EP 7
隣の部屋(103号室)に、銀髪ロシア美少女(凄腕スパイ)が越してきた
アパート『ひまわり荘』――現・九条独立国。
その102号室の隣、空室だった103号室の薄暗い部屋の中で。
「……ターゲットは、現在102号室(地上)にいる」
銀色の長い髪を無造作に束ねた少女――アナスタシア・ニコラエヴァは、壁に当てた特殊な魔力探知機(ロシア軍の最新鋭)のインジケーターを見つめながら、トランシーバーにロシア語で囁いた。
コードネーム『氷点下の死神』。
年齢は10代後半だが、ロシア裏社会で彼女の右に出る暗殺者はいない。
「日米の首脳を震え上がらせ、地下に巨大帝国を築き上げた怪物……九条湊」
彼女の目的は、この特異点(九条国)の秘密を奪取し、可能であれば王である九条湊を排除(暗殺)すること。祖国ロシアの覇権のために。
どんな恐ろしい魔王のような男だろうか。
アナスタシアは息を殺し、壁越しの会話を盗聴する。
『あー、テレビのリモコンどこだっけ? 未緒、知らない?』
『お兄ちゃんのお尻の下じゃないの?』
『あ、ほんとだ』
「…………」
……ただの怠惰な一般人である。
(油断させるための擬態……! なんて恐ろしい男)
アナスタシアは背筋に冷たい汗をかいた。
あんな間の抜けた会話すら、高度な情報戦の一部なのだ。
彼女は深呼吸し、テーブルに置かれた『魔法瓶』を手に取った。
中に入っているのは、特製の『ロシアンティー(ジャム入りの紅茶)』。
ただし、そのジャムには、ロシアの研究所が開発した無味無臭の超致死性猛毒『皇帝の涙』がたっぷりと仕込まれている。
一口でも飲めば、どんな高位の探索者(Sランク)であろうと、数秒で心臓が停止する代物だ。
「……行くぞ」
アナスタシアは、暗殺者の冷酷な瞳を瞬きで隠し、代わりに「愛想の良い隣人」の完璧な笑顔を作った。
◇
ピンポーン。
「はーい」
俺が玄関のドアを開けると、そこには、息を呑むほどの美少女が立っていた。
透き通るような白い肌に、色素の薄い銀色の髪。青い瞳が、少し不安そうにこちらを見上げている。
まるで雪の妖精のようだ。
「……あっ、初めまして。隣の103号室に越してきた、アナスタシアと申します。アーニャと呼んでください」
少女――アーニャは、少しはにかみながら、流暢な日本語でお辞儀をした。
可愛い。計算し尽くされたような美少女の立ち振る舞いだ。
「お、隣の人か。ご丁寧にどうも。九条湊です。引っ越し作業、大変だったでしょ」
俺は笑顔で応対した。
こんなボロアパートに外国人の美少女が引っ越してくるなんて珍しい。留学生だろうか。
(……隙だらけ。本当にこれが、世界を揺るがす怪物?)
アーニャは内心で冷笑しながら、手提げ袋から魔法瓶と可愛らしいティーカップを取り出した。
「これ、引っ越しのご挨拶です。私の故郷の『ロシアンティー』なんですが……よろしければ、一杯いかがですか? まだ温かいので」
「えっ、わざわざ淹れてきてくれたの? 悪いね、ありがとう」
俺は全く疑う様子もなく、カップを受け取る。
アーニャは魔法瓶から、赤いジャムが溶け込んだ紅茶をトクトクと注いだ。
湯気と共に、イチゴのような甘い香りが漂う。
(飲め。そして死ね、九条湊)
アーニャの目が、一瞬だけ暗殺者の冷酷な光を帯びる。
「わぁ、いい匂い。イチゴジャムかな?」
「はい。特製のジャムです」
俺がカップを口元に運ぶ。
あと数センチ。
あと数ミリ。
「あ、お兄ちゃん誰ー?……って、うわっ! 外国人の超絶美少女!」
奥から未緒が顔を出した。
「隣に越してきたアーニャさんだってさ。お茶もらったぞ」
「えっ、いいなー! 私も飲みたい!」
「……そのお茶、少しクセがあるかもしれませんけど、体にはとっても良いんですよ(永遠の眠りにつけるという意味で)」
アーニャは微笑みを崩さない。未緒に飲まれては困るが、ターゲットが一口でも飲めばそれで任務は完了だ。
「へえ、ありがたいな。ちょうど喉乾いてたんだよね」
俺が再びカップを傾ける。
(さあ、飲め……!)
アーニャの心臓が早鐘を打つ。
ごくり。
俺は、紅茶を一口、口に含んだ。
(……任務完了。さらばだ、九条湊。お前の死因は急性心不全として処理され、この地下帝国は我が祖国ロシアのものと――)
「――ん?」
俺は、突然動きを止めた。
カップを持ったまま、眉をひそめる。
(効いた! さあ、血を吐いて倒れろ!)
アーニャが一歩下がり、倒れ込んでくる俺を躱す準備をした、その時。
「……あー、ごめんアーニャさん」
俺はカップの中を覗き込みながら、申し訳なさそうに言った。
「この紅茶、ちょっと『傷んでる』みたいだよ」
「……は?」
アーニャは間抜けな声を出した。
倒れない。苦しまない。
それどころか、「傷んでいる」?
「なんか、ティーポットかなんかに『汚れ』がついてたんじゃないかな。不純物っていうか、体に悪そうな成分が混ざってる味がする」
(体に悪そうな成分って……致死量ギリギリまでぶち込んだ超猛毒のこと!? それを味覚で察知した!?)
アーニャの顔色が悪くなる。
そりゃそうだ。俺の『解体』スキルは、味覚にも影響している。「汚れ(毒)」が混ざった食べ物は、俺の舌には「ホコリを食べている」ようにしか感じられないのだ。
「ちょっと待っててね。せっかくもらったから、ちゃんと『綺麗に』してから飲むよ」
俺はそう言うと、持っていた紅茶のカップに向けて、もう片方の手をスッとかざした。
対象:カップ内の『不純物(毒素)』。
処理:紅茶の成分から完全に分離し、蒸発(消臭)させる。
「――『解体』」
シュワッ……!
カップの中から、微かに黒い煙のようなものが立ち上り、一瞬で空中に溶けて消えた。
それと同時に、濁っていた紅茶の色が、透き通るような美しいルビー色へと変化した。
「……え?」
アーニャが目を剥く。
「よし、これで純度100%の綺麗な紅茶になった。いただきます」
俺は、猛毒を、今度こそ一気に飲み干した。




