6 どこであろうと自由に美しく咲きたいの
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娼館が連なる花街は、一般市民の住む市街地と比べて、貴族の邸宅のような豪華絢爛な造りの建物が多い。
というのも、花街で営業しているのは王家公認の管理が行き届いた娼館だけ。つまり利用者は貴族のような金銭的余裕のある上流階級に限られる。花街に手が届かない者たちは、未認可の売春宿が連なっている下町の裏路地に行くのだそうだ。
目に余るほど非道な労働環境でない限り、王家も普段は市民の娯楽に目を瞑ってくれている。抑圧は逆心を招き、数は力を凌駕する。国が真に恐れなければいけないのは外敵でも少数の有力な貴族でもなく、無辜の民なのだ。
ミオーレとアスカディアを乗せた馬車は、城と見紛うほど豪華な正面入り口ではなく、裏の勝手口に回された。
ミオーレは慣れた様子で柱の呼び鈴を三回、独特なリズムで鳴らす。こうすることで中の使用人が訪問者の素性を判断しているのだ。
勝手口を開けたのは、やたら体格が良く高貴な威厳を感じる年配の男性。使用人服よりも騎士の鎧のほうが似合いそうな風格があった。
彼はミオーレを出迎えると用件を聞くことなく「三階の薔薇の間でお待ちになられております」とだけ告げた。だが連れのアスカディアを見て、白い眉がわずかに上がる。
「彼は大丈夫だ。マダムも気に入ると思う」
「ミオーレ様がそうおっしゃるなら、わたくしめは何も」
たったそれだけ言葉を交わし、ミオーレは勝手知ったる様子で花筐の館のバックヤードを進む。道中、すれ違う仕事前の花君たちに次々と声をかけられた。
「ミオーレ、いらっしゃい」
「アニカ、今日は一段と綺麗だね。御贔屓のルートン公がいらっしゃるのかな?」
「なぁミオーレ、これからティーダ様と約束があるんだけど、どっちのスカーフが気に入ると思う?」
「ロジェット外務大臣のところの次男坊か。上客を捕まえたね、ニル。そうだなぁ……彼は琥珀色の瞳をしているから、こちらの落ち着いた黄色がいいと思うよ」
「ちょっとミオーレ聞いてよ! この前ベルったらお客様の前であたしの鼻が大きいって悪口言ったの!」
「ごめんロージー、話はまた今度で。マダムを待たせてるんだ。あと、きっとベルも鼻が大きいじゃなくて高いって言おうとしたんだと思う。シュッとしてていつも素敵だよ」
社交界と見間違うほど華やかなドレスやジャケットを身に付けたオメガたち。足を止めることなく流れるように相手をすれば、皆満足そうにしてミオーレに手を振る。
「手慣れてるな。よく来ているのか?」
「客として来たことはないけど、まぁそれなりに。ここのみんなは顔見知りで、家族みたいなものなんだ」
「なるほど、俺にとっての下町の住民のようなものか」
アスカディアの反応にミオーレはぎくりと身体を強張らせ、ぎこちなく後ろを振り返った。密偵を差し向けたことはもうばれている。アスカディアから「下町に通っているのはわかってるんだろう?」と追撃され、罰が悪そうに頷く。そんなやり取りも束の間、すぐに別のオメガから次々と声がかかる。
ミオーレにとってはいつものことなのだが、色とりどりの花々が休みなく押し寄せる光景に、アスカディアは少し気後れ気味のようだ。表情を強張らせ、廊下に差す影のようにして後をついてくる。
オメガだとわかると威圧的な態度を取るアルファも珍しくないが、アスカディアの反応はそうではなく、むしろ怯えているように見える。
(もしかしてオメガが嫌いなんじゃなくて、苦手なのか?)
