25 私を愛していると言ってくれた
背中を押すきっかけさえあれば、彼女は簡単に事に及ぶだろう。フェロモンを使ってアスカディアを籠絡しようと迫る姿が目に浮かぶ。
だが騎士団塔の時と違って、ミオーレの心はもう揺るがなかった。ピンを持つ手が再び強い意志で動き出す。
「来るさ、アスカディアは」
「何を根拠にそんなことを――」
「私を愛していると言ってくれた。私は、その言葉を信じる」
一切迷いがない、真っ直ぐな声だった。
鍵穴からカチャリと音がする。枷が外れて軽くなった足首を立て、ふらつく身体でどうにか立ち上がった。そのままロシュに近づき、今度は彼の足枷を解き始める。
「ミオーレ、様……?」
「君を残してはいけない。逃亡を手引きしたと疑われて殺される。だから一緒に行こう」
「む、無理です! 僕は行けない!」
「ロシュ」
ひどく狼狽えた様子で後退り、ロシュは涙声で叫んだ。
「オメガの誰もが貴方のように強く特別であれるわけじゃない! 偽りの愛に縛られて、許されないことをしました……貴方に手を差し伸べられる価値なんて、僕にはないんです。もう放っておいてください!」
信頼を裏切り、最悪なシナリオへミオーレを引きずり込んだ。顔向けできないとでも言うように、ロシュは目を瞑ってミオーレから顔を背ける。それでも、ミオーレは手を止めなかった。
「君は優秀な密偵のようだから、私の机の引き出しに何があったのか知っているんだろう?」
「っ……!」
ミオーレの周辺を探っていたロシュが、アスカディアと交わした偽装番の契約書に気づいていないはずがない。だが、ヨルガはその情報を知らないようだった。ロシュが秘密を秘密のままにしてくれていたのだ。
「私が抱える一番大きな秘密を、君は守ってくれた。私のうなじが今も無事なのはロシュ、君のおかげだ」
カチャリと錠の回る音がして、足枷が外れる。涙目になって震えるロシュへ、ミオーレは爪が割れて血が滲んだ手を差し出した。
「一緒に行こう、ロシュ。君は自分以外の誰かのために恐怖に立ち向かえる強い人だ。こんなところで死なないでくれ、頼む」
ロシュは目が零れ落ちそうなほど見開いてミオーレを見上げると、込み上げる嗚咽を噛み締めて俯いた。そして小さく頷き、震える手を赤い指先へ重ねる。
「ミオーレ様がオメガのために誰よりも尽くしてきたことを、僕は知ってます。貴方に憧れて秘書官を目指した。ヨルガ様に言われたからじゃない。これだけは真実です」
「……うん」
「イヴェール閣下といる貴方は、今までにないくらい幸せそうに見えました。だからどうかこのまま嘘が本当になってほしいと、願わずにはいられなかったんです」
その願いのおかげで今がある。もしヨルガに噛まれていたら、きっと自分の運命に絶望して立ち上がれなかった。紡いでくれた希望を糧に、ミオーレは今度こそ、愛する人のそばで美しく咲きたい。
「ここから出られたら、本当になるよ」
穏やかな微笑と共に優しく言い聞かせ、ミオーレはロシュの手を引いた。
鉄格子の窓枠から再び外を覗く。隊列は街道沿いの森に入ったようだ。道を外れたら生い茂る木々が剣や弓矢をある程度阻んでくれるはず。チャンスは今しかない。
目を合わせて頷いたロシュが、扉を大きく叩く。
「誰か! 誰か来てください! ミオーレ様の容態がおかしいんです!」
必死な声で叫ぶと、馬車が停まった。外から扉の閂を抜く音がする。
「ったく、なんだってんだ。手間かけさせやがっ――」
面倒くさそうにぼやく男の顔が見える前に、ロシュと二人で内側から扉へ思いきり体当たりして、朝靄が立ち込める外へ飛び出した。
蛙が潰れたような声を上げた男を枠から外れた扉ごと踏み倒し、騒然とする騎兵の間をすり抜けて森へ逃げ込む。背後から轟く兵士の怖ろしい怒声に身体が震えるが、ロシュに支えられながらもつれる足を必死に動かした。
木々の間を縫うように走る二人のすぐそばを、何本もの鋭い矢が飛び交う。泣き叫びたくなるのを奥歯を噛みしめてぐっと堪えた。
アスカディアならきっと、どこにいようと見つけてくれる。人と人が本能で惹かれ合う世界の中で、誰にも振り返ってもらえなかった自分を見つけてくれた。誰からも求められず独りで生きていくのだと思っていた自分に、愛される喜びを教えてくれた。
彼は来る。絶対に。
死への恐怖で涙が溢れそうになるのをアスカディアへの想いで必死に堪え、ヒートでぐずぐずに熟れた身体をがむしゃらに動かす。しかし風を切った音と共に『ドツッ』という衝撃音が、隣を走っていたロシュの肩を貫いた。
「う゛ッ!」
「ロシュ、止まるな、走れ!」
背後から矢が刺さった左肩を押さえ、ロシュが足をもたつかせる。立ち止まってしまったら終わりだ。彼の腕を引いてどうにか先へ進もうとするが、二本目の矢が右の太腿を貫通した。
その場に倒れ込んでしまったロシュを捨て置けず、ミオーレは彼を引きずって木陰に隠れようとする。だが無情にも、逃げ場のないふたりに複数の蹄鉄の音が近づいた。
