17 噛んでいいと言ってくれ(※)
◇ ◇ ◇
運び出した不用品を別の倉庫に移し、片付けは日暮れ前に終わった。
全ての壁が荷物で塞がれて狭く見えていた室内は、実は二部屋だったことも判明した。
荷物に押し潰されていた誰も使わなくなった寝具を綺麗にしてもう一部屋に押し込んでもらい、ミオーレ念願の仮眠室が誕生したのが一番の収穫かもしれない。これで徹夜が捗る。ますます屋敷には帰らなくなり、使用人たちは寂しがりそうだが。
「美人のために汗かくの最高~!」とふざける若者たちをカイルが連れて帰り、最後まで丹念に掃除していたロシュも帰宅させたため、今は室内にミオーレとアスカディアのふたりだけだ。
膝の当たらない適した距離感で置かれた応接ソファに座る彼に、労働後の紅茶を一杯ご馳走してやる。
「アスカディア、今日は助かった。団員の皆にも後で何か差し入れよう」
「なら騎士団塔に顔を見せて労いの言葉をかけてやってくれ。あいつらはそれが一番喜ぶ」
「そんなことで……?」
「この前の件で、みんなお前に骨抜きにされた」
カイルのあの様子から、それが冗談ではないことがなんとなく察せられた。少し気恥ずかしいが、顔を見せるだけで喜んでもらえるなら、時間を作って尋問のレクチャーでもしてやろう。
ミオーレは広くなった執務机を背に立ち、磨き抜かれた窓の外を眺める。ここは城の端だから、城下の景色が遠くまで見通せた。今まで埃まみれで気づけずにいたが、夕日に照らされた街並みは見惚れてしまうほど美しい。
アスカディアたちが与えてくれた景色をしばらく堪能していると、背後に気配を感じた。振り返る前に腕が回され、簡単に抱きすくめられてしまう。突然のことで、ミオーレは声を上ずらせた。
「アスカディア、どうした?」
「あの契約のことなんだが」
「え? い、今か……?」
求められればいついかなる時でも応じると書かれたあの契約書は、今も背後の机の引き出しに収められている。しかも片付けをしてもらった後で、心理的に断りにくい。
まだ何も言われていないが、早合点してシャツのボタンに指をかけるミオーレを、「そうじゃない」と無骨な手が制する。絡まったゴツゴツとした指先に、心音が跳ねた。
「お前がスティレイに啖呵を切ってくれた時、すごく、嬉しかった」
「あ、あれは……――っ、ぁ……⁉」
うなじを隠す銀髪を尖った鼻先にまさぐられ、あらわになった白い肌へ唇が優しく触れる。ゾクリとしたものが身体を一気に駆け抜けた。悪寒ではない。熱っぽくて甘い疼きだ。
「フリだとわかっていても、お前の口から番だとはっきり言ってもらえたのが嬉しかったんだ」
「ひぅっ……!?」
唇で触れるだけだったうなじに軽く前歯を立てられ、熱い吐息を纏わせた舌が這う。
窓に反射する自分は、熱に浮かされて期待に染まった顔をしていた。このまま噛まれたいと、不相応な願望を抱いてしまっている浅ましい顔だ。
これ以上見ていられなくて、腕の中でくるりと向きを反転する。だが相手がどんな表情をしているのか確認する勇気はなく、俯いたまま鍛え抜かれた胸板を駄目元で押して身を捩った。
「アスカディア、離れろ。君、何かおかしい」
「おかしくない。お前とちゃんとした番になりたいんだ」
「っ……! それは君の部下たちが喜んでるから、裏切りたくないだけだろ? 私だってそうだ。ロシュを安心して嫁に送り出したい。だけど嘘を本当にしなくたって、私たちなら上手くやり遂げられる。なのになんでこんな思わせぶりなことをするんだ!」
後半はほとんど八つ当たりに近い。胸元を押していた手はいつのまにか拳となって、彼を責めるように振り下ろしていた。だが大した威力もなく、ミオーレの精いっぱいの抵抗は逞しい身体に吸い込まれてしまう。
全て、ミオーレが打算的な考えで持ちかけたことだ。ラットに苦しむ彼を救うと言って、自分の都合の良いように契約を迫った。アスカディアを責める資格なんて、自分にはない。そしてアスカディアは実直だから、嘘を嘘のままにしておくことに罪悪感があるだけ。それを解決するためにミオーレを無闇に傷つけることもしない男だ。わかっている。わかっているから、苦しかった。
「もし欠陥のある私を憐れんでそういうことを言っているのなら、今すぐやめてくれ。余計に惨めで仕方なくなる」
「なぁミオーレ、俺を見ろ」
「嫌だ。悪いが今日はもう帰ってくれ。君も私もおかしい。忙しくて頭が回ってないんだ、きっと。あとでちゃんと話そう」
「帰らない。今はっきりさせておきたい」
「っ……!?」
がっしりと抱き寄せられたまま、下顎を指で掬われて無理やり顔を上げさせられた。磨き上げられた鏡面のような黄金の瞳に間近で射抜かれ、ひゅっと息が詰まる。
「――お前が好きだ」
「っ、ぁ……」
「言っておくが、同情とかじゃないぞ。お前がラットになった俺を抱き締めてくれた時、こいつしかいないと思った。俺が愛すべき相手だと。だから、嘘のままは嫌なんだ」
あまりに真剣な眼差しに映った自分の顔は、酷く怯えていて。言葉なく、力もなく、小さく首を横に振ることしかできない。
「う、うそだ……」
「嘘じゃない。何をそんなに怖がってるんだ、ミオーレ」