仏頂面のせいで日頃から不機嫌に見えがちだが、彼の内面を少し覗き見た後だと、印象が変わる。オメガ関連で嫌な出来事でもあったのだろうか。
アスカディアの反応をこっそり注視していると、バスローブ姿の若い娼婦が彼の右腕へにゅっと絡みついた。支度前らしく、うっすらと濡れた茶髪がかかる可憐な相貌で、顔を引き攣らせたアスカディアを熱っぽく見つめる。湯上がりでしっとりとした胸元を押し付けるのも忘れずに。
その光景を見た瞬間、ミオーレはなぜか目の奥がカッと熱くなった。
「ミオーレ、この凛々しい方はどなた? あなたの恋人?」
「違うよアニー、彼はただの仕事仲間だ」
口にして、胸の奥が急激にさざ波立つ。制御できない虚しさと苛立ちが、ミオーレの内へ同時に打ち寄せた。それを悟られまいと、いつもの微笑みを必死に張り付ける。
「ふぅん……。じゃあお仕事が終わったらわたしと少し遊んでいかれませんか、アルファ様?」
「え、遠慮しておく。今は手持ちがない」
「うふふ、嘘が得意じゃないのね。わたし知ってるの、赤いマントは騎士団長の証だって。お店に来る騎士様たちが教えてくれたんですよ。騎士団長様ならお代は後払いでも……」
「アニー」
なおも食い下がろうとするアニーを、ミオーレがわずかに低くした声で制する。人当たりの良い微笑を浮かべてはいるが、瞳の奥は笑っていない。
実の兄のように慕うミオーレの静かな怒りを感じ取ったアニーは罰が悪そうに「はぁい」といじけた返事をして、アスカディアから身体を離した。オメガ特有の花のような香りをふわりとさせながら、そそくさとその場から立ち去る。
だが廊下の突き当りで不意に振り返ったと思ったら「気が変わったらいつでもご指名くださいね、騎士団長様」と、妖美な表情で投げキッスをした。
彼女が消えた廊下の奥をしばらく呆けて見ていたアスカディアの袖口を、ミオーレがくいっと軽く引っ張る。
「行こう。ここで働く花君は賢くて強かな子たちばかりだ。ぼーっとしてると骨の髄までしゃぶり尽くされてしまうよ」
冗談っぽく笑って、ミオーレは再び歩き出す。先ほど指の先まで一瞬で駆け抜けた不快感の正体がなんなのか考えながら。
(アニーは可愛い妹分なのに、変だな)
彼女の柔らかな肢体がアスカディアの逞しい腕に絡みつくのを、見ていられなかった。兄心とも違う。アニーがどんな客と連れ添っていようと、こんなに心を乱されたことはない。ということはつまり、アスカディアへの苛立ちなのだろうか。だが、どうして。
答えの出ない問答を頭の中で繰り返しているうちに、アニーが消えたのとは反対側の廊下の突き当りへ到着した。スタッフ専用の階段を上り、薔薇の間がある三階へ向かう。途中の二階は客室フロアらしく、あらゆる部屋から行為中の甘い声が漏れ聞こえた。
そこでふと、アスカディアが呟く。
「娼館なのに、フェロモンを感じない……」
怪訝そうにぼやくアスカディアを振り返り、ミオーレは小首をかしげた。
「性交中はアルファとオメガのフェロモンが混じり合って、ヒートの時のように匂いが強まるんだ。なのに、ここではそれが全くない」
そこでミオーレはようやく合点がいく。
アスカディアが言うように、普通の娼館では性交中のフェロモンが部屋の外へ垂れ流しになっている場合がほとんどである。仕事で他の娼館を何度か視察したことがあるが、あいにく疾患によってフェロモンへの反応が鈍いせいで、気にも留めなかった。
それより気になったのは、まるで実体験を語るように言うアスカディアの様子。再び不快なさざ波が打ち寄せるのを感じて、ミオーレは振り払うように踵を返し、再び階段を上がる。
「へぇ、わかるのか。娼館には通ってないって聞いたけど」
どうせもうばれているので、密偵が集めた情報を確認してみる。ミオーレとしてはからかい半分のつもりだったが、アスカディアからの返事は意外なものだった。
「死んだ母が下町の娼婦で、十歳まで娼館で暮らしていた。母の仕事中に店の雑用を手伝わされていたから、娼館の内部はよく知ってる」
下町出身とは聞いていたが、その情報は初耳である。階段の途中だが思わず後ろを振り向いて、アスカディアを遠慮気味に一瞥する。
「すまない、その事情は知らなくて……」
「十五年も前のことだし、別に気にしない」
そうあっさり返されたが、大切な家族との記憶を無粋に踏み荒らしてしまったような気がして、ミオーレは神妙な顔を伏せる。
ミオーレ自身も、幼少期に馬車の事故で両親を亡くしている。身近な人間を早くに失った悲しみが年月では薄まらないことは理解できるつもりだ。そして、不必要に踏み込んでほしくないことも。
それ以上アスカディアの柔らかな部分に触れられず、話題を本筋に戻すことにした。
「花筐の館は特殊でね。部屋それぞれにフェロモンを封じ込める特別な呪いを、マダムが施してる」
「なんだと?」
グラングレイス王国には、かつて魔法が存在した。大地や木々などの自然から発生するマナを身体に取り込み、それを自在に操って火を起こし、水を生み、風を吹かせる魔法使いたちの国だったのだ。
