5 私は世界一幸せなオメガです
◇ ◇ ◇
日が暮れかけた城下を質素な黒塗りの馬車が進む。カーテンで閉ざされた窓枠に頬杖をつき、石畳を進む車輪の振動に身を任せていたミオーレへ、真向いの席から怪訝そうな視線が突き刺さった。
「花筐の館はオメガの娼婦専門の高級娼館だろう。なぜそんな場所に……」
「そこのオーナーであるマダムに用があるんです。貴方も陛下の剣として共にこの国を導くなら、彼女と面識を持っておいたほうがいい」
お互いの膝が振動で触れるくらい狭い車内は、監獄と化していた執務室よりも幾分空気が軽くなっていた。穏やかに見えて傍若無人な面があるランディルからの王命に、ふたりとも諦めがついた、といったところだ。些細なことでいがみ合うよりも、適度に協力してさっさと解決してしまうに限る。ひいてはグラングレイス王国を、そしてオメガたちを救うことに繋がるのだから。
(一緒にいるついでだ、どうせならこの男の弱みも探ってみるか)
どこまでも抜け目ないミオーレは、目の前の堅物をちらりと流し見ながらそんなことを考えた。嫌でも行動を共にするのだ。なら、有意義な時間にしたほうがいい。
「イヴェール卿、花筐の館を利用したことは?」
「白々しいな。そんなの、お前が差し向けた密偵がとっくに掴んでるだろう」
「……ああ、ご存知でしたか」
じとりと目を細めたアスカディアに、ミオーレは余裕を装った微笑を浮かべながらも、内心冷や汗まみれになって激しい動悸に襲われた。
ばれている。なぜだ。全員アーデルハイト家に長く仕えてくれている優秀な密偵たちなのに。
「全員尾行が下手すぎる。素人か」
「ははは……そうだとしたら、私は今ごろ宰相の地位にいませんね」
恐ろしいことに、アスカディアは野生動物並みの感の鋭さを持っているようだ。ミオーレは胸の内で舌打ちする。『顔が良い極上の猿め……』と、絶対口に出せないほぼ暴言のような賛辞を添えて。
この際だから認めよう。アスカディア・イヴェールは間違いなくアルファの中でも別格だ。疾患のせいで他人のフェロモンに鈍いミオーレでさえ、そばにいると甘い匂いを感じる。熟した果物の蜜を蝋で固めたような濃厚な香りだ。ついでに言うと顔がこの上なく良い。もうストレートに言ってしまおう、好みだ、中身以外は。意志の強そうな切れ長の瞳も、押して引こうがびくともしなさそうな恵まれた体躯も、悪態ばかり紡ぐ厚みのある低音の声に至るまで。もし疾患がなければ、一言話しただけでヒートを起こしていたかもしれない。そんなの仕事にならないじゃないか。だから自分が欠陥持ちでよかったと、ミオーレは見当違いなことを考えてしまう。
「そうやって他の参議たちの弱みを握って、あの法案を押し通したんだろ。汚いぞ」
「ではイヴェール卿は彼らが清廉に見えますか? 汚職に、贈賄に、脱税、横領――……酒池肉林で肥え太り、参議の椅子から立ち上がれなくなった者たちです。退く気がないなら、せめて国を良くするために働いていただかないと」
参議たちを凍りつかせて指輪を外させた美貌をかしげ、ミオーレは優美に微笑んだ。
「野心家なのは結構だが、敵を作りすぎれば後ろから刺される。何をそんなに生き急いでいるんだ」
「オメガバースが始まって以来変化の乏しいオメガの現状を変えるには、時間なんていくらあっても足りないくらいです」
「非力なオメガのくせにわざわざ危険を冒してまで厄介事に首を突っ込むなんて、変な奴だな」
アスカディアのため息交じりの反応に、ミオーレは頭の中がスンと冴え渡っていくような感覚になる。「オメガのくせに」なんて、今までどれほど言われたかわからない常套句なのに。アスカディアの口から放たれた瞬間、胸の奥が軋んでしまった気がする。
「変なオメガではありません。私は世界一幸せなオメガです」
気づけば、言葉が口をついていた。よせばいいのに、沸き上がるものが抑えられない。
怪訝そうな顔をするアスカディアを見据え、ミオーレは続ける。
「三十人に一人。これが何を示しているかわかりますか?」
「……?」
「病気や事故で成人前に命を落とす我が国の子どもの割合です。その中でオメガに限定すると、五人に一人になる。世帯年収が平均以下の平民で絞ればもっと高い」
オメガに生まれたというだけで、人生のハードルは急激に上がる。それがグラングレイス王国の現実だ。アスカディアは言葉を詰まらせているようだった。
「私のフェロモンの疾患についてはご存知ですよね?」
「話には聞いている」
「ヒートはなく、妊娠することもできない。しかも分泌腺の異常で頻繁に体調を崩す子どもでした。そんな欠陥品のオメガが貧しい家に生まれていたら、どうなっていたでしょう」
よくて娼館の仲買人に格安で買い叩かれるか、道端に捨て置かれて朽ち果てるか。
どのような展開になったとしても、今と全く違う顛末になっていたのは間違いない。
「ですが幸運なことに、私はアーデルハイト家に生を受けました。手厚い治療を惜しみなく施してもらっただけでなく、学ぶ自由を許され、そこで得た知見を活かす仕事を手にした。こんなに幸せなオメガは、他にいません」
ヒートの懸念、社会的な差別、性的搾取、金銭的事情――多くのオメガを悩ませ生きづらくさせている全てから、ミオーレは守られている。アーデルハイトの名の下に。
