EP 10
スパイ少女、家賃が払えず『九条農園』のバイトになる
「……嘘でしょ」
アパート『ひまわり荘』103号室。
銀髪の美少女スパイ、アーニャは、スマートフォンの画面(銀行口座の残高)を見て絶望の声を漏らした。
【口座残高:254円】
「ど、どういうことですか本部! 私の今月の活動資金が振り込まれていません!」
アーニャは慌ててモスクワ本部に通信を入れた。
『ああ、アーニャか。すまないが、君の部隊の予算はすべて「神殺しトマトの解析および対九条国特別予算」に回された。国家の総力を挙げてあのトマトの量産体制を整える必要があるからな』
「なっ……!? じゃあ、私の生活費や家賃はどうなるんですか!」
『大統領からの命令を忘れたか? 「どんな手を使ってでも九条湊に取り入れ」だ。……自力で雇ってもらい、労働の対価としてあのトマトを現物支給で分捕ってこい。祖国は君の健闘を祈っている。通信終わり』
ブツッ。
無情にも通信が切れた。
ロシア裏社会で『氷点下の死神』と恐れられた最高のエリート暗殺者は、異国の地で、明日のご飯すら買えない極貧生活へと叩き落とされたのだ。
「ぐぅぅぅ……」
アーニャの平らなお腹が、情けない音を鳴らす。
昨日の夜から何も食べていない。
プライドを取るか、命を取るか。
「……背に腹は代えられないわ……!」
アーニャは意を決し、隣の102号室のインターホンを押した。
◇
「はーい」
ガチャリとドアが開く。
エプロン姿の怪物――九条湊が顔を出した。
「あれ、お隣のアーニャさん。どうしたの?」
「く、九条さん……あの、折り入って、ご相談が……」
アーニャは、暗殺者としての矜持をすべて捨て去り、深々と頭を下げた。
「私を……私を、九条さんのメイドとして雇っていただけないでしょうか! 掃除でも洗濯でも、なんでもします! ですから、どうかお慈悲を……!」
ぐぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!
懇願と同時に、アーニャのお腹が100デシベルくらいの大音量で鳴り響いた。
彼女は顔を真っ赤にしてうつむく。穴があったら入りたい。いや、自分で穴を掘って埋まりたい。
「……あー」
俺は、彼女の様子を見てすべてを察した。
「留学生って、生活費カツカツだもんなぁ。仕送り、遅れてるのか?」
「えっ……あ、はい。そんなところです……」
「よし、事情はわかった。メイドは間に合ってるけど(カレンがいるから)、ちょうど人手が欲しかったところなんだ」
俺は彼女の手を引き、ポンと麦わら帽子を被せた。
「時給1000円。まかない(トマト)付き。これでどうだ?」
「やります!!!」
即答だった。
こうして、俺の地下農園に新たなアルバイトが加わることになった。
◇
「ひぃっ、はぁっ……! し、死ぬ……!」
地下50層、『九条農園』。
ジャージに着替え、首にタオルを巻いたアーニャは、広大なトマト畑の中でフラフラになりながら収穫作業を行っていた。
「Hahaha! アーニャ嬢、腰が入ってないぜ! 農作業は体幹が命だ!」
隣の畝では、全米No.1ヒーローのジャックが、上半身裸で汗を輝かせながら、10トンほどの肥料袋を軽々と運んでいる。
「師匠の愛の結晶……一つたりとも傷つけるわけにはいきませんわ!」
その向こうでは、『氷の女帝』カレンが、氷魔法で繊細な温度管理を行いながら、愛おしそうにトマトを磨いている。
(……なんなの、この空間)
アーニャは眩暈を覚えた。
SSSランクの英雄が肥料を運び、Sランクの女帝が室外機代わりになり、畑の中央では、かつて世界を滅ぼしかけた『邪神』のコアが、ブォォォォンとマイナスイオン(成長促進魔力)を吐き出している。
そして、主である九条湊は、デッキブラシで土を叩いては「おお、いい土だ」と謎の錬金術(土壌解体)を行っている。
ここは魔境だ。世界最強の軍隊が来ても、3秒で肥料にされるだろう。
「おーい、アーニャさん! そろそろお昼休憩にしよう!」
湊の声がかかる。
アーニャは泥だらけのまま、へなへなとその場に座り込んだ。
「お疲れ。はい、まかない」
湊が、もぎたての真っ赤な『神殺しトマト』を差し出してくる。
ロシアの科学者が「一口で寿命が100年延びる神の果実」と断定した、あの超絶チートアイテムだ。国家予算レベルの代物を、この男は「まかない」として無造作に渡してくる。
「……いただきます」
空腹には勝てない。
アーニャはトマトを両手で持ち、ガブリとかぶりついた。
ジュワッ……!
「……っ!!」
アーニャの目が、カッ!と見開かれた。
果汁が口いっぱいに広がった瞬間、全身の細胞が歓喜の声を上げた。
疲労が完全に消し飛び、暗殺者としての身体能力が、限界を突破して底上げされていくのを感じる。魔力の最大値が跳ね上がり、視界が恐ろしいほどクリアになる。
「……美味しい……」
理屈ではない。ただ純粋に、魂が震えるほど美味しかった。
気がつけば、アーニャの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「おお、泣くほど美味かったか。よかったよかった。午後からも頑張ってな!」
「……はいっ! 私、頑張ります!!」
アーニャは涙を拭い、泥だらけの顔で最高の笑顔を見せた。
祖国の任務? 暗殺? そんなものはもうどうでもいい。
私は今、この神の果実を育てるために生きているのだ。
「私……一生ここでトマトもぎます……!」
こうして。
ロシアが誇る冷酷無比な『氷点下の死神』は、九条農園の優秀な『パートタイム農婦』として、第二の人生を力強く歩み始めたのである。




