7 ここの花たちと同じくらい、貴方を大切に思っているわ
薄いルージュを塗ったマダムの口から予想外の人物の名前が飛び出し、ミオーレとアスカディアは目を見張った。
マダムの兄でありランディルの祖父であるライネルは、アルファ至上主義を掲げて差別的な統治をした王である。「アルファ以外は人に非ず――」そんなことを平気で口にするような人物だった。
アルファだけが徹底的に優遇され、彼ら以外は搾取される。ライネルの治世はオメガだけでなく、ベータにとっても暗黒期であった。ついには奴隷制の復活を口にしたほど。その思想を危険視した元老院が結託し、娘のロベリア王女を女王に即位させていなかったら、今のグラングレイス王国はない。
「兄はオメガのわたくしをいつも蔑んでいた。牝牛の匂いがするからと、東の塔の最上階に閉じ込めて……十六歳で初めてのヒートを起こしてすぐ、ドミトリオン帝国へ売り飛ばすように嫁がされたわ」
当初ミオーレの執務室が置かれようとしていた、あの膝砕きの塔のことだ。ライネルの時代から城に巣食う古い参議たちはそのような背景を知っているはずなのに、本当に底意地が悪い。マダムが受けた仕打ちを思うと、ミオーレは悔しさと怒りが込み上げた。
「ライネル様は、オメガのフェロモンを研究して何をしようとされていたのですか」
慎重に問うミオーレへ、天蓋をぼうっと見つめていたジルコンの宝石眼がゆっくりと向けられる。
「孕むことしかできない無能なオメガに価値を与えてやると……具体的にはわからないけど、オメガのフェロモンを人為的に抽出しようとしていたみたい。だけどわたくしがドミトリオン帝国から亡命してきた時にはもう、研究は跡形もなく立ち消えてた。携わった人々の命ごと……」
「でもね」とマダムは続け、ベッド横のキャビネットに手を伸ばすと、扉の鍵を開けて古い紙束を取り出した。それをミオーレへ手渡し、ふっと微笑んだ。まるで肩の荷が下りたとでも言うように。
「これは……」
「研究資料の一部の原本よ。逃げ延びた被害者のオメガのひとりが、わたくしの生還を聞きつけてここを訪れてね。『他の人に渡るくらいなら』って、託されたの。これのおかげで抑制剤の研究が飛躍的に進んだんだから、皮肉よね」
命懸けで逃げる際、非人道的な扱いをされたことへの怒りと、次の時代がオメガにとってより良いものになるようにと希望を賭けて、この資料を盗んだそうだ。
それをマダムは信頼できる有識者と共有し、念願だった抑制剤の完成を成し遂げた。
「その被検体のオメガは、今どちらに」
「ここで保護したけど、数日経たずに亡くなったわ。元々かなり衰弱していたから……」
「そうですか……」
アスカディアは顎に指を当て、考える仕草をする。
ライネルの研究が今回の戦術兵器そのものだったのか、もしくは転用されたのかはわからないが、事件に使われている可能性は高い。
だが研究を先導していたライネルは、十年前に持病を悪化させて崩御した。携わった人々も、マダムの話では口封じのため殺されている。
次に誰を追うべきか思案しているアスカディアのペリースの端を、黙々と資料を捲っていたミオーレが引っ張った。
「アスカディア、これ……」
ミオーレに促され、アスカディアは身を乗り出して資料に視線を這わせる。
――朝から晩まで監房のような研究所に詰め込まれて毎日嫌になる。
――進捗が悪いと所長が声を荒らげる。憂鬱だ。
――手術が失敗して実験体が死んだ。これで十三人目。
それは一見すると、研究の内容自体には関係ない研究員の愚痴のような乱文だ。
だがそこに、思わぬ人物の名前を見つけた。
――今日はロベリア殿下が視察でいらっしゃった。陛下とは違って穏やかで美しい方だった。被検体数人と話をしてすぐに退室されたが、またお姿を見せてくださらないだろうか。
「ロベリア女王が、研究に関与していた……?」
動揺を隠しきれない声で、アスカディアが呟く。
ランディルの母ロベリアは、精神的な不調を理由に、ランディルが成人してすぐ生前退位している。今は国政から遠ざかるよう、数人の使用人を連れて離宮で静養中だ。
ロベリアが唯一生き残っている当事者かもしれない。どうにかして話を聞きたい。
「陛下に事情を話せば、ロベリア様との面会の機会をお与えくださるかも」
「ああ、すぐにでも城に戻ってご報告しよう」
心が急いて仕方がない若いふたりへ、マダムが微笑みかける。
「ふふふ、とても仲良しなのね。息もぴったり」
言われて初めて、肩が触れるほどくっついていることに気づいたふたりは、顔を見合わせた。とたんに気恥ずかしくなってそっと距離を取る。
その初々しい反応に「ふふふ」と、また綻んだ笑い声があふれた。居た堪れなくなったミオーレは「こほん」と軽く咳払いして、胸の動悸をどうにか抑える。
「マダム。この資料、しばらくお借りしても?」
「もちろんよ。ただし管理は厳重にお願いね、ミオーレ」
「心得ております。貴重な情報、助かりました」
「ご協力感謝します、マダム」
最後に再びマダムの手に口づけ、ふたりは薔薇の間を後にする。
だが退室する背中へ、マダムが「ミオーレ」と呼びかけた。アスカディアへ先に行くよう促し、彼女を振り返る。
「貴方、最近体調はどう? 何かおかしなことはない?」
「……? いえ、特には問題ありません」
ミオーレが分泌腺の疾患で度々体調を崩していたことを知っているから、心配してくれているのだろうか。だが身体が成熟してからは具合が悪くなることは稀だし、すこぶる元気だ。強いて言うなら、馬車でアスカディアに触れた時の不整脈や、アニーが彼に抱きついた時、それに「アスカディアが娼館通いしているのでは」と思った時の原因不明の苛立ちがあっただけ。だが報告すべきほどのことでもないと判断した。
「大丈夫ならいいのよ。何か少しでも異変があったらいつでもいらっしゃい。力になるから。貴方のご両親の代わりにはなれないけれど、ここの花たちと同じくらい、貴方を大切に思っているわ」
「……はい。ありがとうございます、マダム」
ベッドから優しく微笑む淑女に泣きそうな笑顔で一礼し、ミオーレは扉をそっと閉めた。
両親の死後、ミオーレを支えてくれたのはマダムやここの花君たちである。
突然の事故があった当時、幼いオメガがひとり残されたアーデルハイト家を利用してのし上がろうとする悪辣な勢力が後を絶たなかった。だがマダムたちの献身的な支えと協力のおかげで、ミオーレは欲に汚れた手をことごとく捻り潰し、家名を守れた。そして今はアルファの父が務めていたのと同じ宰相の地位にいる。
ミオーレの人生は何かに守られ、誰かに与えられてばかりだ。その責任を、恩を、多くのオメガを救うことで果たさなければ。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか神妙な顔になっていたらしい。階段のそばの壁に背を預けて待っていたアスカディアから「大丈夫か?」と声をかけられる。
「なんでもない。さあ、早く城に戻って陛下に――」
言いかけた直後、階段下から女性のけたたましい悲鳴が上がった。扉が蹴り破られる音と、何かが割れた音が立て続けに響く。ミオーレは反射的に階段を飛ぶように駆け降りた。




