客のいない席にお冷を置き続ける店
これは自分の趣味がきっかけだった話。
一人暮らしを始めた学生にとって安くておいしい店というのは貴重だ。近所や学校のまわりでいくつか店を見付けはしたが、街をぶらつきながら店を探すという行為自体に楽しみを見出していた。
その日、古びた路地裏にひっそりたたずむ中華屋を見付けた。
いわゆる町中華というやつだろう。シンプルで年代を感じさせる店構えだった。ガラス戸から中を除けばほどよい間隔でテーブルが並べられている手入れの行き届いた店内が見えた。初めての店にちょっと緊張しながらも中から漏れてくるいいにおいに期待を膨らませながらドアを引いた。
「いらっしゃい」
奥さんらしい恰幅のいい女性が声をかけてきた。好きなテーブルに座っていいというので適当に選んだ壁際の席に座る。少し下がった視界の中で店内を見渡す。壁には色あせたメニュー表が張られていて、カウンターの奥では白髪交じりの年配の店主が中華鍋をふるっていた。メニューを眺めていると奥さんがお冷をサービスしてくれた。
「ご注文はお決まりですか?」
私はメニュー表を指さしながら注文する。注文を受けた奥さんは元気のいい声で「ラーメン一丁!」と厨房に声をかけていた。
注文したはいいが私は若干の不安を持っていた。その値段は驚いたことにワンコインで足りるものだった。このご時世にこんな値段で大丈夫なのかと思いながら待っていると、お盆を持った奥さんがやってきた。運ばれてきたどんぶりの中をのぞきこむ。
ふわりと湯気が立ちのぼる器の中にはメンマ、ネギ、チャーシュー、ナルトが配置され、麺をすすれば醤油の味と香りが口の中に広がっていく。こういうのでいいんだよといいたくなるような素朴だけど満足させてくれる味だった。
「ごちそうさまでした。また来ます」
会計をすませたあとにお礼をいうと奥さんは「ありがとうございました」と笑顔で返してくれた。ちらりと厨房の奥も見ると店主とちょっとだけ目が合った。その口元は少しだけ緩んでいて、料理人として客を喜ばせる誇りがにじんでいた。
次の日も、あっという間に完食し腹がふくれた感触に満足する。空席はちらほらと埋まりだしたがまだ余裕がありそうだったので水を飲みながらまったりしていた。明日はどれを食べようかとメニュー表をながめたり垂れ流しになっているテレビを横目でみていると、それまで厨房に引っ込んでいたはずの店主がでてきた。
接客だろうか? 店内はそれほど混んでいるわけではないのにどうしたのだろうと疑問に思いながら控えめにその行動を観察する。
その両手にはコップがにぎられている。向った先は一番奥の目立たないテーブル。コップを置くと水を注ぎだした。それから何をするのかとみていたが、冷えた水で満たされたコップをじっと見下ろているだけだった。何をするわけでもなくまっすぐ厨房にもどっていった。
だれかトイレにでも席を立っていたのかと思いながら、その日は店を後にした。
昨日のできごとが心の隅に引っ掛かったまま店に向かった。この日はいつもより遅めでいつもの自分が座っている壁際の席は埋まっていた。別の席はどこにしようかと店内を見回すとそれが目に入った。
私の視界にうつっているのはあのテーブル。いつものテーブルにいつもと同じ数だけでコップが置かれていた。コップの表面には水滴が溜まり時間がたっていることがうかがえた。
不思議に思いながら別の空いているテーブルを選んで腰を下ろす。食事を始める前も食事を終えた後も気になってそのテーブルを見ていた。だけど、誰かが席に戻ってくることはなくコップは放置されているままだった。
別の日も店主の奇妙な行動は続いた。奥さんもそれについて何もいうことはなく、接客をして掃除をしている。客が帰るとテーブルに残された皿やコップを片付けて食べこぼしも布巾で綺麗にしていく。だけど、あのテーブルのカップだけはずっとそのままになっていた。
ある日、学校で友人にご飯に行こうと誘われた。いい店知らないかと聞かれたので、あの中華屋のことを教えると乗り気になった。実際に店の前にくると気に入ったようだった。