だが戦争を繰り返して文明化が進む中で、マナを操る魔力を持つ者は数を減らしていった。今では宝石眼を持つ王家一族が、わずかにその力を宿すのみ。
「待ってくれ。それが事実なら、そのマダムって――」
「さあ、ついたよ」
三階の廊下を話しながら進んでいたミオーレたちを、薔薇が彫られた豪奢な扉が出迎えた。
この扉の奥で待つ人物の正体――正確にはその一族について勘づいたアスカディアが、ミオーレを凝視している。
「マダムは私にアルファが牛耳る世界の裏側を教えてくれた恩師でもある。絶対に失礼のないように頼むよ」
未だ心の整理がついていないアスカディアの返事を待つことなく、ミオーレは扉についた金の薔薇のノッカーを叩いた。ややあって届いた「おはいりなさい」という年配の女性の声に促され、扉を押す。
「そろそろわたくしを訪ねて来る頃だと思っていたわ、ミオーレ。お友だちを連れてくるのは意外だったけど」
たっぷりとした白髪を結い上げた老齢の淑女が、奥の天蓋付きのベッドからゆっくりと手招きする。上半身だけを起こした痩躯を隠すように薄手のショールをいくつも肩に重ねた姿は、まるで寝具に咲く花。
太陽光を反射して輝く湖面のような彼女の薄水色の瞳に射抜かれ、全てを察したアスカディアはその場で素早く片膝をついた。
王族の宝石眼とは、何も本物の宝石が嵌め込まれているわけではない。体内を流れる微量なマナが内側から発光し、宝石のように輝いて見えるのだ。
「そのジルコンの宝石眼……ドミトリオン帝国へ嫁がれたランディル陛下の大叔母上、イネス王妃とお見受けします」
「うふふ、王妃だなんて呼ばれたのは何十年ぶりかしら。でもその名は夫から逃げる時に捨てたの。ここではマダムと呼んでちょうだい」
繊細なレースの扇子で口元を隠し、イネス――否、マダムが上品な笑い声を響かせた。
ランディルの実母であるロベリア前女王、その父である元国王ライネルの妹、イネス。
約五十年前、彼女は兄ライネルの指示により隣国のドミトリオン帝国の皇帝へ嫁いで以来、外交の場に姿を現さなくなった。国民の記憶から彼女の存在が薄れた頃に「死病を患い亡くなった」とドミトリオン帝国から簡素な書簡が届き、ライネルが弔旗を掲げたのだが――。
「あらあら。困惑しているみたいね、お若い騎士団長さん」
「失礼ながら、病でご逝去されたと聞き及んでいたもので……」
「そうよね。まさか夫の性暴力から逃げ出して母国で娼館を開いているなんて、思いもしないわよね」
衝撃的な内容に、アスカディアは絶句した。その横をすり抜け、ミオーレはマダムの痩せ細った手を取り、甲へ口付ける。
「過去の事を語るのはお身体に障ります。彼には後ほど私から説明しますので、今はどうかお心安く……」
「そう? じゃあお願いね」
声は朗らかだが、老いた身体は明らかに命の底が浅く見える。それでも生来の気品と優美さを失うことなく、マダムは若い宰相と騎士団長をそれぞれ見やった。
「ならさっそく本題に入ろうかしら。モーギュストンを狂暴化させたオメガのフェロモンについて聞きたいのでしょう?」
「それは特級機密案件のはず……」
「ここは特権階級のアルファが贔屓にしている花筐の館だよ。もちろん彼らも機密そのものは口にしないけど、それに関連する軽微な情報は自慢げに口を滑らせる。点と点を繋ぎさえすれば、機密は機密じゃなくなるのさ」
さらりと説明するミオーレに、アスカディアは頭を抱えたくなる。つまりどれだけ重要な機密事項でも、花筐の館には筒抜けということだ。
ここの娼婦たちは、マダムの教育によって情報を引き出すことに長けている。無知を装い、客の自尊心を満たし、国の中枢を人知れず覗き見ているのだ。ミオーレも官職に就いてから、何度もここの世話になっている。先の法案成立も、花筐の館の協力なしには成し得なかった。
「わたくしたちオメガは種を植え付けられて咲くだけの花じゃない。地中に根を張り、葉を伸ばし、どこであろうと自由に美しく咲きたいの。不躾な手で無碍に摘まれないよう、毒も持ちましょう。ミオーレにもそのように教えたわ」
「貴女方のやり方を否定はしません。ただ、末恐ろしいと思っただけです」
「うふふ、オメガを恐れるのは賢い証拠。ミオーレ、あなたのお友だちは良いアルファだわ」
「友人ではなくただの仕事仲間なのですが……よかったなアスカディア、気に入られたらしい」
どこかほっとした顔で目配せするミオーレに、アスカディアも軽く頷く。「こっちに来て」と招くマダムの手を取り、ミオーレに倣い恭しく唇を落とした。改めて、ふたりそろって寝台のそばへ膝をつく。
「モーギュストンを暴走させた実行犯はわからないけれど、身寄りのないオメガを大勢使ってフェロモンを研究していた人物なら心当たりがあるわ」
「十分です。貴重な手掛かりになります」
「それで、その人物は……」
ミオーレとアスカディアから順に問われ、マダムは水色の宝石眼で頭上の天蓋を見上げた。どこか懐かしむように、遠くを見るように。
「――研究を先導していたのはわたくしの兄、ライネルよ」