自分がどれだけ幸福か、多くを学んだミオーレはよく理解していた。
「私は、私に与えられた幸福を誰にとっても当たり前のものにしたいのです。そのために歪な性でアーデルハイトの家に生まれたのだと思っています。信念を貫けるなら、別に清廉でなくても構いません」
「まぁ、後ろから刺されるようなドジを踏むつもりはありませんけど」と付け足して、ミオーレは少しこそばゆい気持ちで肩をすくめた。
ロシュにだってこんなに詳しく話したことはなかったのに、調子が狂う。オメガ嫌いで有名なアスカディアにこんな話をしても、きっと鼻で笑われるか、生意気だと悪態を吐かれるだけだろうに。
だが予想外にも、アスカディアの反応は静かだ。なんとなく気恥ずかしくて逸らしていた視線をちらりとだけ向ける。
「信念か……確かに、お前が出し抜いた参議たちにはない代物だ」
「わ、笑わないんですか……?」
「俺は騎士だぞ。戦う意志がある者を笑ったりしない」
蔑みや軽視が感じられない黄金の瞳に真っ直ぐ射抜かれ、ミオーレは息を呑んだ。石畳を行く車輪の回る音が遠くに聞こえて、心音ばかりうるさい。
(そんなこと、陛下以外のアルファに初めて言われた……)
じんわりと耳に熱が集まるのがわかった。何を口走るかわからない緩んだ口元をきゅっと引き結び、膝の上に置いた手に力を込める。車内の明かりは薄暗いから、きっと相手は自分の異変に気づかないはず。そうであってくれと祈らずにいられない。
「だがまぁ、変なオメガなのは確かだ」
「……そういうイヴェール卿はやっぱり失礼なアルファですね」
「アスカディア」
「え?」
「アスカディアでいい。孤児の姓は騎士団に大勢いるから区別がつかない。あと、その生意気そうな敬語もよしてくれ。協力関係にあるうちは対等な立場でいた方が、何かと円滑に済む」
「……なら、私のこともミオーレと。……アスカディア」
「そうさせてもらう」
対等、という聞き慣れない言葉を頭の中で反芻する。彼が根っからのオメガ嫌いなら、絶対に口にしない言葉だ。社交界に国政、外交――アルファが牛耳る場所に物心ついた頃から身を置いて蔑まれ続けたからこそ、アスカディアというアルファが異質に思えた。
「アスカディアは、本当にオメガ嫌いなのか……?」
「嫌いだとはっきり公言した覚えはないぞ」
「いやでも、ずっと私に当たりがきつかったし、顔を合わせるたびに罪人を見るような目で睨んできたじゃないか」
「目つきが悪いのは生まれつきだ。それに、密偵を送り込んでくる奴と平気で仲良くできると思うか?」
「あ……」
言われてみれば当然のことをようやく理解したミオーレは、「すまない」と小さく謝罪した。弱みを握って優位に立つという偏ったコミュニケーションばかり学んだせいで、対人関係の基礎が欠落していたようだ。
それに思い返してみれば、新法案に反対していたアスカディアの主張はいつも筋が通っていた。ジュナーたちのように頭ごなしに否定するものではなく、検討の余地がある部分を的確に指摘して。そのたびに再考を迫られたミオーレは「なにくそ」と憤慨しながらも、アスカディアの指摘をひとつずつ確実に反映させた。法案を実現可能な内容まで詰めることができたのはある意味、彼のおかげとも言える。
(アルファだからと色眼鏡で見ていたのは、私のほうだったんだな……)
その時、整備不良で割れた石畳に乗り上げたのか、車輛が大きく揺れた。座席の上で華奢な細身が振動で飛び跳ね、危うく窓に側頭部を打ち付けそうになったミオーレは、とっさに力強い腕に引き寄せられる。濃紺色の騎士服を着た肩口に頬が触れ、目の前で黄金のタッセルが揺れた。
「ミオーレ、大丈夫か?」
「あ……ああ、ありがとう……」
すぐ真上から腹に響くような声で名前を呼ばれたミオーレは、ドクドクと心臓を高鳴らせて呆然と頷く。「王都は城下から離れるとすぐこれだ。道路整備の予算も再検討すべきだな」とアスカディアがぼやいているが、ミオーレはただ呆然としていた。
さっきよりも体温が上昇していて、鼓動も早い。しばらくは落ち着いていたが、また分泌腺に異常が生じたのかもしれない。宰相に就任してから二ヶ月、ほぼ休みなく働き詰めだったわけだし。本格的に体調を崩す前に、一刻も早く今回の事件を解決しなければ。
仕事一辺倒な頭でそんなことを考えていると、不意に首元でスンと鼻が鳴った。驚いて自分の席へ飛び退いたミオーレを、アスカディアがじっと凝視する。
「なっ、何を……」
「いや、変わった香水だと思って」
「……? 香水なんてつけていない」
「じゃあ体臭かもな」
そんなに気になるほど匂うだろうか。赤らんだ顔にジャケットの襟を引き寄せて嗅いでみるが、自分の匂いというのはわかりにくい。仕方ないので今日は念入りに湯に浸かろうと密かに決めた。
「別に嫌な匂いじゃない。むしろ……」
「むしろ?」
「……他のオメガと比べたら、よっぽどマシだ」
これは喜んでいいのだろうか。それともオメガのフェロモンを揶揄しているなら怒るべきだろうか。やはりアスカディアのオメガ嫌いは事実なのでは。
そんなやり取りをしているうちに馬車が止まった。花街の一番街で絢爛に咲く花筐の館へ到着したのだ。