「こういう店って安くておいしいって決まってるからね」
中に入ると興味深そうに店内を見回しだす。そんな彼女に奥さんが声をかける。
「お好きな席にどうぞ」
奥さんの言葉を聞いた友人はその視線をあの奥のテーブルに向けた。止めるか忠告するか迷っている間にまっすぐに向かうとすぐに腰を下ろしていた。迷っているわたしに向けて促すように視線で誘ってくる。
そのまま立っているわけにもいかず、かといって席を変える理由もない。ゆっくりとテーブルに近づき椅子を引く。
「どうしたの? 早く座りなよ。お店の匂いだけでおなかがもっと減っちゃったよ」
わたしは席に座った。
それからほどなくして奥さんがお冷を持ってきた。いつもどおりの愛想のいい笑顔をむけてくる。冷えた水がコップの上にしずくを作り出す。友人はうれしそうに冷えた水を飲みほしていく。
「ねえ、おすすめとかある?」
友人の言葉にわたしはラーメンを指さした。その値段を見て友人は少し驚いた顔をした後にすぐに決めたようだった。
わたしたちのテーブルにラーメンが二つ並ぶ。友人はすぐに割りばしを手に取ると麺をすすりだした。わたしも食べようとしたが、視線を感じてどんぶりに向けていた顔を上げた。
視線が合った。厨房の奥から店主がこちらをじっと見ていた。
それは一瞬のことで気のせいだったのかもしれない。すぐに鍋を振るい始めていた。
その後学校でも、友人はうれしそうにあの中華屋のことを話していた。大丈夫、なんともない。そう思いたかったけれど聞かずにいられなかった。
「あのあとなんともなかった?」
「おなかはこわしてないよ。背油ギトギトのラーメンならあるかもだけどあのラーメンなら大丈夫でしょ。いいよねああいうラーメン。また今度行こうよ」
無邪気に笑顔を浮かべる友人にわたしもぎこちなく笑みを返した。
あの日のことがあったからではないが、しばらくの間はあの中華屋からは足が遠のいていた。
ひさしぶりに店にいくと、奥さんがこちらの顔をみて嬉しそうに笑った。
「お客さん、よくいらしてくれてたからね。うちのひともどうしちゃったんだろうって心配なんかしちゃって」
「ええ、まあ、ちょっと学校のことで」
厨房の方にちらりと視線を向けるが相変わらず店主は一心に中華鍋をふるっている。
なんとも言えない気持ちの中でテーブルにつくと、いつものようにサービスのお冷が置かれる。
冷たい水で満たされたコップをじっと見下ろす。
「あの、ちょっといいですか?」
「ご注文ですか?」
「いえ、そうではなくて……」
迷ったが気になっていたことを質問することにした。すぐに返事はなかった。奥さんは少し困ったように言葉を詰まらせたが話してくれた。
「少し前のことになるのだけれどね―――」
仲のいい二人組の女の子たちがよく来ていたんですよ。お金がないのか二人で一杯のラーメンを分け合っていてね。姉妹っていう雰囲気でもなくて友達だったんだと思いますよ。でもね、ある日から一人だけで店に来るようになって、その子も暗い顔のまま一人でラーメンを食べているのがつらそうでね。それからすぐにその子もこなくなってね、それっきり。何があったのかはわかりません。
お客さんのプライベートに立ち入っちゃいけないのはわかっていますが、もしもあのときなんでもいいから声をかけていたらって思ってしまって―――
「それからなんですよね、あの人の行動は……。もちろん、特に意味はないんですよ。でも、またあの子たちがまた来ているような気がして、その席においてしまうんですよ」
いつものテーブルを見ると今日もコップが二つ置かれていた。
「お客さんぐらいの女の子がくると気にしちゃってね。失礼だったらごめんなさいね」
そう締めくくったところで他のお客さんが店に入ってきた。奥さんはいつもどおりに愛想のいい声で接客を始める。
この日はラーメンを注文した。
いつもよりチャーシューが多めに乗っていた。
わたしは帰り際に厨房の店主に向けてぺこりと頭を下げた。
「おいしかったです。また来ます」