24 もう二度と見れない。聞こえない。触れられない。
◇ ◇ ◇
熱にうなされて目が覚めたミオーレの頭へ響くのは、車輪の音と、振動。鉄格子を嵌めた小さな窓がひとつだけある冷たい箱の中は薄暗闇に満ちているが、馬車の中であることはわかった。この振動から察するに石畳ではない。ということは、自分が気を失っている間に王都を出たということだ。
厳戒態勢であるはずの警備の中、ほんの僅かな綻びをすり抜けることができたのは、やはりロシュの手引きがあった裏付けに他ならない。苦いものがミオーレの胸の内に漂った。
身体に力が入らず、思考も鈍い。薬で理性を溶かされきった脳裏には、たったひとりの姿だけが浮かぶ。
アスカディアに触れたい。彼の手に触れられたい。
あのごつごつとした大きな手が腹の上を撫でる想像をしただけで頭が真っ白になって、腰が震え上がる。この疼きを治めてくれるものを求めて、後孔が勝手に収縮を繰り返した。固い板の上で少し身動ぎするだけで、腹の奥が痛いくらい疼く。下半身から濡れた感覚がして気持ち悪い。車輪が小石の上を跳ねるたびに軽く達してしまっているらしい。どうなってしまっているのか、自分ではもうよくわからない。
(これが、ヒート……)
人生で初めてのヒートに悶え、ミオーレは床板に爪を立てた。爪が割れて血が滲む。ぐずぐずに溶けた理性を痛みでかき集めていなければ、今にもはしたない事をしでかしそうで、怖かった。
抗い難い本能に苦しんでいるそばで、誰かがもぞりと動く気配がする。
「ミオーレ、さま……」
酷いかすれ声で自分を呼んだのは、ロシュだった。泣き腫らした悲壮な顔をさらに悲しみで歪め、ミオーレを見つめている。トレードマークの丸眼鏡はヒビ割れ、愛らしい顔には殴られた痕もあった。
「ロシュ……」
「ごめんなさい。こんなことになってしまって、本当に、ごめんなさい……」
力の入らない身体をどうにか動かして、膝を抱えて縮こまるロシュのそばへ這う。そこでようやく気づいたのだが、片方の足首に足枷が嵌められていた。足枷からは鉄鎖が伸びていて、車内中央にある支柱と繋がっているようだ。
壁を支えに上半身を起こし、ひくりとしゃくり上げるロシュの肩にそっと手を置く。
「ロシュ、泣いて謝るだけじゃわからない。何があったんだ」
熱い吐息を苦しげに零しながら、ミオーレが問う。濡れた目尻を手で拭ったロシュは、これまでの経緯についてか細い声で話し始めた。
「……ヨルガ様と最初に出会った時は、本当に弟の家庭教師だと思ったんです」
ロシュを秘書官に採用してすぐ、ミオーレが世間話の一環で「ロシュの恋人はどんな人だ?」と聞いたことがあった。地方貴族出身の三男坊で、弟の面倒をよく見てくれる年上の優しい青年。ロシュにとって初めての恋人は、ミオーレに説明した通りの人であるはずだった。そうでないと知ったのは、うなじを噛まれた後のこと。
「ヨルガ様は帝国の諜報部隊を束ねていて、ご自身も普段からあらゆる国に潜伏されています。それで僕が仕事で城へ出入りしているのを知って、近づいてきたんです」
何も知らない弟や家族を人質に取られたロシュに、選択肢などない。言われるがままヨルガに機密情報を流し続けた。
そしてオメガの就労規制の緩和政策が話し合われている頃、ヴォルフの来訪に乗じて事を実行に移すから姿を晦ませと指示を受け、結婚の話をでっち上げたのだ。少しでもミオーレとの別れを円満なものにしたいという自分勝手な願いと、本当にヨルガと結ばれたらどれだけ幸せだろうかという願望が入り混じった、愚かな虚妄を。
「愛してたんです……本当に好きで、だからうなじを噛んでもらって……なのに、こんなっ……!」
「ロシュ……」
顔を手で覆い俯いてしまったロシュのさめざめとした涙声に、ミオーレは胸が張り裂けそうになる。もちろん彼がしたことは重罪だ。売国はけっして許されない。それでもロシュの幸せを心から願っていたからこそ、やりきれなかった。ロシュが不安になっていた理由が本当にマリッジブルーだったら、どれだけよかったか。
すると突然、ふたりを乗せた馬車が停まった。馬を休ませるのかと思ったが、すぐに隣の荷馬車が開け放たれた気配がした。
「ヨルガ様からの命令だ。お前と、そこのお前。こっちへ来い」
