おしまい
カサブランカ王国は、ひどい有様だった。
アリスローズは馬車の窓から祖国を眺め、その惨劇に絶句する。
「たった4年で、ここまで変わるものなのね」
王都のメインストリートを進んでいるというのに、日頃の賑わいがまるで感じられなかった。
自分が暮らしていた頃は活気にあふれ、人々が陽気に歩き回っていた。高級店のウィンドーは流行の衣装やアクセサリーが飾られ、窓はぴかぴかに磨き抜かれていたはずだ。
それなのに、もはや見る影もない。
往来に集まった人々の顔はアリスローズの乗る馬車を含んだパレードを見て、一様に歓喜に沸き上がっているが、目元にクマがあったり顔色が悪かったりする者たちであふれていた。高級店のウィンドーには大きな穴が開けられており、数年前に流行したドレスが寂しそうにたたずんでいる。メインストリートの脇道にちらりと目を向ければ、くたびれたような人がぽつぽつと倒れ込んでいた。
城に通じるメインストリートですらこうなのだ。他の裏路地がどうなっているのかは考えたくもない。
「アリス嬢、本当に大丈夫ですか?」
アリスローズが窓に釘付けになっていると、ジャックが気遣うように声をかけてくる。
「いまから会う相手は、貴方にとって……」
「いいえ、問題ないわ」
アリスローズは親友に微笑みかけた。
「彼女に引導を渡すのは、私しかいないと思いますから――ジャック、ご覧になって! あの場所だけは昔と変わっていないみたいよ」
アリスローズは城門を指さした。
そびえ立つ城は、昔のまま何も変わっていない。庭園も美しいまま保たれており、あの頃に戻ったようだった。
「アリス」
馬車を降りると、ベンジャミンが待っていた。
今回のパレードの先頭を司っていたというのに、愛しの夫の顔には緊張の色がまったくない。彼はアリスローズの手を慣れた様子で取ると、エスコートするように歩き始める。
「俺から離れるな。既に掌握しているとはいえ、よからぬことを考える輩が潜んでいるかもしれない」
「ありがとう」
アリスローズも彼の腕をつかむと、ぴったり寄り添うことにする。
元より彼から離れるつもりなど毛頭なかった。静かな心音が伝わってくるほどの距離にいると、安心するし、アリスローズも不思議と力がみなぎってくる気がした。
城内の配置も家具も記憶通り。
唯一違うのは、廊下の要所要所にブルーベル侯国の騎士が配置されていること。ところどころ、赤い絨毯に血の跡を拭ったような箇所があることくらいだった。
懐かしの白木の大扉の前にも、ブルーベル侯国の騎士が二人たたずんでいる。彼らはアリスローズたちを見ると、機敏な敬礼をした。
「準備はできているか?」
「はっ! 全員、ここに集めております」
ベンジャミンに問われ、きびきびと答える。彼はよしと頷くと、扉を開けるように命じた。白木の大扉は静かに開かれ、アリスローズはその先に通じる玉座の間へと足を踏み入れる。
「……まあ」
アリスローズは目を細めた。
玉座の間には、フェリシアと数人の付き人が固まっていた。彼女たちの顔には一様に怯えの色が目立つも、フェリシアだけは毅然とした態度で構えていた。こんな状況だというのに、完璧にメイクを整え、髪の毛も美しく巻き上げている。その姿は、まるで女王のようだった。
「フェリシアさん、お久しぶりですね」
アリスローズが声をかける。
「どうやら、最後の言葉をお忘れになったようですね」
彼女と最後に会ったとき、「チャーリー様と末永く幸せに」と残したのに、チャーリーに愛を注ぎ続ける努力をせず、結果的に見捨てる選択をした。もし、チャーリーが「フェリシアに愛されている」と誤認し続けることができていれば、少なくとも彼が馬鹿げた結婚式襲撃事件など起こすことにはならなかったのだ。
「離縁こそされなかったようですが、このような結末になってしまうとは……」
「だからなに?」
フェリシアは腰に手を当て、ふんっと鼻を鳴らす。
「あたしは庶民の星として、国王の政略に乗っただけ。他の人に担がれるだけ担がれ、一族に利用された被害者よ。なにも悪くないわ」
「よくもまあ抜け抜けと」
アリスローズは小さく嘆息をつく。
「この国が滅んだのは、あなたのせいではありませんか」
幼いマリーが王位継承者になってから、アカシア家は勢いを増した。
