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第27話 ピザの夜と、特等席――エルフ少女の居場所が増えた日

銀座の特約店を出る前に、ノエルが軽く指を鳴らした。


「《認識阻害結界》、展開」


ふわっと空気がゆるむ。

周囲の視線が、こちらを滑っていくような、あの独特の感覚。


「よし。これで街中も移動できるな」


ノエルが満足げに胸を張る。


「ふふん。人混み対策は完璧よ」


フィーネはきょろ、と周囲を見回した。


「……見えているのに、気にされていない感じがします……」


さっきまで《衣透視》の試運転で真っ赤になっていた顔が、今は不思議そうな色に変わっている。


俺は二人を見て言った。


「じゃあ次は、フィーネの服や日用品を買いに行こう」


フィーネが目を瞬く。


「……わたしの、ですか……?」


「そう。生活に必要なものを買いに行こう」


ノエルがすぐに乗ってくる。


「いいわね。生活準備、大事だもの!」


フィーネは少しだけ戸惑った顔をしたあと、小さく頷いた。


「……ありがとうございます……」



銀座のデパートは、平日でも人が多い。


明るい照明。

磨かれた床。

すれ違う人の服も、香水も、全部が“街”って感じだ。


ノエルが前を歩きながら言う。


「現代の階層攻略開始ね」


「ダンジョン扱いするな」


まずは生活用品売り場へ向かう。


歯ブラシの棚を前に、フィーネがぴたりと止まった。


「……歯を磨く道具が、こんなに……?」


「種類が多いだけだ」


棚から柔らかめの歯ブラシを取る。


「最初は痛くないやつがいい」


「……はい……」


真面目に頷く。


次はコップ。


ガラス、陶器、色付き、柄入り。

棚いっぱいに並んでいる。


フィーネは少し迷ってから、淡い緑色のコップを両手で持った。


「……これが、好きです……」


「それにしよう」


ノエルが肩をすくめる。


「ふふん。慎重派ね」


タオル売り場では、ふわふわの感触に目を丸くした。


「……やわらかい……」


「好きな色でいい」


「……では……こちらを……」


選んだのは、やっぱり落ち着いた森色。

らしいな、と思う。


スキンケア売り場では、また少し緊張した顔になる。


「……これは……何に使うのでしょうか……」


「肌を整えるやつだ。乾燥すると地味にきつい」


無香料のものを選んで渡すと、フィーネは大事そうに受け取った。


「……はい……」


こういうものを一つずつ揃えていくことが、“ここで暮らす”ってことなんだろう。



次は衣類売り場。


フロアに並ぶ服の多さに、フィーネの視線が泳ぐ。


「……こんなに、必要でしょうか……」


「必要だ」


即答すると、フィーネは小さく背筋を伸ばした。


普段着。

羽織るもの。

替えの分。


フィーネが手に取るのは、どれも落ち着いた色ばかりだ。

白、淡い緑、やさしい灰色。


そこへノエルが、見るからに目立つ服を持ってきた。

黄色のフリル付きワンピース。

胸元に小さなリボンがついていて、いかにも“可愛い服”という感じのやつだ。


「これ、絶対似合うわよ!」


フィーネがびくっとして、その服と自分を見比べる。


「……わ、わたしには……少し……」


「今は無理させるな」


俺が言うと、ノエルはくすっと笑った。


「ふふん。慎重派ね」


でも完全には引かない。

黄色いワンピースを名残惜しそうに戻していた。



下着売り場に入った瞬間、フィーネがぴたりと止まる。


「……っ」


ノエルが即座に腕を引いた。


「ここからは女同士の時間よ」


「頼んだ」


俺は少し離れた場所で待つ。


ダンジョンで群れに囲まれるより、こういう待ち時間のほうが妙に落ち着かないのは何なんだろうな。


しばらくして戻ってきたフィーネは、耳まで赤かった。


「……お待たせしました……」


「大丈夫か」


「……はい……」


ノエルはなぜか満足げだ。

何を選んだのかは聞かないでおこう。