ミオーレは鉄格子の小窓がある壁に這って近づき、何をしているのかと聞き耳を立てる。「もたもたしてんじゃねぇ!」と壁を殴る音が響いた。恐怖で引き攣った悲鳴がふたり分上がって、自分と同じく足枷から伸びた鎖をじゃらじゃらと引きずる音が聞こえる。
これから何が始まるのか。熱で朦朧とする意識の中、ミオーレは壁にもたれかかるようにして立ち上がり、鉄格子の隙間から外の様子を盗み見た。
「よぉし、いい子だ。おら、これ飲め」
卑しく笑う男は、執務室でロシュを犯していた奴だ。後部に呼びつけた若い男女へそれぞれ栓を抜いた薬瓶を差し出している。鼻を突く甘い匂いに、どろりとした濃い桃色の液体。ミオーレが飲んだのと同じ、強制発情剤だ。
ふたりは暴力を振るわれることを恐れ、それを大人しく飲み干した。やがてふらつきながら膝をついた途端、眩暈がするほど濃厚なフェロモンが周囲に充満する。
「はぁ、ヨルガ様も最後くらい楽しめばいいのに、もったいねぇ……なぁっ!」
「ッ!?」
鋼のサバトンをつけた足が華奢な背中を外へ蹴り飛ばしたのを見て、ミオーレは声を詰まらせる。馬車から転げ落ちたオメガたちに唾を吐き捨て、男も外へ出て再び扉を閉めた。すぐさま先頭付近から「出たーつ!」と号令が上がる。
「いや、いやあああああ!」
「助けてください、ヨルガ様ぁ!」
ふたりの涙に濡れた叫び声は、再び動き出した車輪の音に掻き消された。
「今のは、いったい……」
呆然と言うミオーレに、ロシュが答える。
「僕と同じ、ヨルガ様の捨て駒です。さっきの馬車に大勢乗っているのを見ました」
「なんのために……」
「……薬で発情させたオメガを餌に魔獣を呼び寄せ、騎士団の追手を妨害するつもりなんです」
あまりに残虐な仕打ちに、ミオーレは絶句して言葉が出てこなかった。
ドミトリオン帝国が強制発情剤を手にして魔獣を狂暴化させているという懸念は正しかった。恐らくミオーレが思っているよりもずっと前から、グラングレイス東部はヨルガの密偵活動で人知れず侵略されていたのだ。
考えが及ばなかった自分の不甲斐なさに奥歯を噛みしめるが、それ以上にミオーレの心を掻き乱したのは、番に対するヨルガの仕打ちだ。彼にとってオメガとの番契約は、この足枷と同じだ。オメガを縛り付ける手段でしかない。愛してもいないくせに、相手の一生を縛る傲慢な枷だ。
ミオーレはとっさに自分のうなじに触れた。幸い、噛まれた形跡はない。ミオーレはすでにアスカディアと番になっているという前提があったため、噛んでも無意味と思われたのだろう。番にならなくても身体さえ繋がれば、ヨルガの目的は達成されるのだから。
少数の配下だけを連れて密かに王都を出たヨルガの目的地はひとつだけ。騎馬隊の大群が待ち構えるドミトリオン帝国との国境線だ。鉄格子からかすかに見える太陽の位置からして、東へ向かっているのは間違いない。
ヨルガは軍隊と合流したら、すぐにでも自分を犯して魔力を奪い取る気だ。そして魔獣を従え、兄を排斥して自分が玉座に就く。そうなるとグラングレイスの軍事力では太刀打ちできない。もう国には帰れないだろう。
そして二度と、アスカディアに会えない。
堅物な仏頂面がふとしたことで破顔するところも。
小馬鹿にしてくる少し呆れた声も。
逐一表情を覗き込んでくる太陽みたいな金の瞳も。
壊れ物を包み込むように回される無骨で大きな手も。
国境を越えてしまったら、もう二度と見れない。聞こえない。触れられない。
「……いやだ」
ぽつりと言い溢し、ミオーレはジャケットに着けていたブローチを外した。もたつく指先でどうにかピンを抜き、足枷の鍵穴へ差し込む。
「ミオーレ様、何を……」
「国境を越えられたら終わりだ。隙を突いて脱出する」
「む、無茶です! 逃げ切れるはずありません!」
「私が逃げれば奴らは隊を引き返して追いかけるしかない。そのまま逃げ切るのは無理でも、アスカディアが助けに来るまでの時間は稼げる」
「っ、イヴェール閣下は来ません……!」
ロシュの言葉に、ピンを動かしていた手が止まる。視線だけを送れば、泣きそうな顔で言葉を絞り出した。
「ヨルガ様に言われて、騎士団塔の使用人の女性に発情強制剤を渡しました。きっと今頃、彼女に迫られて……」
アスカディアへヒートアタックをかけようかとぼやいていた、あの女性だ。ロシュはあの日の出来事に気づいていたのだ。




