22 オメガバースでしか愛を語れないのは、悲しいことです
◇ ◇ ◇
マダムと話してから数日経っても、ミオーレはまだ雲の上を歩いているような心地だった。
整理のつかない思考がふわふわと宙を漂い、覚束ない。頭の中にアスカディアの姿と「恋」のワードが浮かんでは消えていく。
(恋って、もっと綺麗で可愛らしいものだと思ってた)
甘やかでとろける蜜のように、澄んで美しく光るものだと。今の自分の状況とは似ても似つかない。
「ミオーレ様、街道の先に隊列が見えましたよ」
隣に控えていたロシュからの報告に、ミオーレは揺蕩っていた意識をハッと取り戻した。彼が覗き込んでいた望遠鏡を借りて、王都東門の見張り台から東の方角を見やる。
王都から小高い丘の向こうまで伸びる街道に、ぞろぞろと列を成して行進する騎士団の隊列が小さく見えた。隊列の中腹には色鮮やかな天幕を張った馬車があり、それを取り囲む異国の騎兵が馬の上で旗を掲げている。双頭の蛇と剣の紋章――ドミトリオン帝国の国旗だ。
ドミトリオン帝国の皇帝、ヴォルフ・アレク・ジャンがグラングレイスの国境を越えたのが三日前のこと。出迎えの隊列から先立って戻った伝令が言うには、相手方はこれ見よがしに騎馬隊の大軍を率いて国境に現れたらしい。グラングレイス王国の隊列などすぐにでも蹴散らせるのだと、自分たちの脅威を知らしめたかったのだろう。出迎えの大役を務めた新任の外務大臣はその場で死を覚悟したとか。
だが展開していたのは騎馬隊だけ。魔獣の姿は確認できなかった。やはりドミトリオン帝国で何かが起きているのは間違いないようだ。
ヴォルフは事前に交わした協定通り、数名の臣下と少数精鋭の護衛を率いて入国した。ただし騎馬隊は東部の国境に全軍残してある。魔獣がいなくても帝国軍は屈強で荒っぽい。グラングレイス国内でヴォルフに何かあればすぐにでも侵攻を開始し、東部は攻め滅ぼされるだろう。
ドミトリオン帝国へ送り込んだ密偵からの報告だと、ヴォルフは領土拡大のために周辺国との開戦のきっかけを探っている。ミオーレの仕事は王都でヴォルフを最大限もてなし、万が一にもグラングレイスに戦火が飛び火しないようランディルと共に便宜を求め、皇帝を傷ひとつない状態で送り返すこと。
望遠鏡を覗き隊列を隈なくチェックしていたミオーレの背後に、騎士のひとりが駆け寄る。
「先ほど最後の伝令が戻りました。道中は恙なく、予定通りだったと」
「それは何よりだ。私たちも出迎えに行こうか」
「はっ」
望遠鏡から目を離そうとしたその時。馬に乗って隊列の先頭を行く黒髪が、細い筒の中で靡いた。外務大臣と共に皇帝の出迎えに向かったアスカディアだ。
久々に彼の姿を見て息の仕方を忘れたように硬直するミオーレを、黄金の瞳がレンズ越しに射抜く。
「っ……!」
この距離では肉眼でこちらを視認できないだろう。きっとまぐれ、それか気のせいだ。なのに目が合ったと思っただけで鼓動が速まり、胸の奥が焼け付くように狂おしくなる。こんな感情はあの主治医に抱かなかったのに。
身体の芯に灯った熱を振り払うように、ミオーレは望遠鏡をロシュへ預けた。
「ミオーレ様?」
「……なんでもない、行こう」
不思議そうにするロシュを従え、物見台の階段を下りる。アスカディアを見た瞬間に身体の奥でじりりと燻ぶるこの熱が「恋しい」という感情なのだとしたら、やはりマダムの言ったことは、正しいのかもしれない。
もし許されるのなら、ちゃんと彼の目を見て話したい。これまでのことも、これからのことも。
◇ ◇ ◇
城内で一番豪華な応接間へ招いた金の獅子が、鋭い牙を見せながら喉を鳴らす。
「盟約の花嫁を寄越さず、代わりにこちらが所望した代替品も断るとは、随分な態度じゃないか、ランディル王よ」
ひじ掛けに頬杖をついた不遜な態度でランディルを睨むヴォルフは、筋肉質で滑らかに光る浅黒い肌と砂が輝くような金髪のコントラストが眩しい王だった。歳はランディルよりも十は上だったはず。白い布地に華美で力強い金色の刺繍を施したドミトリオンの民族衣装が、隆々と鍛え抜かれた身体によく似合っていた。
その背後に控えるのは、参謀のヨルガ・フォルク・ジャン。ヴォルフの異母弟で、母親の血が濃いのか肌は病的なまでに白く、兄と違って線が細い。金色が混じったくすんだ長い銀髪を後ろでひとつにまとめ、薄い唇を真一文字に引き結んでいる。こちらも白地の衣装だが、幅広の袖を彩るのは金糸ではなく深緑色の草花のシンプルな刺繍だ。