パジャマ売り場。


フィーネの手が止まる。


「……夜が……少し……」


その一言で分かる。


「夜が少しでも楽になるやつにしよう」


フィーネが顔を上げる。


しばらく見比べてから、星柄の、淡い色のパジャマを手に取った。


「……これなら……少し、怖くないかもしれません……」


「それにしよう」


静かに決まった。


歯ブラシ、コップ、タオル、スキンケア。

服に、下着に、パジャマ。


一つずつ、フィーネの“自分のもの”が増えていく。



最後に食品フロアへ向かう。


ノエルが急に目を輝かせた。


「祝いよ!」


「何がだ」


「フィーネの生活開始記念! 今日はピザにしましょう!」


フィーネが首を傾げる。


「……ぴざ……?」


「平たいパンみたいな生地の上に、チーズとか肉とかが乗ってる。切ってみんなで食べるやつだ」


「……なるほど……」


分かったような、分かってないような顔で頷く。


とりあえず、チーズ多めのもの。

肉系。

辛くなさそうな優しめの味。


何枚か選んで会計へ向かおうとしたところで、ノエルの足がぴたりと止まった。


「……あれだわ」


視線の先には酒売り場。


ラベルに、大吟醸『女神』とある。


「一本だけな」


「やった!」


ノエルが即答する。

はっきりしすぎていて笑う。


フィーネが瓶を見つめる。


「……女神を、飲むのですか……?」


「そういう名前らしい」


ノエルが上機嫌で言う。


「地上は自由なのよ」



荷物が増えたので、帰りもタクシーだ。


後部座席で、フィーネは膝の上の袋を見つめている。

コップ、タオル、服、パジャマ。


どれも、今日選んだものだ。


窓の外を流れていく銀座の夜景は、昨日見たときと同じはずなのに、どこか見え方が違う。


フィーネがぽつりと言った。


「……今日は、“わたしのもの”が、たくさん増えました……」


「そうだな」


ノエルが酒を抱えて笑う。


「そして我には女神があるわ!」


「静かにしろ」


フィーネが小さく笑った。


ほんの少しだけ、肩の力が抜けている。


ダンジョンで拾ったのは、金や道具だけじゃない。

こうして少しずつ、守る理由も増えていく。


タクシーはマンションへ向かって走っていった。



帰宅して荷物を置くと、ノエルが待ってましたとばかりにピザの箱を持ち上げた。


「さあ! ピザパーティよ!」


「元気だなお前は」


「祝いの日に静かにする理由がないもの」


その理屈はよく分からないが、今日はそれでいい気もした。


テーブルに箱を並べる。

蓋を開けた瞬間、焼けたチーズとソースの匂いが広がった。


フィーネが目を丸くする。


「……これが……ぴざ……」


「そう。熱いから気をつけろ」


切り分けて皿に乗せる。

ノエルは当然のようにビールと『女神』を並べ始めた。


「最初はビール。次に女神。流れが完璧ね」


「飲みすぎるなよ」


「祝いの日よ?」


「だから一本だけって言っただろ」


フィーネは湯気の立つピザを、じっと見ている。


「……パンの上に……こんなに、たくさん……」


「食べてみろ」


おそるおそる持ち上げて、ひと口。


その瞬間、フィーネの肩がぴくっと跳ねた。


「……あつ……っ」


「大丈夫か」


「……だ、大丈夫です……でも……すごいです……」


もう一口。

今度は慎重に噛む。


「……やわらかくて……しょっぱくて……チーズが、とても濃いです……」


「だろ?」


ノエルはすでに上機嫌だ。


「この背徳感がいいのよ! 夜に食べるピザは、なぜこんなにも正しいのかしら!」


「知らん」


肉の乗ったやつを食べたフィーネが、少しだけ目を見開く。


「……こっちは、香りが強いです……でも、おいしいです……」


「そっちは肉系だな」


「……ぴざ……すごいです……」


その言い方が妙に真面目で、少し笑いそうになる。


ノエルが『女神』を開ける。


「では、こちらもいきましょう」


「待て。ペースを考えろ」


「天使に節度を求めるなんて無茶よ」


