第27話 ピザの夜と、特等席――エルフ少女の居場所が増えた日
銀座の特約店を出る前に、ノエルが軽く指を鳴らした。
「《認識阻害結界》、展開」
ふわっと空気がゆるむ。
周囲の視線が、こちらを滑っていくような、あの独特の感覚。
「よし。これで街中も移動できるな」
ノエルが満足げに胸を張る。
「ふふん。人混み対策は完璧よ」
フィーネはきょろ、と周囲を見回した。
「……見えているのに、気にされていない感じがします……」
さっきまで《衣透視》の試運転で真っ赤になっていた顔が、今は不思議そうな色に変わっている。
俺は二人を見て言った。
「じゃあ次は、フィーネの服や日用品を買いに行こう」
フィーネが目を瞬く。
「……わたしの、ですか……?」
「そう。生活に必要なものを買いに行こう」
ノエルがすぐに乗ってくる。
「いいわね。生活準備、大事だもの!」
フィーネは少しだけ戸惑った顔をしたあと、小さく頷いた。
「……ありがとうございます……」
◆
銀座のデパートは、平日でも人が多い。
明るい照明。
磨かれた床。
すれ違う人の服も、香水も、全部が“街”って感じだ。
ノエルが前を歩きながら言う。
「現代の階層攻略開始ね」
「ダンジョン扱いするな」
まずは生活用品売り場へ向かう。
歯ブラシの棚を前に、フィーネがぴたりと止まった。
「……歯を磨く道具が、こんなに……?」
「種類が多いだけだ」
棚から柔らかめの歯ブラシを取る。
「最初は痛くないやつがいい」
「……はい……」
真面目に頷く。
次はコップ。
ガラス、陶器、色付き、柄入り。
棚いっぱいに並んでいる。
フィーネは少し迷ってから、淡い緑色のコップを両手で持った。
「……これが、好きです……」
「それにしよう」
ノエルが肩をすくめる。
「ふふん。慎重派ね」
タオル売り場では、ふわふわの感触に目を丸くした。
「……やわらかい……」
「好きな色でいい」
「……では……こちらを……」
選んだのは、やっぱり落ち着いた森色。
らしいな、と思う。
スキンケア売り場では、また少し緊張した顔になる。
「……これは……何に使うのでしょうか……」
「肌を整えるやつだ。乾燥すると地味にきつい」
無香料のものを選んで渡すと、フィーネは大事そうに受け取った。
「……はい……」
こういうものを一つずつ揃えていくことが、“ここで暮らす”ってことなんだろう。
◆
次は衣類売り場。
フロアに並ぶ服の多さに、フィーネの視線が泳ぐ。
「……こんなに、必要でしょうか……」
「必要だ」
即答すると、フィーネは小さく背筋を伸ばした。
普段着。
羽織るもの。
替えの分。
フィーネが手に取るのは、どれも落ち着いた色ばかりだ。
白、淡い緑、やさしい灰色。
そこへノエルが、見るからに目立つ服を持ってきた。
黄色のフリル付きワンピース。
胸元に小さなリボンがついていて、いかにも“可愛い服”という感じのやつだ。
「これ、絶対似合うわよ!」
フィーネがびくっとして、その服と自分を見比べる。
「……わ、わたしには……少し……」
「今は無理させるな」
俺が言うと、ノエルはくすっと笑った。
「ふふん。慎重派ね」
でも完全には引かない。
黄色いワンピースを名残惜しそうに戻していた。
◆
下着売り場に入った瞬間、フィーネがぴたりと止まる。
「……っ」
ノエルが即座に腕を引いた。
「ここからは女同士の時間よ」
「頼んだ」
俺は少し離れた場所で待つ。
ダンジョンで群れに囲まれるより、こういう待ち時間のほうが妙に落ち着かないのは何なんだろうな。
しばらくして戻ってきたフィーネは、耳まで赤かった。
「……お待たせしました……」
「大丈夫か」
「……はい……」
ノエルはなぜか満足げだ。
何を選んだのかは聞かないでおこう。
◆
パジャマ売り場。
フィーネの手が止まる。
「……夜が……少し……」
その一言で分かる。