その勢いのまま、王妃の実家であるクロッカス家を滅ぼすことに成功してしまったのだ。マリーが女王に即位して早々のこと――新たな乳母候補だったクロッカス家が寝静まったときに屋敷を包囲し、火をかけて一族皆殺しにしたのである。
まっとうな貴族たちは震えあがり、アカシア家に従順を誓うことになったが、国王は激怒した。
『アカシア家は許すまじ!』
国王はアカシア家を追放しようとするも、不慮の死を遂げることになる。公式には病死とされているが、実際には寝込みを襲われた事実は隣国のエーデルワイスの民でも知っていることだ。
こうして、アカシア家が栄華を極めることになるのだが、それも長くは続かなかった。
もともと、彼らは政務に携わっていたわけでもなく、有能な政務官がいるわけでもない。王都ですら栄に陰りが見えるほど国力は悪化し、税率ばかり高くなる。
貴族たちが密かに集まり、ブルーベル侯国にアカシア家を倒してもらおうと考えるまで長くかからなかった。
そのうち、ブルーベル侯国に属していた元カサブランカ王国の貴族たちも「あまりにも無残だ、見ていられない」という声を上げ始め、エーデルワイス王国の援助を受けて兵をあげる。
『民を苦しませるアカシア家を排除せよ』
アカシア家は全力を挙げて交戦に打って出る――が、蓋を開けてみればあっけないほど圧勝だった。貴族たちはまともに戦うこともせず、ちゃんとした軍を率いたこともないアカシア家が敗北するのは、火を見るより明らかだった。
もし、軍人だったフェリシアの祖父が生きていれば結果が変わったかもしれない。だが、彼はアカシア家が侯爵位を賜った直後、不審な死を遂げている。おそらく、彼女たちの意に添わぬ行動を起こしたのかもしれないが、アリスローズは推測をすることしかできない。
「フェリシアさん、あなたの父親や親族、兄弟は明日に処刑されることが決まっております」
「当然の結果よ。私を担いで無謀な戦をしたんだから」
「……あなたが乗り気だったという証拠はすでにつかんでおります」
アリスローズが言い放つも、フェリシアは素知らぬ顔だ。それどころか、手を後ろに組んだと思えば、こちらにゆっくりと歩み寄って来たではないか。
「あたし、騙されていただけなんですよ。チャーリーなんかの子を生したばかりに、いいように利用されて……」
フェリシアの目元に真珠のような涙がきらりと光る。
「お願いです、どうか……寛大な処遇を」
彼女は上目遣いにベンジャミンを見上げた。後ろに組んでいた手を離し、さりげなく彼の腕に触れようと指を伸ばしてくる。
「気やすく触れるな」
しかし、ベンジャミンは腕を振り払う。ぱしっと弾かれ、フェリシアは目を丸くした。そんな彼女を軽蔑したように、ベンジャミンは吐き捨てる。
「お前には感謝している。お前が王子を堕としてくれた結果、俺はアリスと出会うことができた。だが、それだけだ。お前に対し、他に何の感情も抱くことはない」
「え……」
「諦めなさい、フェリシアさん」
ベンジャミンの力強い腕を感じながら、アリスローズはフェリシアを見据える。
「あなたは来週には処刑されることが決定されております。一週間、あなたは自分の罪と向き合ってくださいね」
「は、はぁ!? なんで!? マリー女王の母親なのよ!?」
フェリシアは唖然と口を開ける。
「マリー様はブルーベル侯国の者が付き、女王としての教育をさせていただきます。また、既に私の兄の息子との婚約が決定しており――」
「嘘でしょ!? マリーは女王のままなのに、あたしは処刑!? ありえない!」
フェリシアがさらに縋りついて来ようとするので、控えの騎士たちが彼女を素早く拘束する。
「マリー様は既に女王。退位していただき、修道院に入ってもらうことも考えましたが、あまりにも幼すぎますし、カサブランカ王家の直系の血は世界的に見ても貴重ですので……マリー様が成長するまでは、私と夫が城を預からせていただきます」
カサブランカ王国は、ブルーベル侯国の属国としての扱いになる。
マリーが女王として政治を執り行うかどうかも、今後の成長次第というわけだ。
「あなたは昔から変わりませんね」
アリスローズは騎士に押さえつけられ藻掻く王妃を見下ろし、ただただ呆れの声を零した。
「口から出るのは、自分のことばかり。娘の助命もしないなんて」
