EP 9
【悲報】湊の作った『神殺しトマト』、エリクサーを超える
103号室に逃げ帰ったアーニャは、ドアに何重もの鍵と魔力ロックをかけ、その場にへたり込んだ。
「はぁっ、はぁっ……! 死ぬかと思った……!」
彼女の全身は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
震える手の中には、先ほどターゲット(九条湊)から「お返し」として渡された、禍々しいほど赤く輝く球体――『トマト』がある。
(私の猛毒を飲み干し、笑顔でこれを渡してきた。……間違いない。これは『警告』だわ)
『お前がスパイであることは分かっている。次はないぞ』という、怪物からの強烈なメッセージ。
アーニャは、部屋の隅に偽装して設置してある、祖国ロシアと直通の『超空間・物質転送装置(極秘軍事技術)』を起動した。
「……こちら『氷点下の死神』。モスクワ本部、応答せよ」
『こちら本部。どうしたアーニャ。すでにターゲットの暗殺は完了したか?』
通信機から、上官の冷徹な声が響く。
「……失敗した。ターゲットは『皇帝の涙』を無効化。さらに……これを私に渡してきた」
アーニャは、震える手でトマトを転送装置のシリンダーに入れた。
「直ちに成分を解析してほしい。恐らく、未知の魔力圧縮爆弾か、あるいは……世界を滅ぼす新型の生物兵器の可能性があるわ。取り扱いには細心の注意を」
『なんだと? 分かった。ただちに国家最高機密研究所のトップチームを招集し、解析に当たる』
通信が切れ、トマトが青白い光に包まれてモスクワへと転送されていった。
アーニャはベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
(……九条湊。なんという恐ろしい男なの。彼を敵に回したのは、ロシアの歴史上最大の過ちかもしれないわ……)
◇
その頃。
ロシアの地下深くにある、国家最高機密研究所。
防護服を着た数十人のトップエリート科学者たちが、厳重な隔離チャンバーの中に置かれた「赤い球体」を囲み、スーパーコンピューターの解析結果を固唾を飲んで見守っていた。
「……解析率、99%。出ます!」
メインモニターに、ズラリと未知の化学式と魔力波形が表示される。
それを見た主任研究員のメガネが、カシャンと音を立てて床に落ちた。
「ば、バカな……。なんだこれは。機械の故障か!?」
「主任! 毒素や爆発物は一切検出されません! それどころか、この果実を構成しているのは……純度100%の『生命エネルギー』です!」
研究所内が騒然となる。
「どういうことだ!? ただのトマトではないのか!?」
「細胞レベルでの超回復作用! あらゆる病原菌や呪いを浄化する抗体魔力! それに、このテロメア修復効果は……!」
白衣の科学者が、震える指でモニターを指差した。
「もし、これを人間が一口でもかじれば……全身の細胞が若返り、寿命が物理的に『100年』は延長されます! 伝説の霊薬すら足元にも及ばない、まさに『神の果実』です!!」
「「「なんだとォォォォッ!?」」」
その報告は、すぐさまクレムリン宮殿の最奥――ロシア大統領の耳にも届けられた。
『不老不死の果実だと……!? あの日本のボロアパートに住む男が、それを生み出したというのか!?』
大統領の怒声が、通信機越しにアーニャの部屋に響き渡った。
アーニャは直立不動で冷や汗を流している。
『アーニャ! 九条湊は、その「神の果実」を、本当に君への「挨拶代わり」として渡してきたのだな!?』
「は、はい! 『腐るほどあるから、足りなかったら言ってね』と、狂気に満ちた笑顔で……!」
『なんという男だ……!』
大統領が、机を力強く叩く音が聞こえた。
『つまり、我々が国家の威信を懸けて開発した猛毒を「不味いお茶」として笑い飛ばし、見返りに「不老不死」をポンと与えてきたということだ! これは、我々ロシアという大国を、子供扱いしているに等しい!』
「そ、その通りかと……」
『しかし……! もしそのトマトを量産・独占できれば、我が国は世界の覇権を永遠に握ることができる! 病床にある我が国の要人たちも、すべて救われるのだ!』
通信の向こうで、大統領が荒い息を吐いている。
『アーニャ! 暗殺計画は即刻中止だ! 九条湊を怒らせてはならない!』
「ハッ!」
『君の新たな任務は……どんな手を使ってでも、九条湊に取り入り、その「神のトマト」の供給ルートを確保することだ! 彼が望むなら、君の身を捧げても構わん! いや、むしろ土下座してでもメイドとして雇ってもらえ!』
「……へ?」
アーニャの頭が真っ白になった。
『これは国家命令だ! いいな! 絶対に、九条農園の機嫌を損ねるなよ!!』
ブツッ。
通信が一方的に切れた。
103号室に、静寂が戻る。
「……私が、あの怪物の、メイド……?」
世界最高の暗殺者として育てられ、氷点下の死神と恐れられた少女は、床にへたり込み、両手で顔を覆った。
「お母さん……私、日本のボロアパートで、農家のお手伝いをすることになりそうです……」
アーニャの目から、祖国を思う一筋の(悔し)涙がこぼれ落ちた。
こうして、世界を裏から牛耳る大国ロシアは、九条農園の『トマト』の前に、完全なる敗北と屈服を誓ったのである。




