11 どうかあの素晴らしいバルコニーで、陛下とティータイムを
離宮は城から少し離れた建物で、王都を一望できる小高い場所にあった。王族が余生を過ごすために建てられたものだが、ライネルはここには入らず、死ぬ間際も城の王宮に居座り続けた。元老院に担ぎ上げられて戴冠したロベリアを逐一見張るためだ。
ロベリアはまだ四十路そこそこ。生前退位するには若齢だったが、偏った思想を持つ父の呪縛、そして見た目以上に重たい王冠からの解放を望み、ランディルの成人と共に離宮へ身を引いてから、もう五年になる。
侍女に通された部屋は、シンプルでありながら洗練された応接間だった。天井まである大きなガラス扉の先には白亜のバルコニーが広がっていて、晴れた日には優雅なティータイムが楽しめるだろう。
だがあいにく、今は曇天から雨が打ち付けている。パタタッ――と窓を叩く雨の音を背に、頬がこけて骨が浮き出た儚い様子のロベリアは、訪問者ふたりを怪訝そうな顔で見つめた。
「お父様の研究……? 誰から聞いたのかは知らないけれど、研究はすでに凍結されて、成果ごと葬られたわ。あれはもう、過去の遺物よ」
マダムの正体は王家にも伏せられている。花筐の館が娼館経営の裏でしていることを容認しているランディルは気づいているかもしれないが、ロベリアが彼女の存在を知らないのも無理はない。
「ですが実際問題、オメガのフェロモンに関連する悪事が国内で頻発しています。モーギュストンの暴走が試験的なものとすれば、またどこかの国定魔獣が暴れ出すかもしれません」
「私たちは過去の過ちを暴きたいのではなく、今起きていることに対処したいだけなのです。どうかお力をお貸しください、ロベリア様」
粛々と懇願するミオーレに倣い、アスカディアも片膝をついて頭を下げた。
椅子に座ったままのロベリアは薄幸を思わせる相貌に憂いを滲ませ、錆びた赤い瞳で自分の足元を見つめる。
かつてはルビーのように気高く煌々としていた宝石眼は見る影もなかった。全体的にパサついた白髪交じりの金髪は色あせ、実年齢以上の疲労を感じさせる。彼女が即位して暴走する父親を抑え込んでいたあいだ、どれだけ心身をすり減らしていたかが容易に窺えた。
宰相として頼りにしていたミオーレの父が突然死去し、残された側近は父ライネルの息がかかった重鎮のみ。王配として迎えた夫はアルファのロベリアではなくオメガの貴族令嬢を愛して今も奔放な生活を送っていると言うし、それこそ、心が壊れるほど凄惨な日々だっただろう。
「私はもう、お父様のことにも国のことにも関わりたくないの。ただ、静かに終わりを迎えたいだけ……」
「お気持ちは十分理解できます。私も両親を失った直後はそうでした」
「ならわかるでしょう? 話すことは何もないわ。今すぐここから出ていってちょうだい」
「ですが、恐れながら――」
拒絶するロベリアに臆することなく、ミオーレは言葉を紡いだ。
「全てを放り出して両親を追いかけようとしていたかつての私に、ある方が言ったのです」
――高貴な者には社会的義務を果たす責任があるのよ、ミオーレ。
両親亡き後。アーデルハイトの屋敷をお忍びで訪れたマダムが、悲しみと自暴自棄で塞ぎ込んでいた幼いミオーレにノブレス・オブリージュを説いた。「貴方が食べずに粗末にしたパンも、涙を吸って湿った枕も、暖炉に捨てた本も、全て誰かの血でできているのよ」と。そしてミオーレが知らない世界の裏側を全て教え、気高く美しい花に育ててくれた。
「生まれ持った地位や特権は、どのような苦難に見舞われても清算されません。この離宮で暮らす以上、ロベリア様にも果たすべき義務があるはずです」
「…………」
「どんな些細なことでも構いません。犠牲になっているオメガたちや、モーギュストンに襲われた人々、そしてこれからの被害者たちを救うために、どうかご助力願います」
ミオーレの発言は王族への不敬罪を問われてもおかしくない。隣で膝をついたアスカディアから心配そうな視線が送られた。
だがミオーレには確信があった。ロベリアが自分の境遇を悲観して責務を放棄するような人物なら、元老院の後ろ盾があろうと実の父を王位から蹴落とすはずがないのだ。彼の惨い仕打ちで苦しむ多くの民のために、彼女は自ら血を流して茨の王冠を被り、鋼鉄の玉座に就いたのだから。
そんなロベリアに、この嘆願が届かないはずがない。
「……エリュシオに似てきたわね、ミオーレ」
自分の父の名を久々に聞き、ミオーレは儚げに微笑み返した。ライネルの圧政からの解放を成し遂げるべく献身的に女王を支えた父は、ミオーレの憧れの人だ。父が生きていたらきっと、ロベリアは今も玉座に就いていただろう。父がそれだけ忠義を尽くした彼女だからこそ、ミオーレは信じたいのだ。
その気持ちをロベリアも察したのだろう。やがて決心したように、ルージュの色が浮いた青白い唇をひっそりと開いた。
「研究を主導していたのはお父様よ。私が直接関与していたわけじゃない」
「はい、それは十分に存じております」
「お父様は研究を施設ごと焼き払ったけれど、後で何があるかわからなかったから、関係者のリストだけは私が密かに禁書庫へ移しておいたわ。あとは貴方たちの好きに使いなさい」