「夜が少しでも楽になるやつにしよう」
フィーネが顔を上げる。
しばらく見比べてから、星柄の、淡い色のパジャマを手に取った。
「……これなら……少し、怖くないかもしれません……」
「それにしよう」
静かに決まった。
歯ブラシ、コップ、タオル、スキンケア。
服に、下着に、パジャマ。
一つずつ、フィーネの“自分のもの”が増えていく。
◆
最後に食品フロアへ向かう。
ノエルが急に目を輝かせた。
「祝いよ!」
「何がだ」
「フィーネの生活開始記念! 今日はピザにしましょう!」
フィーネが首を傾げる。
「……ぴざ……?」
「平たいパンみたいな生地の上に、チーズとか肉とかが乗ってる。切ってみんなで食べるやつだ」
「……なるほど……」
分かったような、分かってないような顔で頷く。
とりあえず、チーズ多めのもの。
肉系。
辛くなさそうな優しめの味。
何枚か選んで会計へ向かおうとしたところで、ノエルの足がぴたりと止まった。
「……あれだわ」
視線の先には酒売り場。
ラベルに、大吟醸『女神』とある。
「一本だけな」
「やった!」
ノエルが即答する。
はっきりしすぎていて笑う。
フィーネが瓶を見つめる。
「……女神を、飲むのですか……?」
「そういう名前らしい」
ノエルが上機嫌で言う。
「地上は自由なのよ」
◆
荷物が増えたので、帰りもタクシーだ。
後部座席で、フィーネは膝の上の袋を見つめている。
コップ、タオル、服、パジャマ。
どれも、今日選んだものだ。
窓の外を流れていく銀座の夜景は、昨日見たときと同じはずなのに、どこか見え方が違う。
フィーネがぽつりと言った。
「……今日は、“わたしのもの”が、たくさん増えました……」
「そうだな」
ノエルが酒を抱えて笑う。
「そして我には女神があるわ!」
「静かにしろ」
フィーネが小さく笑った。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けている。
ダンジョンで拾ったのは、金や道具だけじゃない。
こうして少しずつ、守る理由も増えていく。
タクシーはマンションへ向かって走っていった。
◆
帰宅して荷物を置くと、ノエルが待ってましたとばかりにピザの箱を持ち上げた。
「さあ! ピザパーティよ!」
「元気だなお前は」
「祝いの日に静かにする理由がないもの」
その理屈はよく分からないが、今日はそれでいい気もした。
テーブルに箱を並べる。
蓋を開けた瞬間、焼けたチーズとソースの匂いが広がった。
フィーネが目を丸くする。
「……これが……ぴざ……」
「そう。熱いから気をつけろ」
切り分けて皿に乗せる。
ノエルは当然のようにビールと『女神』を並べ始めた。
「最初はビール。次に女神。流れが完璧ね」
「飲みすぎるなよ」
「祝いの日よ?」
「だから一本だけって言っただろ」
フィーネは湯気の立つピザを、じっと見ている。
「……パンの上に……こんなに、たくさん……」
「食べてみろ」
おそるおそる持ち上げて、ひと口。
その瞬間、フィーネの肩がぴくっと跳ねた。
「……あつ……っ」
「大丈夫か」
「……だ、大丈夫です……でも……すごいです……」
もう一口。
今度は慎重に噛む。
「……やわらかくて……しょっぱくて……チーズが、とても濃いです……」
「だろ?」
ノエルはすでに上機嫌だ。
「この背徳感がいいのよ! 夜に食べるピザは、なぜこんなにも正しいのかしら!」
「知らん」
肉の乗ったやつを食べたフィーネが、少しだけ目を見開く。
「……こっちは、香りが強いです……でも、おいしいです……」
「そっちは肉系だな」
「……ぴざ……すごいです……」
その言い方が妙に真面目で、少し笑いそうになる。
ノエルが『女神』を開ける。
「では、こちらもいきましょう」
「待て。ペースを考えろ」
「天使に節度を求めるなんて無茶よ」
何を言ってるんだこいつは。
