21 ……恋?
◇ ◇ ◇
執務室の扉を一度締めたロシュが、机で書類の束に向かうミオーレへ心配そうに問いかける。
「ミオーレ様、今日もイヴェール閣下がお会いになりたいとお見えになっています」
「仕事が立て込んでるんだ。悪いがまた今度にしてくれと伝えてくれないか」
騎士団塔での一件以来、ミオーレはアスカディアから距離を置いている。
アスカディアはこうして毎日会いに来るが、顔を合わせてあの時のことを聞かれるのが怖い。使用人の彼女がどんな風にアスカディアへ説明したのかわからないから。あの調子だとこちらに一方的に非があるように話しているかもしれない。いや、自分が悪いのは間違いないのだが。でもこれを機にアスカディアと一気に距離を縮めていたらどうしよう。
今まで経験したことのない様々な種類の不安に苛まれ、ミオーレの顔色はそれまでに輪をかけて最悪だ。
執務室の外で応対を終えたロシュが、静かに扉を閉める。気づかわしげな視線に気づいていたが、ミオーレは書類をめくる手を止めない。
「夕方にまた来られるそうです。ミオーレ様と直接お話がしたいと」
「板挟みにしてしまって悪いが、その時はまた頼むよ、ロシュ」
「僕のことはいいんです。でもイヴェール閣下とぎくしゃくされてもう一週間ですよ? 僕、おふたりが心配です……」
ロシュには何があったのか話していない。言えるわけがない。本当の番なら、横恋慕くらいで不安になる必要などないのだから。
「今はヴォルフの来訪に集中したいんだ。新体制になって初めての国賓だし、失敗は許されない。それが片付いたらちゃんと話すから、大丈夫だ」
無理に笑って見せれば、優しいロシュはそれ以上追及してこない。彼も嫁入りを控えて何かと不安がっているのに、負担をかけてしまうのが申し訳なかった。
それでも、この気持ちをこれ以上ひとりで抱えきれる気がしない。
午後の仕事を早めに切り上げたミオーレは「少し外に出てくる」とだけ言い残し、執務室を後にした。
人目を避けるように馬車に乗って向かったのは、花街の一番街。昼間の時間帯は別世界のように閑散としている。通い慣れた勝手口のある道端に下ろしてもらい、いつものリズムで呼び鈴を鳴らす。ドアを開けてくれたマダムの使用人に促され、花君たちが眠りについている静謐な館内を歩いた。
突然訪れたミオーレに、寝台の上のマダムは嫌な顔ひとつ見せなかった。一応「例の薬の資料の返却」という来訪の理由は用意してある。資料を預かったマダムが「ちょうどこれからティータイムなの」と言って使用人を呼びつけたのが三十分前のこと。ベッドから上半身だけ起き上がった膝にミニテーブルを乗せて、小さな茶会が始まった。だが――。
冷めても中身が減らないティーカップ。
まったく手をつけられないまま皿に残されたスコーン。
自分が口を開くのをマダムが辛抱強く待ってくれていることを、ミオーレはわかっていた。だがあまり他人に弱みを見せないように生きてきたせいで、悩みを打ち明けるのにどう切り出したらいいのかわからない。
「あの……アニーは、元気ですか?」
迷った末に口をついて出たのは、例の薬を飲まされた妹分の話題。気になっていたのは本当だ。あれ以来仕事が立て続き、容態を直接確認する時間もなかった。
「もう問題ないわ。ヒートが治まるまで普段よりも時間がかかったけど、今はすっかり元気よ」
「そうですか。よかった、本当に……」
「そういう貴方は、あまり元気じゃなさそうね」
見かねたマダムが助け船を出してくれたのがわかって、余計に情けなくなる。
「……仕事が忙しくて」
またもや答えをはぐらかしてしまったが、これも嘘じゃない。ヴォルフの急な来訪に備え、ミオーレだけでなく城中がてんやわんやの状態だ。