何を言ってるんだこいつは。


でも、嬉しそうだから止める気も少し失せる。


フィーネはピザを大事そうに食べている。

急がない。ひと口ずつ、ちゃんと味わっている。


「……おいしいです……」


小さく漏れたその声に、肩の力が抜ける。


銀座を歩いて、生活用品を選んで、服を選んで、知らない食べ物を食べる。

たったそれだけのことなのに、“ここで暮らす”って実感は、こういう時間の中で育つのかもしれない。


ノエルがグラスを持ち上げた。


「改めて! フィーネの新生活に乾杯!」


「遅い乾杯だな」


「大事なのは気持ちよ!」


フィーネが少し慌てながら、麦茶のコップを持つ。


「……か、かんぱい……」


グラスと缶とコップが、軽く触れた。


食卓の明かりはやわらかい。

フィーネの耳は、少しだけ下がっていた。


落ち着いているとき。安心しているとき。

たぶん、あの耳はそうやって動く。


なら、今日は悪くない一日だったんだろう。



夜。


片付けを終えて、それぞれ部屋に戻った。


俺もベッドに入って、今日のことを少しだけ振り返る。


フィーネには、この世界のことをもう少し教えた方がいいかもしれない。

今日だって色々見て回ったが、まだ驚いてばかりだった。


少しずつ慣れていけるようにしてやった方がいい。

焦らず、一つずつ。


そんなことを考えていた、そのときだった。


コン、コン。


ドアが鳴る。


「はい」


少しだけ開いた隙間から、フィーネが顔を出した。


「……あの……シンゴさん……」


「どうした」


フィーネは両手を胸の前で揃えて、視線を落とす。


「……やっぱり……少し、怖くて……」


昼のあいだは笑えても、夜になると怖さが戻ってくる。

フィーネにとっては、まだそれが当たり前なんだろう。


「そっか。まだ少し怖いんだな」


フィーネがこくりと頷く。


「……はい……」


「じゃあ、今日もこっちで寝るか」


その言葉に、フィーネの肩が少しだけ下がった。


「……ありがとうございます……」


そっと部屋に入ってきたフィーネを見て、俺は左腕を肩のあたりまで上げる。


「ほら」


昨日と同じ位置へ入りやすいように、左側を空ける。


フィーネは少しだけ安心した顔になって、小さく言った。


「……失礼します……」


そうして、昨日と同じように左側へ入ってくる。

ちょうど俺の左わきの下へ収まるような位置だ。


布団が小さく揺れて、すぐ隣に体温が落ち着く。


俺は自然に、左腕をフィーネの背中へ回した。

昨日と同じ態勢だ。


華奢で、あたたかい。

そのぬくもりが腕に伝わってくると、フィーネの肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。


「……シンゴさんのとなり。とても落ち着きます……」


「俺の左側、フィーネの特等席かもしれないな」


少し笑いながら言うと、フィーネはぱっと顔を赤くした。


「……うれしいです……」


その返事が、やけにまっすぐで。

こっちまで少し困る。


でも、悪い気はしない。


「今日はたくさん歩いたし、疲れただろ。ゆっくり寝よう」


「……はい……今日は……たくさん、増えました……」


「何が」


「……わたしのものと……わたしの居場所、です……」


その言葉が、静かな部屋に落ちる。


俺は少しだけ息を吐いた。


「そう思えたなら、よかった」


フィーネは小さく頷く。


「……おやすみなさい……」


「おやすみ」


しばらくすると、隣から浅い寝息が聞こえてきた。


怖さがゼロになったわけじゃない。

不安が消えたわけでもない。


でも今日、フィーネは自分のコップを選んで、自分の服を選んで、自分のパジャマを選んだ。

そして今、自分の意思でここにいる。


それだけで、十分大きい。


静かな部屋で、二つの寝息が重なっていく。


今日はもう、それでよかった。


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