でも、嬉しそうだから止める気も少し失せる。
フィーネはピザを大事そうに食べている。
急がない。ひと口ずつ、ちゃんと味わっている。
「……おいしいです……」
小さく漏れたその声に、肩の力が抜ける。
銀座を歩いて、生活用品を選んで、服を選んで、知らない食べ物を食べる。
たったそれだけのことなのに、“ここで暮らす”って実感は、こういう時間の中で育つのかもしれない。
ノエルがグラスを持ち上げた。
「改めて! フィーネの新生活に乾杯!」
「遅い乾杯だな」
「大事なのは気持ちよ!」
フィーネが少し慌てながら、麦茶のコップを持つ。
「……か、かんぱい……」
グラスと缶とコップが、軽く触れた。
食卓の明かりはやわらかい。
フィーネの耳は、少しだけ下がっていた。
落ち着いているとき。安心しているとき。
たぶん、あの耳はそうやって動く。
なら、今日は悪くない一日だったんだろう。
◆
夜。
片付けを終えて、それぞれ部屋に戻った。
俺もベッドに入って、今日のことを少しだけ振り返る。
フィーネには、この世界のことをもう少し教えた方がいいかもしれない。
今日だって色々見て回ったが、まだ驚いてばかりだった。
少しずつ慣れていけるようにしてやった方がいい。
焦らず、一つずつ。
そんなことを考えていた、そのときだった。
コン、コン。
ドアが鳴る。
「はい」
少しだけ開いた隙間から、フィーネが顔を出した。
「……あの……シンゴさん……」
「どうした」
フィーネは両手を胸の前で揃えて、視線を落とす。
「……やっぱり……少し、怖くて……」
昼のあいだは笑えても、夜になると怖さが戻ってくる。
フィーネにとっては、まだそれが当たり前なんだろう。
「そっか。まだ少し怖いんだな」
フィーネがこくりと頷く。
「……はい……」
「じゃあ、今日もこっちで寝るか」
その言葉に、フィーネの肩が少しだけ下がった。
「……ありがとうございます……」
そっと部屋に入ってきたフィーネを見て、俺は左腕を肩のあたりまで上げる。
「ほら」
昨日と同じ位置へ入りやすいように、左側を空ける。
フィーネは少しだけ安心した顔になって、小さく言った。
「……失礼します……」
そうして、昨日と同じように左側へ入ってくる。
ちょうど俺の左わきの下へ収まるような位置だ。
布団が小さく揺れて、すぐ隣に体温が落ち着く。
俺は自然に、左腕をフィーネの背中へ回した。
昨日と同じ態勢だ。
華奢で、あたたかい。
そのぬくもりが腕に伝わってくると、フィーネの肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「……シンゴさんのとなり。とても落ち着きます……」
「俺の左側、フィーネの特等席かもしれないな」
少し笑いながら言うと、フィーネはぱっと顔を赤くした。
「……うれしいです……」
その返事が、やけにまっすぐで。
こっちまで少し困る。
でも、悪い気はしない。
「今日はたくさん歩いたし、疲れただろ。ゆっくり寝よう」
「……はい……今日は……たくさん、増えました……」
「何が」
「……わたしのものと……わたしの居場所、です……」
その言葉が、静かな部屋に落ちる。
俺は少しだけ息を吐いた。
「そう思えたなら、よかった」
フィーネは小さく頷く。
「……おやすみなさい……」
「おやすみ」
しばらくすると、隣から浅い寝息が聞こえてきた。
怖さがゼロになったわけじゃない。
不安が消えたわけでもない。
でも今日、フィーネは自分のコップを選んで、自分の服を選んで、自分のパジャマを選んだ。
そして今、自分の意思でここにいる。
それだけで、十分大きい。
静かな部屋で、二つの寝息が重なっていく。
今日はもう、それでよかった。
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