抱擁を振り解こうと身を捩るほど強く抱き締められる。アルファから逃げられるわけがない。こんなのは無駄な抵抗だ。わかっているのに、言い聞かせるような優しい声から逃げたくて堪らない。
「ロベリア様だって言ってたじゃないか、私たちは本能の奴隷だって……。だから私は誰からも求められない。欲しがられるのはアーデルハイトの名前だけだ、私自身じゃない!」
これまでで最も強い力で抵抗し、抱擁を解いた。だが退路はなく、すぐに窓のそばの壁へ追い込まれてしまう。優しくて残酷な相手を遠ざけようとめいいっぱいの力を込めて肩を押すが、びくともしない。
パニックになったミオーレは、涙を浮かべて半狂乱に叫んだ。
「どうせ君も本能には抗えない。トラウマを克服して他のオメガのフェロモンを嗅げば、私のことなんてすぐにどうでもよくなる。運命の番でもない限り、私は誰からも求められない! ――っふ、んぅ!?」
吐き出された嘆きごと食らい尽くすように、口を塞がれた。
強ばる唇を唾液をまとわせた舌が這い、驚きでわずかに開いた隙間から口内を舐られる。息をするのもままならず顔を背けようとすれば、それを許さないと言わんばかりに大きな手が赤らんだ頬を包んだ。花筐の館で初めて繋がった時でさえキスなんてしなかったのに、どうして、こんな――。
苦しくてアスカディアの肩を力なく叩くと、上唇が触れたままわずかに口付けが止む。
「――運命の相手が現れても、お前のうなじを噛む前に俺がそいつを叩き斬る」
「何、言って……んっ、んん……!」
奥へ逃げようとしていた舌先にじゅッと激しい音を立てて吸いつかれ、されるがまま貪られる。尖った歯で口内の柔らかい部分を悪戯に刺激されるたび、甘い刺激が電流のように身体を走った。
求められていると、錯覚しそうになる。そんなことはあり得ないのに。どうせ最後に傷つくのは自分なのに。熱に浮かされた思考で、心から生まれたままの言葉がポロポロとこぼれ落ちた。
「あ、アーデルハイトの家名が欲しいなら、くれてやる。君を婿養子に迎え入れる。身体も、好きにしていい。だからっ――」
「もっと欲しいものがある」
「も、もうない。これ以上、何も持ってない……! っひ、ぁ、あっ……!」
頬を包んでいた左手が首筋を滑り、汗ばんだうなじをなぞった。それだけで視界にパチパチと星が散る。
するとさっきまでの激しいキスとは違い、慈しむように唇が何度も押し当てられた。唇の端や鼻先、頬、目尻、額、耳元。余すところなく優しく啄まれる。
熱でドロドロに溶けた不細工な砂糖菓子にでもなってしまったような気分だ。食べられたくて仕方ないのに、美味しくないと言われるのが怖くて、そのまま腐って蟻に集られてしまう醜い砂糖菓子に。可愛らしい見た目にぴったりな甘い香りを放って「愛してほしい」と健気にアルファを求める他のオメガとはまるで違う。そう思ったら、目尻から涙がはらりと滑り落ちた。
「アス、カディア……」
「ミオーレ、噛んでいいと言ってくれ」
「むり、無理だ、そんなの……」
「無理じゃない。アーデルハイトの家名より、お前の心が欲しい。どうしたら俺に愛されてくれる?」
「あ、愛さなくて、いい……もう傷つきたくない、こわい……」
「…………」
涙で濡れた銀のまつ毛を震わせ、視界いっぱいに輝く黄金を前に弱々しく懇願する。何かを堪えるようにぐっと寄った凛々しい眉間がこめかみにすり寄り、濡れた目尻に唇が触れた。
「……わかった」
やっと受け入れてもらえた。そう安堵で息をついたのも束の間、背中と膝裏に腕を回されてひょいと抱えられてしまう。
片付けたと言っても元々が狭い部屋だ。瞬きの間に目的地へ到着し、綺麗にしたばかりの柔らかな寝具へ横たえられる。ロシュが天日干ししてくれたシーツから太陽の匂いがふわりと香ったが、鼻孔から入り込んだ甘く濃厚な雄の香りがそれを上書きして、脳を駄目にする。アスカディアのフェロモンだと気づいた時には、覆いかぶさった手にシャツの合わせ目をまさぐられていた。
「アスカディア、ラットか……?」
「いいや。でもこのまま抱く」
「は……? で、でも、さっきわかったって――」
「ああ、よくわかった。お前が怖くなくなるまで愛しまくればいいんだろ」
「ぇ……ま、待て、ちが、そうじゃな……――ッふ、ぁあっ……!?」
ボタンを解いたシャツを広げられ、あらわになった胸の飾りへ吸いつかれた。花筐の館で身体を重ねて以来の刺激に、切ない声が漏れる。
視界の隅にチラチラ見える、肩口をくすぐる黒髪。
腰を撫でる大きな手。
震える内腿に押し付けられた、硬い熱。
理性をぐずぐずに溶かす勇猛な雄の匂いに包まれたらもう、拒むことなどできなかった。やはり自分たちは、本能には抗えないのだ。
お読みいただきありがとうございます!
これにて第二章完結です!
シゴデキメンタルつよつよオメガが実は自己肯定力ミジンコで愛され慣れてないって非常に萌えませんか(性癖全開)
第三章はすれ違いだったり陰謀だったりのジェットコースターを経由してからのウルトラハッピー大団円になります。最後までどうぞよろしくお願いいたします!
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