる少女に、何か言ってやろうととしたジュールは、思わず静かにしろという少女のそぶりに口を閉じた。
このオルロンにきて、いや、その前の離宮でもだが、自分の手の平には、相変わらず何もなかった。
空虚というのは、何か持った事のあるものが、感じるものであって、生まれてこの方、何もない自分は、ただ流されてここにあった。
後見の子爵もまわりの人間も姉でさえ、自分には、まるで膜ひとつ隔てた世界にいる人間で、現実味がなかった。
ものごとを考えられるような年になり、初めて知ったのは、何もない自分自身の存在だった。
それゆえ周りと口を聞かねばならない理由もあえてなく、自分はめったに喜怒哀楽を出さぬ、ひどく内向的な人間だと皆に思われていた。
話す必要を感じず、自分の琴線に触れる事柄もなくただ生きてきた。
そして、ここずっと暗い雰囲気の、あの与えられた館にいるのが嫌で、供も連れず外に出た。
思い出せば口を聞いたのは、この間の子爵に頼まれたあの紹介の場でチルニーを呼んだ時ぐらいの自分にあきれはしたが、まさか、こんな場面で、この少女に出くわすとは思わなかった。
そう、何か急に面倒に思い、ちょうどいい、命を絶とうと決めたこの場所で。
この小さな作業小屋は、生い茂る木々の間に隠れるようにしてあり、今そこにシーツの切れ端をまいて、自分は首にそれをかけようとしていた。
ところが足が届かず台を探して奥をみた時、彼女が座り込んで本を読んでいた。
目があって思わず声を出しそうになった自分に、彼女は一言
「馬鹿ね。」といって、静かにしろと口に手をあてて、今ここにあった。
何か言ってやろうと思ったが、何の言葉も浮かばず、彼女も何の関心もなさそうに、また本に目をやるのに、まあいいかと考え、小さな台をシーツをつった張の下に運んだ。
その時、バーンと扉のあく音が聞こえ、
「みぃ~つけた!」
そう言って男が飛び込んできた。
続けて、
「ふん、さすがはケダモノ科だけありますね。そこをどいて下さい。」
との声が聞こえ、例の遊撃隊主従が入ってきた。
さすがに固まる自分に、ギランは
「あれ~、皇子さまじゃん。ふ~ん。」
とこちらを見、一瞬とても物騒な気配を自分に向けてきたが、自分の愛しいリーナとは関係なさそうだと判断したのか、それきり自分の傍をそのまま足早に通り過ぎ、
「もお~、かくれんぼがしたいなら、いっくらでもするのにぃ。」
「そこらへんの奴の手足縛ってやるう?やるならオプションにいろいろつけようか~。」
「あっ、それじゃあいつら逃げられないから、的当て大会にでもしよ~か?」
と嬉しそうにリーナに話しかける。
それに、
「いい加減にしなさい!」
とチルニーはギランに近づくと、そのまま足を蹴り上げる。
ギランが綺麗にひょいとよけるのに、
「動かないでください。あなたにもリーナ様のためになる事があります。」
「このまま、逝ってください。」
そう二人で今まで静かだった小屋で騒ぐのに、リーナが静かにしてあげたほうがいいんじゃない、という風に顔をこちらにしゃくるので、初めてチルニーは、こちらを見た。
「お邪魔でしたか?」
とチルニーに静かに問われれば、別に自分には関係ないので、首を振った。
それを見てチルニーはリーナに声をかけて、
「・・・問題ないようですね。さあ、それより今日の午後のおやつは、クリームパイだそうですよ。お好きでしたよね。さあ、参りましょう。」
とニコニコ声をかけている。
私は、もう一度シーツの手触りを確かめるように、一度引っ張り、ゆっくり台に足を乗せ首をその輪にかけた。
そして、思いきり台をけったが急に締まる首に顔が一瞬で熱くなり、苦しくて足をバタバタさせると、あとは耳がき~んとして何もわからなくなった。
やがて、ぶちっとした音と共に、下にたたきつけられた。
どうやら私の重さに古いシーツがたえられなかったらしい。
激しく涙と鼻水とよだれで苦しんでいると、再び、
「あなた馬鹿?」
という声が、にじむ思考のどこかから聞こえてきた。
しばらく仰向けになり、落ち着くのを待ったが、なぜかとてもおかしくて、かすれた声であったが、生まれて初めて大爆笑した。
こんなものか!こんなものなのか!
そして、同じく初めて号泣した。
気が付くと、あの一行はすでにおらず、静かなしずかな時間が訪れた。
どのくらいの時間がたったろう?どうせ館の連中は、私のことには、しばらく気が付くまい。
私は生まれて初めて自分の思いのままに行動した。
その結果がこれだ。
ならば・・・。
汚れた服をはたき、きれたシーツで顔をふき、ふっと息をつくと、当たり前のように主館へ赴き、自分の身に着けた最高の礼でもって、どうか私にもお茶のお供をさせて下さいとお願いした。
ギランは私の首を囲む赤黒い痕をかっこわる~といって笑い、チルニーは、リーナをみて肩をすくめ
邪魔をしなければ、としぶしぶ認め、そして彼女の、
「ねえ、クリームパイは好き?」
の言葉に、苦手です、と答えれば、まるで自然に私も入ったお茶会が再度はじまった。
私には何もないけれど、けれどここには、それを問題にする何もなかった。
姉は離宮で初めて息がつけたと言うが、私は初めてここで息をする自分がいとおしく思った。
後宮で側妃腹の皇子はいらぬと何度も殺されかけ、離宮でも戦略結婚にも使えぬ厄介ものと扱われ、自分でも何の意味があるのかわからない15の生だったが、彼らのそばで自然にふるまう自分がいた。
リーナが
「私より2つも上なのに、こんなお馬鹿に育つなんて・・。」
「ねえ、チルニー先生、生徒がもう一人いてもいいでしょ?」
そう言えば、チルニーはとても嫌な顔をして、仕方がないとばかりにこちらを見る。
ギランが、
「え~、俺の方がおバカだよ!絶対そおだよ~、何で俺はダメで、このちびはいいのお~。」
と倒れこみ、手足をバタバタさせてリーナに訴えかけるが、冷たく足で転がされている。
あまりに綺麗に遊ばれているので、思わず笑ってしまった。
自分は何もない真っ白な何か人ではない欠損している存在だと思っていたが、こうやって、すんなりとここにいることを許されたのを考えれば、古の賢者の言葉通り「全てこともなし!」と思える、はじめての幸せに浸っていた。