「わたしの番は殺しても構いません、ミオーレ・アーデルハイトを絶対に逃がすな!」
「~~ッ⁉ う、うぅ……!」
後方で指揮するヨルガの声が聞こえ、恋心をぐちゃぐちゃに踏み潰されたロシュは血溜まりの中で嗚咽を漏らした。ミオーレも憤怒で表情を歪め、負傷したロシュを抱き寄せて、追手が迫る木々の向こうを睨みつける。こちらへ真っ直ぐ飛んできた矢じりが頬の薄皮を抉り、すぐ後ろの木の幹に突き刺さった。
「ミオーレ様、逃げて……」
「だめだ、君を見捨てたりしない!」
「お願いですから!」
「嫌だ!」
互いに泣き叫ぶ二人を視認した先見の騎兵が、下卑た笑みで矢をつがえながら近づいてきた。その後ろから続けてぞろぞろと現れた追手に囲まれたミオーレは、とっさにロシュを庇うように抱きすくめる。
やがて兵を掻き分け、黒い馬に乗ったヨルガが姿を現した。肌を刺すような怒りと苛立ちを迸らせて。
「急いでいるというのに、余計な手間をかけさせてくれましたね。ロシュ、貴方には失望しました。ここで生きたまま魔獣に食われてしまいなさい」
「ぁ、ぅ……」
うなじを噛んでおきながら、慈悲の欠片もない。本当に番を自分の所有物としか見ていないのだ。
「噛んでいいか」と何度も許しを乞うてきたアスカディアの声が蘇る。彼が自分をどれだけ大切にしてくれていたのか、ミオーレは今になって身をもって思い知った。
「下衆が……! ロシュに指一本触れてみろ、今ここで死んでやる!」
ミオーレは頬を擦り切った矢を背後の幹から引き抜き、自らの首へあてがう。自分を失うのは魔力を狙うヨルガにとって一番の痛手のはず。周囲に緊張が走った。
「ああ、本当に手のかかる困った人だ……。――もはや生きてさえいればどんな状態だろうと構いません。手足の一本ずつでも切り落とせ」
「ミオーレ様!」
「ッ……!」
馬から降りた一人の兵士が腰の剣を抜く。剣を振り下ろされるよりも先に矢を喉へ突き刺さないと、死ぬことも許されない。
(アスカディア――!)
愛する人を思い浮かべて硬く目を瞑り、矢を握る手に力を込めた――その時。
後方から、地面を打ち鳴らして迫り来る蹄鉄の波の音が聞こえた。ハッと目を見開いて背後の茂みを振り返る。ドミトリオンの兵たちも異変に気づいたのだろう。頭上に振り上げた剣先がぴたりと動きを止める。
ミオーレとロシュをぐるりと囲む騎兵の後方で、『ドンッ!』という衝撃波と共に悲鳴が上がった。怪訝そうにヨルガが睨む先で、馬と兵が宙へ吹き飛ばされる。
森を吹き抜ける爆風に乗って、肌をビリリと粟立たせるような魔力が届いた。ランディルは馬に乗れないから彼のものではない。なら、誰が――。
「――ミオーレ、伏せろ!」
生い茂る枝葉も、どよめく兵たちも掻き分けて良く通る声が、ミオーレの鼓膜を震わせる。ロシュを抱き寄せて身を屈めたミオーレの頭上を、一刃の剣圧が空気を切り裂いて飛んでいった。剣を振り上げたままだった兵士の腕が肩から断たれ、血を撒き散らしながら宙を舞う。
ひときわ大きく駆ける蹄鉄音が、乱入者に慌てる隊列を高く飛び越えた。自分たちとヨルガの間に着地した音がして、ミオーレは恐る恐る目を開ける。
そこで目にしたのは、パチパチと弾ける神々しい光を帯びた名剣エクリプスを構えた、深紅のペリース。
「――アスカディア……!」
「悪い、遅くなった」
馬上からこちらを振り返ったアスカディアへ、ミオーレは瞳を潤ませて首を横に振る。その間にも馬に乗った騎士団がドミトリオンの兵をぐるりと取り囲んだ。
「ヨルガ・フォルク・ジャン、兄君は城で拘束した。これだけのことをして、今さら申し開きが通ると思うなよ」
鋭く突き刺すような声色で迫るアスカディアに威圧され、ヨルガはぐっと顎を引いて僅かにたじろいだ。黄金の瞳は普段よりも輝きが増し、艶めく金色の奥から神々しい光を放つ。
「その瞳、まさか宝石眼か……⁉ ランディルとロベリア以外に王族がいたなんて情報はなかったはず……」
「なんのことかわからないが、おかげでお前が誘き寄せた魔獣も簡単に一掃できた。襲われていたオメガもこちらで保護している。お前の悪事をことごとく世に知らしめてもらおう」
アスカディアがエクリプスの切っ先を真っ直ぐにヨルガへ向けると、ドミトリオンの兵を囲んでいた騎士たちが一斉に剣を構える。統制された隙のない動きに観念した一団はすぐに武器を捨てた。――ヨルガを除いて。
「戦うつもりならやめておいた方がいい。今は力の加減ができないんだ。それとも……」
アスカディアは傷だらけにされたミオーレを一瞥し、すぐにヨルガへ視線を戻した。
「人のものを奪おうとしたからには、相応の覚悟があるってことでいいか?」
「ぐっ……!」
息もできないほどの威圧が放たれる。冷や汗を浮かべたヨルガはくぐもった唸り声を漏らし、抜きかけた剣をようやく捨てたのだった。