敗戦国の女王が辿るであろう運命など容易に想像がつく。
いくら血筋が良かったとしても、のちの争いの火種になる可能性の方が高く、早々に摘れてしまう可能性が高い。実際、ここまで幼くなければ、処刑リストに名を連ねていたかもしれなかった。
「あなたは、自分の娘を守ることをしないのですね」
フェリシアが自分の娘の命を助けるために、死に物狂いで行動する素振りを見せていれば、彼女の命は助かったかもしれない。ただでさえ、マリーの父親は異国の監獄に幽閉されている。兄弟姉妹もおらず、親戚のほとんどは明日処刑されてしまう。後ろ盾になってくれる人もいない。敗戦国の女王とはいえ、幼子から母を取り上げるのは心苦しかった。
「地下牢に連れていけ」
ベンジャミンが冷たく言い放つ。
ここでようやく、フェリシアの顔から余裕の色が完膚なきまでに拭い去れた。
「ま、待ってよ! あたし、まだ死にたくないわ!」
フェリシアは絹糸のような髪を振り乱し、絶望しきった顔で暴れようとする。もちろん、精鋭の騎士の腕力に敵うわけもなく、引きずられるように連行されていった。
「私は王妃なのよ! なんで、なんで! こんなことになるなら、チャーリーなんかと出会わなければよかった! チャーリーと会わなければ、こんな早く死ぬことなんてなかったのに!!」
フェリシアのわめき声も遠ざかっていく。
「チャーリーと出会わなければ、ですか」
チャーリーと出会わなければ、フェリシアは酒場の給仕として働き続けていたかもしれない。少なくとも、いま着ているドレスの袖を通すこともなかった。獅子の間で食事をとるどころか、学園に足を踏み入れることもなかっただろう。
輝かしい玉の輿生活を楽しむ姿を知っていただけに、アリスローズは複雑な気持ちで彼女を見送った。
「彼女はどちらの方が幸せだったのかしら」
「俺たちにはわからん」
ベンジャミンは首を横に振る。
「ただ、彼女がいなければ俺たちが出会うことはなかった」
そう言うと、彼は空の玉座を眺めた。
「俺はエーデルワイス王家の血は引いているが、兄とは違い国を治めるための教育は受けていない」
「……存じております」
「一介の軍人だ。これから学ぶことも多いだろう。……アリス、俺を支えてくれるか」
「今さらなにをおっしゃるのです」
アリスローズは彼の肩に頭を寄せ、心からの言葉を口にする。
「私はあなたのことをお慕いしております、世界中の誰よりも」
玉座の隣には王妃の椅子が輝いている。
自分がそこに座ることはない。だが、王妃教育を受けてきた成果が試される時が迫っている。
王妃教育を受けてきた時間は人生を溝に捨てたようなものだったと思ったこともあったが、いまにして思えば、無駄なことなど何一つなかった。
「あなたが浮気をしない限り」
「するわけないだろう!」
ベンジャミンは少しムッとした顔になると、アリスローズの額にキスを落とす。
「神に誓って、そのような裏切りはしない」
「もちろん」
アリスローズはくすっと口元に笑みを浮かべる。
キスをしただけなのに、顔が真っ赤に茹で上がるような人が浮気などできるはずもない。それでも、言わずにはいられないのだ。
アリスローズは小さく背伸びをすると、彼の頬に残る傷痕をなぞってみる。傷があるせいで威圧感があるように見えなくもないが、最愛の夫が勇敢である証なのだ。きっと、これから先――なにがあっても、彼が自分のことを命がけで守ってくれるのだろう。
しばらくは城に住み、この場所で政務を行うこともあるだろうし、数年前の自分であれば「国政に関わるなんて、もう結構! 願い下げです!」と言っていただろうが、自分の隣には心強いパートナーがいる。
学生時代の自分が思っていたよりも、苦しむことなく過ごすことができるはずだ。
なにより、彼と一緒なら乗り越えていける。
浮気なんてしない、最愛の彼が一緒であれば。
「いつもありがとうございます、私の傍にいてくれて」
アリスローズは幸せを噛みしめるのだった。
これで本当に完結です。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
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