動の兄と静の弟。対照的な兄弟の仲は、ミオーレがドミトリオンへ潜入させた密偵が言うには、あまりよくない。不仲というよりも、立場がかなりはっきりしている。
ヴォルフは幼い頃から高圧的で、父が崩御し新皇帝の座に就いてからは権威を振りかざし、国内では暴政を、国外には侵略を押し進めている。ヨルガも兄と同じくアルファだが、前皇帝が奴隷に生ませた子で、立場が弱い。今回のグラングレイスへの来訪で警戒すべきは、やはり兄のヴォルフだろう。彼の機嫌を損ねれば、東部は控えている騎馬軍団に攻め滅ぼされる。
ランディルの傍らでミオーレが静かに相手を見定めていると、ヴォルフから不躾な視線が送られた。さきほど言っていた代替品とは当然自分のことだ。ドミトリオン特有の琥珀と草葉を混ぜたような鮮やかな瞳で身体中を値踏みするように見られ、ぞわりと身の毛がよだつ。そこで普段の飄々とした態度を引き締めたランディルが、王の顔で答えた。
「盟約を結んだのは王家であり、これは我が一族が果たすべき義務だ。アーデルハイト家の唯一の跡取りを他国へ嫁がせて家門を途絶えさせるわけにはいかない。どうかご理解いただきたい」
「だがこれまでの話だと、その欠陥品は子が産めないのだろう? どのみち家門は途絶える。ならおとなしく我が国に差し出したほうが国益になるとは思わないか?」
ヴォルフはミオーレを軽薄に嘲笑した。子を産めないのをわかっているのに欲しがる理由はひとつ、慰み者にする以外ないだろう。ドミトリオンではオメガの地位はグラングレイスよりも遥かに低いと聞く。何せあのマダムが耐えきれず亡命したほどだ。
そんな野蛮な国に誰が好き好んで凌辱されに行くものかとすぐにでも言い返してやりたいが、これは国のトップ同士の会合。発言は許可されていない。
口惜しさにきゅっと唇を引き結ぶミオーレの代わりに、ランディルが気持ちを代弁してくれた。
「血は残せずとも、志は受け継がれる。それは時として血筋すら凌駕する強固な礎となるだろう。グラングレイス王家の比翼として、アーデルハイト家は永久に在り続ける」
毅然とした態度で言い返したランディルは、「それに」と優美な微笑みで続けた。
「彼にはもう番がいると説明したはず。旅の道中で顔を合わせただろう? アスカディア・イヴェール騎士団長だ。ふたりの未来を祝福してやってはもらえないだろうか」
少し離れた場所で出入口の扉を守っていたアスカディアへ、ランディルが手のひらを向ける。
その話題にぎくりと反応したのは、言うまでもなくミオーレだ。嘘をついている後ろめたさと、今現在アスカディアがどういう気持ちでいるかがわからないことで、急激に心細くなる。
あからさまに避けていたことを怒っているだろうか。それともあのオメガ女性の主張を鵜呑みにして、愛想を尽かされてしまっただろうか。心変わりしてこの場でミオーレの企みを全て暴露されたとしても、彼を責めることはできない。いや、アスカディアも国を思う気持ちはミオーレと同じはずなので、会談を台無しにするような真似はしないはず。
様々な不安が一気に押し寄せ、ミオーレは自分の足元へ視線を落とした。
ミオーレから見えない角度で、獰猛な獅子の視線がアスカディアを突き刺さす。
「性処理にしか使えない出来損ないをわざわざ番にしてやるとは、お優しいことだな、騎士団長。そうとうアレの身体の具合が良かったのか?」
「…………」
ヴォルフの護衛たちまで嘲る声が漏れ聞こえるが、アスカディアは答えない。無言の時間がミオーレの首を絞めるようで、息苦しい。
「だんまりか。まぁいい。飽きて使わなくなればいつでも東の国境に捨て置け。巡回の兵士にでも拾わせよう。末端のアルファたちはオメガに飢えているからな。使い古しでも喜んで犯してくれるはずだ。そいつがくたばるまでな」
今まで多くのアルファに軽んじられ続けたミオーレでも耳にしたことがないような、酷い侮辱だ。だが嘲笑交じりで言い放つヴォルフの思惑はわかっている。彼はわざと怒りを煽っているのだ。ここでアスカディアが剣を抜けば、開戦のきっかけには十分なのだから。