「……! ありがとうございます、これで調査は大きく進展します!」
思った以上の収穫に、ミオーレとアスカディアは顔を見合わせて頷き合った。やはりロベリアは優れた女王だった。
だが、感情が凍りついて心が読みにくい赤錆色の瞳は、未だ憂いを帯びているように見える。
「……ひとつだけ理解してもらいたいのだけれど」
言いにくそうにして、ロベリアはかさついた唇を開く。
「お父様はオメガのフェロモンを悪用しようとしていたわけではなく、フェロモンそのものを取り除こうとしていたの」
「オメガのフェロモンを、取り除く……?」
「イネス叔母様のためよ」
予想外の名前が飛び出し、ミオーレは言葉を失って目を見張った。
「お父様は精神的にも身体的にもアルファ性の特徴が顕著な方だった。実の妹君のフェロモンにまで反応してしまうほど……」
血の繋がりすらも凌駕する生殖本能に、ライネルは常日頃から脅かされていたという。幼い妹に肉欲を抱く自分を嫌悪し、距離を取ろうと足掻いた。
「それで東の塔に閉じ込めたのですか」
「騎士団長、どこでその話を?」
「評議会で聞いた噂です」
ロベリアへしれっと言い逃れをするアスカディアに、ミオーレは密かにほっと胸を撫で下ろす。肝が据わっていて頼もしい限りだ。
「お父様は理性を食い潰すオメガバースを酷く恨んでいたわ。フェロモンさえなければ、イネス叔母様を妹として普通に愛せていたはずと思ったのね」
「なるほど……それを聞いて、ようやく長年の疑念が晴れました」
「何のことだ?」
尋ねるアスカディアと首を傾げるロベリアへ、ミオーレは答える。
「ドミトリオン帝国からイネス様の訃報を受け、ライネル様は弔旗を掲げて喪に服しました。ライネル様のお人柄なら、忌み嫌って遠ざけた者に弔意は示さないはず。ですが、心の奥底で愛されていたのなら納得です」
ライネルは弁明の余地もないほど非道な人物だったが、その凶悪性が自身を狂わせるオメガバースへの憎しみから生まれていたものだったとすれば、悲劇的だ。
ミオーレの回答に、ロベリアは濁った瞳をわずかに潤ませた。
「私たちはオメガバースの奴隷よ。愛する人を選ぶことはできない」
「……ロベリア様にも、そのようなお相手がいらっしゃったのですね」
「私も若かったの。ふたりだけの秘密よって囁いて、その子のうなじを噛んだわ。でもお父様が連れて来たあの人と結婚させられて、結局彼女をひとりで死なせてしまった……」
相手はオメガ女性だったのだろう。側室制度が認められているにも関わらず王宮へ呼べなかったということは、身分差のある相手だったことが察せられる。
本能で選んだ相手と添い遂げられず、第一性と第二性が捻じれた狭間で産んだ我が子を、実の父から出来損ないと言われた。ロベリアの絶望はどれほどのものだったか。
ロベリアは乾いた頬をパタタッと伝った涙を指先で払う仕草をして、静かに嗚咽を漏らした。
ミオーレは片膝をついた状態から立ち上がり、一歩ずつゆっくりと近づく。
「私がランディル陛下から宰相に任命された時、こう言われました」
――オメガバースを呪いから祝福に変えるのを、手伝ってほしい。
「第二性に関わらず、誰もが当たり前に幸福を享受できる国にしたい、と。私はオメガの幸福を願い、陛下に賛同してここにいます。ですが陛下が本当に救いたいのは、きっとロベリア様の御心なのだと思います。オメガバースによって傷つけられてきた貴女が、今度こそ命を謳歌できる国にされたいのです」
「…………」
「いつか御心が安らかになったら、どうかあの素晴らしいバルコニーで、陛下とティータイムを。私も呼んでいただければ、お勧めの茶葉をお持ちします。マスカットの香りが絶品なのです。なぁ、アスカディア?」
急に話を振られて面食らった様子のアスカディアだったが、すぐにふっと微笑を浮かべて頷くと、纏う空気を柔らかくした。
「その時は自分が警護しましょう。どんな些細な悪意からもお守りしますので、ご安心を」
アスカディアの頼もしい微笑みを正面から見据えた赤い瞳が一瞬見開かれた。それからすぐ、ロベリアは目頭を手で覆い、嗚咽を飲み込みながら何度も小刻みに頷く。
自分を制御できずランディルにつらく当たってしまっていたことにも苛まれ続けていたロベリアが、これで少しでも救われてくれたらいい。そう願って部屋を退室しようとしたミオーレとアスカディアへ、涙に濡れたか細い声が最後に問いかける。
「――騎士団長は、お母様似なのかしら」
「え……?」
「なんとなく、本当になんとなくよ。不思議とそう思ったの。違っていたらごめんなさい」
「いえ……幼い頃はよく、母と瓜二つだと言われましたが……」
「そう……きっと美しい人だったんでしょうね」
「……はい、とても」
亡き母を思い浮かべたのだろう。ぎこちなく返すアスカディアの横顔を近くで見つめ、ミオーレも密かに胸を締めつけられた。
「引き留めてしまってごめんなさい。落ち着いたらまたふたりで顔を見せてくれるかしら。あの子も……――ランディルも、一緒に」
少しだけ輝きを取り戻した赤い瞳を穏やかに細めたロベリアの口からその名が呼ばれたことに、アスカディアとミオーレは顔を見合わせて微笑み合う。そして息を合わせ「もちろんです」と、深く頷き返した。




