その2 幸せな結婚式
アリスローズは手紙を読む時間が好きだった。
とはいえ、自分のことを裏切った男から届く手紙は気分を害すほど嫌いで、謝罪の文字がないかどうか確認するだけの作業に終わっている。
本当に好きなのは、自分のことを愛してくれる人からの手紙。
アリスローズは、今朝届いたばかりの一通を手に取った。
「あ……この香り」
手紙の封を開いたとき、爽やかな甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
それと同時に便箋の合間に薄い匂い袋が忍ばせてることにも気づく。青いリボンで結ばれた匂い袋を見つめていると、アリスローズは頬が緩むのを感じた。
「好きな香り、覚えていましたのね」
そういえば、いつだったか何気ない会話のなかで「フリージアの香りが好き」と呟いたことがあったのを思い出す。庭先から漂う黄色い花の優しい香りを嗅ぐと、春の訪れを感じる――その瞬間が好き。
その前の手紙では、ウサギのイラストが添えられた便箋だった。もう一通前は押し花の栞が挟まっていた。どちらも好きだと口にしたことがあったものだが、それも一度だけ。何度も繰り返したわけでもないのに、こうしたちょっとしたところを覚えていてくれるのは、心がほんのり暖かくなる。
「……幸せね、私」
手紙をくれるのは、ベンジャミン・エーデルワイス。
いつだったか、チャーリーからの手紙を落とした際、拾ってくれた人である。手紙を読むつもりはなかったらしいが、隙間なくずらりと文字が書かれている便箋を見て、ぎょっとしたらしい。
『随分、貴女のことを熱烈に慕う方がいるのですね』
二度目に会ったとき、彼は躊躇いがちに聞いてきたので、アリスローズは粘着されているのだと答えた。最近は封筒を見るだけで気持ちが落ち込むのだと苦笑いをしながら伝えれば、ベンジャミンは深刻そうに眉根を寄せて言うのだった。
『……手紙は悪いものではないのです』
ベンジャミンは淡々と語った。自分は軍に所属していて、遠方の地で戦働きをすることが多い。そのとき、家族からの手紙を受け取ると、すさんだ心が緩むのだと。
『悪いのは、相手のことを想わない手紙だと思います。もし、よろしければ……』
彼はそこまで言葉にするも、固く口を結んでしまう。硬い表情で少し目線を逸らし、頬がほんのりと赤く染まっている。そんな横顔を見て、なんとなく彼が何を言わんとしているのか、アリスローズは察した。
『手紙のやり取りをしませんか?』
アリスローズから切り出すと、彼はちょっと驚いたように目を上げる。そして、真一文字に結ばれていた口元が匙一杯分ほど緩め、ほんのりと柔らかな頬笑みを浮かべた。
『是非』
これが、交際のきっかけ。
ベンジャミンが王都にいる機会は少なく、国境付近の駐屯地で軍務に励んでいる。手紙のやり取りも月に1度だけ。文章にも『愛している』『好きです』なんて甘い言葉はなく、つらつらと最近あった出来事が書かれていた。ただ、几帳面な文字で書かれた手紙や添えられたものを見ていると、難しそうな顔で悩みながらペンを走らせる姿が想起され、思わずくすりっと微笑んでしまう。
王都でデートするときも、ベンジャミンとの会話は少ない。
なかなか視線があうこともなく、ほとんどアリスローズが話していた。でも、彼は必ずちゃんとした返事をしてくれるし、道を歩くときはさりげなく庇ってくれる。一緒にいるときは耳元が真っ赤に染まっていることも知っているし、アリスローズが何気なく話したことをずっと覚えてくれている。
だから、彼から結婚の申し出があったとき、二つ返事で答えた。
『ですが、ひとつだけ約束してください。私以外の女を作らないと』
跡継ぎを残すことが責務とされる貴族としては、ちょっと失格かもしれない。
それでも、やっぱり、チャーリーのことはトラウマであり、好きな相手に浮気して欲しくないという気持ちは根強く残っていた。
『我が剣に誓いましょう』
彼は迷うことなく受け入れてくれ、今日――結婚式を迎える。
「アリスローズ様、そろそろ時間でございます」
扉の向こうから、係員の声が聞こえてくる。
「ええ、かしこまりました」
アリスローズはこれまで貰った手紙を箱にしまうと、ゆったりと立ち上がった。
部屋を出る前に、もう一度だけ鏡で自分の姿を確認する。
純白のドレスに花で飾られた白いベール、自分の瞳と同じ青い宝石が輝くネックレスが首元を飾っている。鏡の映る自分は、どこから見ても幸せな花嫁の姿だった。
「……やっと、ここまで来たのね」
アリスローズは幸せを噛みしめる。