ミオーレは心の中で祈った。頼むから馬鹿な真似はしないでくれ。自分のせいで帝国と開戦するなど、あってはならない。それなら大人しくヴォルフの性奴隷になったほうがずっとましだ。
「……恐れながら」
アスカディアが口を開いた瞬間、室内に緊張が走った。強ばった顔を上げてアスカディアを凝視するミオーレを黄金の瞳が一瞥し、すぐにヴォルフへと向く。
「オメガバースでしか愛を語れないのは、悲しいことです」
思っていたよりもずっと、悠然とした穏やかな声色だ。憐みすら滲んで聞こえる。
それは自分たちを侮辱するヴォルフへ向けられた言葉だったが、第二性に人生を翻弄され続けたミオーレの心にも凛と響いた。
そして今度はミオーレの目を見ながら、慈愛のこもった声で告げる。
「オメガだから愛しているのではありません。愛した人が少し変わったオメガだったというだけです。だから何があっても手放したりしませんよ、絶対に」
その言葉がこの場を切り抜けるための嘘でも建前でもないと、彼の目を見ればわかる。アスカディアはあの目でずっと、愛を届け続けてくれた。今、この瞬間でさえ。
――私たちはオメガバースで恋をするんだ。
結婚の報告をしてくれたロシュに、自分はそう言った。過去にそう思い知らされ、心を閉ざし続けてきた。だが今は、そうじゃないと信じたい自分がいる。
本能が理性を食い潰してしまうことは確かにあるだろう。幼いアスカディアを襲ったオメガの娼婦や、実の妹へ抱いた情欲を怒りに変えたライネルのように。人間はオメガバースに翻弄され、時に道を踏み外す。
だが愛する人を選ぶのは、人の心だ。古より植え付けられた抗い難い本能を抱えながら、人は誰かを愛することができる。アルファとオメガだからではなく、ひとりの人間として。数多くのベータたちがそうであるように。
傷つくことを恐れ、オメガバースを言い訳に目の前のことと向き合えずにいたミオーレは、ようやく全てを受け入れた。アスカディアから向けられる愛情も、自分の気持ちも。不完全で拙い欠陥品だろうと、ミオーレの心は彼を――アスカディアを選んだのだから。
瞳の奥から感涙が込み上げてきそうになるのを堪え、ミオーレはアスカディアへ応じるように無言で頷いた。それまで感情を押し込めていた彼の仏頂面がほっと緩んだのを見て、今すぐにでも駆け出して抱きつきたい衝動に駆られる。
すると、呆気に取られた様子のヴォルフを横目に、ランディルが晴れやかな笑顔を見せた。
「アスカディア騎士団長、真面目な首脳会談をダシに惚気るのはやめなさい」
口ではやれやれと窘めているが、よく言ってくれたとでも言いたげだ。「事実を申し上げたのです」と涼しい顔でしれっと返すアスカディアに、部屋の外に控えていた騎士たちは隠れてガッツポーズをしていたとか。
ややあって、アスカディアの態度に憤慨したヴォルフが息巻こうとしたのを、背後に控えていたヨルガが肩に手を置いて制した。瞳の奥が覗けないほど細められた目元から冷たさを感じて、ミオーレは密かに息を呑む。
「兄上、捨て置けば良いのです。アーデルハイト公は確かに美しいですが、それだけだ。彼は兄上に何も与えられない。子も、力も、名誉も……」
「黙れ! 俺に指図するな!」
「こんな茶番に乗せられて事を荒らげても、兄上のお立場が悪くなるだけ。大陸最強たるドミトリオンの皇帝は、欲するものがあっても自ら手を伸ばしてはなりません。力を誇示し、膝を打ち砕き、相手から差し出させなければ」
「……チッ」
顔色ひとつ変えないヨルガに窘められ、ヴォルフは不服そうに舌打ちして、浮かせていた腰を再び椅子へ下ろした。苛立たし気に膝が揺れる。
ここにきて、ミオーレは認識を改めた。ヨルガを兄の腰巾着と見ていたが、それは間違いだ。彼はヴォルフの傲慢な自尊心を上手く操り、制御している。おそらく、兄はそれに気づいていない。ミオーレがヨルガを警戒している間にも、議題はドミトリオンの内戦で止まっていた交易再開の件に移った。
ヴォルフの背後から、灰がかった薄黄色の瞳がミオーレを映す。おっとりと垂れた瞼は厚く重く、腹の内を探らせてはくれない。ただ、ミオーレだけにわかるよう静かに携えられた機械的な微笑みに、ゾクリと悪寒が走る。せっかくアスカディアが灯してくれた熱を全て奪い去っていくような、底冷えするほどの何かを感じた。