だが元来、ミオーレは仕事人間である。忙しいことは苦にならない。マダムもそれはよくわかっている。彼女の貴重な時間を浪費させているのが申し訳なくて、ミオーレはようやく本題を切り出した。
「マダム、その……私とアスカディアが番になった噂は、当然知ってますよね……?」
「ええ。あの日ここのスイートルームで起きたことも、貴方の執務室の引き出しにある契約書のこともね」
マダムを相手に真実を隠し通せるとは思っていなかったので、特段驚きはしない。そして彼女は、幼い頃から自分を苛むコンプレックスを理解してくれている。だからこそ悩みを打ち明けに来たのだ。
「……アスカディアから、契約ではなく正式な番になりたいと言われてるんです」
悩ましげに眉を寄せた憂い顔のミオーレをジルコンの宝石眼で静かに見つめ返し、マダムは無言で続きを促す。
「彼に下心や悪意がないのはわかってます。こうなる前に散々自分で調べ尽くしましたから。でも私を好きだとか、あ、愛してる、とか。そういうことを頻繁に言うようになって……」
「それで貴方は疑心暗鬼になってしまっているのね」
「はい……」
やはりマダムに相談して正解だった。ロシュやカイルにでも言おうものなら惚気話と勘違いされて、余計思い悩んでいたに違いない。
「……ミオーレ、こっちにきて」
ヘッドボードに敷き詰めたクッションへ背を預けるマダムは、ミニテーブルを片付けて自分のすぐ隣のスペースを優しく叩く。大人しくそれに従い寝具に浅く腰かけたミオーレを肩に抱き寄せ、銀色の後頭部を痩せた指で繰り返し撫でた。
「貴方が簡単に頷けないのもわかるわ。ずっと苦しんできたものね」
過去の失態が、ミオーレを臆病にさせている。信じた人に裏切られ、堪え難い痛みを植え付けられた。アスカディアからの求愛が本心だとしても、心はふとしたことで本能に食い潰される。あの使用人の女性に限らず、いつか誰かのフェロモンにアスカディアの心が奪われてしまうかもしれない。そう考えたらどうしようもなく怖いのだ。自分には、彼を再び振り向かせられる術がないのだから。
「普通のオメガに生まれていれば、こんな思いをせずに済んだのでしょうか」
なんて酷い現実逃避なのだろう。フェロモンが出ないオメガだからこそ、今の地位にいる。わかっている。自ら望んだことだ。天命なのだと自分に言い聞かせ続けた。そして欠陥をむしろ強みであるように見せて凛と咲いた徒花は、他の可憐な花々が愛する人に愛でられ実を結ぶ姿を、心のどこかで羨ましく思っていた。だって、オメガはそういう生き物だから。
アスカディアの腕にすがりついたあの女性はミオーレを狡いと言ったが、本当にそうなのだろうか。彼女はミオーレが欲しいものを全て持っている。オメガのフェロモンも、子どもを産める身体も、愛される権利も。たしかにミオーレは望めば大抵のものは手に入るけれど、オメガとしての本能だけはどうしたって満たされない。
今ならわかる。なんのしがらみもなくアスカディアに好意を寄せられる彼女が羨ましくて、妬ましくて、堪らないのだ。そんな風に考えてしまう浅ましい自分が、恥ずかしくて仕方ないのだ。
「ミオーレ、貴方……」
僅かに目を見張ったマダムが声を上擦らせる。不思議そうに彼女を見やれば、しわが刻まれた頬を綻ばせ、キラキラと細かく光るふたつの水色の湖面が愛おしそうに細められた。
「――騎士団長さんに、恋をしているのね」
うっとりした表情と優しい声色で囁かれた言葉が、鬱屈に呑まれて荒波を立てていた心の海にポツンと一雫、落ちる。水面を撫でる波紋がじわりと広がるたび、頭の中がクリアになっていく気がした。
まるで宝物でも見つけたみたいに嬉しそうにするマダムの瞳に、あどけない無垢な顔で目を瞬かせる無防備な自分が映る。
「……恋?」
言い慣れない単語が、喉の奥から弱々しく押し出された。初めて言葉を覚えた子どものように、拙い声で。