チャーリーと婚約破棄をした直後は、花嫁衣裳なんて二度と着る機会がないだろうと諦めきっていた。そんな自分がこうして花嫁衣裳に身を包んでいるのは、なんだか夢のなかにいるような気分になって来る。
「……っ、お客様!? おやめください!!」
夢見心地でいると、どうも廊下が騒がしいことに気づく。
いったい、何が起きたのだろう? アリスローズが恐る恐るドアノブに手をかけようとするも、その直後に勢いよく扉が開いた。
「アリスローズ!!」
「ッ、チャーリー様!?」
アリスローズは絶句した。
そこにいたのは、白いタキシード姿の青年だった。見事なまでの金髪をオールバックにびっしり決め、美術品のように整った顔は自信に満ちあふれている。
「迎えに来たぞ、アリスローズ! さあ、一緒に帰ろう!」
「な……!?」
突然の元婚約者の登場に、アリスローズは驚きのあまり言葉が返せない。
「意味が分かりません。どうか、お引き取りを!」
それでも、なんとか言葉を絞り出す。じりじりと後ろに下がり、チャーリーから距離を取ろうとするも、彼はまったく気にしない足で迫ってきた。
「大丈夫、怖がらなくていいんだよ」
「早く出て行ってください! あなたのことを招待した覚えはありません!」
「そんなに怒らないでくれよ。大丈夫、すべてが順調だから――おい、お前ら入って来い!」
チャーリーは後ろに合図をすると、タキシードに身を包んだ男たちがのそのそと入って来る。結婚式の参加者かと思ったが、彼らは一様に剣を携えていた。何人かの剣先には、赤い血しぶきで濡れている。剣先から血が伝い、ぽたりぽたりと白い絨毯の上に赤いシミが垂れていく――その様子を目にし、アリスローズはぎょっとして固まってしまった。
「チャーリー様、この方たちは一体……!?」
「こいつらは俺の私兵だ。おい、こいつを抱えろ。丁重にな、俺の花嫁なんだから!」
「はっ!」
一人の男がアリスローズの手をつかみ、ひょいっと抱え上げようとしてくる。
「やめてください! 離して!!」
すぐに手足をばたつかせ、逃げようとするも、大の男の腕力にはかなわない。せめて、叫んで人を呼ぼうとするも、その前に口を布で塞がれてしまう。
「――ッ!!」
「侵入には手間取ったが、目的は果たせたな。よし、このまま帰るぞ!」
チャーリーはにまにまと笑い、アリスローズを連れて廊下に出た。廊下には、会場の係員や警備のスタッフと思わしき人々が倒れており、アリスローズの全身から血の気が失せる。
まさか、みんなやられてしまったのではないか?
ベンジャミンはどうなったのだろう?
自分は、このまま連れていかれてしまうのではないだろうか?
嫌な想像ばかりが膨らみはじめ、身体の震えが堪らない。
アリスローズが震えているというのに、チャーリーは陽気に自分語りを続ける。
「アリスローズは俺のことを思って、フェリシアとの結婚を邪魔しようとしてくれてたんだよな。まったく、舞踏会で君があることないこと言うものだから、他の女の子たちにまで避けられるようになったんだよ。まあ、半分はフェリシアのせいなのかもしれないけどさ」
「――ぅ!!」
「でも、やっと分かったんだ。あんなことをしたのは、君の愛だったんだな。大丈夫、今度こそ君を正妃に――フェリシアが離婚しなくても、側妃として愛してやるから。そうしたら、全部元通りになるんだ」
いやだ、あの国に戻りたくない!
なにも分かってない最低男と結婚なんてしたくない!
しかし、口を塞がれてしまっているので、アリスローズの口からは言葉にならない呻きが零れるばかりだ。チャーリーはアリスローズの訴えなど聞かず、私兵たちはチャーリーに従順で、廊下には倒れる人ばかりで他に人の気配はない。
もう、どうにもならないかもしれない。
なんとか堪えていたはずの涙も頬を伝い、ほろほろと零れ落ちていく。
「さあ、もうすぐ外だよ! 外に馬車をつけてるんだ! それで帰ろう!」
チャーリーの明るい声に絶望し、裏口の扉が開き渡る。
瞬間、チャーリーを先導していた私兵の一人の悲鳴が轟いた。
「なんだ、どうした!?」
アリスローズが顔を上げると、ちょうど私兵の一人が宙を舞うところだった。
「貴様……なにをしてる」
低い声が耳に届き、絶望の淵にいた心に光が灯る。
アリスローズが顔を上げると、軍服に身を包んだ青年が立ちふさがっていた。青年の顔には汗ひとつ浮かんでおらず、ただただ激しい怒りだけが全身から漂っている。
「俺の花嫁を返してもらおうか」
ベンジャミン・エーデルワイスの瞳がぎらりと光る。
彼の魔王を思わす双眸は、怯え切った元婚約者を険しく睨みつけるのだった。