最終話 おてがみ
「アリスローズ様、お出かけの準備が整いましたよ」
アリスローズがリビングで微睡んでいると、侍女の声が降ってきた。
「もうそんな時間でした?」
膝の上の読みかけの本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。爽やかな初夏の風が窓から吹き抜け、髪がさらりと流れ、スカートの裾が花のように膨れる。
「すぐに出発しましょう」
アリスローズはスカートを軽く押さえながら、侍女のあとについて歩き始めた。
婚約破棄から、そろそろ1年。
アリスローズは隣国「エーデルワイス王国」の屋敷で暮らしている。
ブルーベル侯爵家は離反し、新たに「ブルーベル侯国」を建国した。
建国のきっかけがブルーベル侯爵が「我が愛娘をないがしろにするだけに飽き足らず、不当な理由で婚約破棄しようとするとは、笑止千万! 金輪際、王家とはかかわりを持つものか!」と怒り狂ったというなんともくだらない理由である。
幸いにも、ブルーベル侯爵領には鉱山があった。広大な所領は海沿いに位置し、交易で潤沢な資金を蓄えることができたことや、ブルーベル侯爵自身が大臣として外交に深く携わっていたことも、国を樹立することができた大きな要因のひとつだろう。
アリスローズは仮面舞踏会のあと、翌日には荷物をまとめてエーデルワイス王国に向かった。
ブルーベル侯爵領に留まることもできたが、父の命を受け、「エーデルワイス王国の人質になれ」とのこと。とはいえ、人質とは名ばかりで、実際には「浮気で傷ついた心を癒せ」という休養の意味が近い。エーデルワイス王国はジャックを通じて今回の婚約破棄を発端とした建国騒動を十分知っており、ブルーベル侯爵家に同情的だった。
『エーデルワイス王国はブルーベル侯国を全面的に支援する』
エーデルワイス王国が宣言してくれたこともあり、ブルーベル侯国はそこそこの国から認められることになったわけである。
「アリス嬢、ごきげんいかがですか?」
王都の喫茶店には、ジャックがすでに待っていた。
彼女はあの騒動のあと、留学を切り上げる代わりに、外交官の一人としてブルーベル侯国と母国を行き来する生活を送っている。彼女と会うのは実に1カ月ぶりなので、アリスローズは自然と頬が緩んだ。
「おかげさまで、とてもよくしていただいているわ。ジャックはいかが?」
「健康に問題はありません」
彼女はそう言うと、アリスローズに束になった封筒を差し出した。
「ルイーゼ嬢たちからです。みなさん、お会いしたがっていますよ」
「ありがとう。私も皆さんに会いたいわ……贅沢な願いですけど」
「彼女たちもブルーベル侯国傘下の貴族ですから。またすぐに会えます」
ジャックの言葉に、アリスローズは「そうだといいわね」と頷いた。手紙を束ねていたリボンを解き、名前にさっと目を通していく。そのなかには、金髪ロールの令嬢やスノードロップたち6人の名もあった。最初は敵のようにしか思えなかったが、こうして蓋を開けてみれば、手紙をやり取りする友人になっているのは不思議なものである。
アリスローズがくすりと笑っていると、ジャックが申し訳なさそうに咳払いをした。
「実はもう一通、無理やり渡された手紙がありまして」
ジャックが胸元のポケットから、躊躇いがちに一通の手紙を取り出した。
「……あら」
アリスローズは封蠟の紋に目を落とした瞬間、自分の眼が険しくなるのが分かった。
「あの男……いまさら謝罪のつもりかしら?」
「それは……おそらく、読んでいただければわかるかと」
ジャックは物凄く言いにくそうな表情で告げる。
「不快でしたら、私が処分しておきますが」
「いえ、無理やり押しつけてきたのでしょう? 目だけは通させていただきます」
アリスローズは友人たちからの手紙を大事にテーブルに置くと、元婚約者からの手紙を受け取る。手紙は見た目より厚く、ずっしりとした量に不愉快な気持ちが込み上げてきた。
「あの男、結局はフェリシアさんと結婚してましたわね。たしか、先月が結婚式だったと耳にしていますわ」
「はい。我が国にも招待状が届きましたが、欠席させていただきました」
「風の噂だと、参列客も国もごくわずかだと聞きましたけど……結婚の自慢話かしら」
アリスローズは封を切ると、便箋一面に想像以上にびっしりと事細かに書かれた文字にげんなりした。目を通すのが痛くなる文字の量にもかかわらず、便箋が5枚もある。一体、いまさら何を伝えたいのだろうか。アリスローズは小さくため息をつくと、ざっと目を通し――
「……なにこれ、気持ち悪い」
最初の数行の時点で、げんなりとした。
それでも、嫌な気持ちを抑えてなんとか全部読み切る。その頃には、淹れてもらったお茶はすっかり冷め、ジャックと再会して嬉しかったはずの気持ちが何日も前のように思えるほどだった。
「『君は俺の元に戻りたいのだろう?』なんて、どの口が言えるのかしら」
思わず、くしゃっと便箋の端を握りつぶしてしまう。
「『フェリシアは妃にふさわしくない』『金がない』『戻って来い』ということを書くために、5枚も便箋を使うとは……もったいないことこの上ないわ」
チャーリー曰く、フェリシアはとんでもない悪女だったようだ。
フェリシアは正妃として何かにつけてドレスや宝石を新調したり、かなりの頻度で遊びに出かけているようだ。チャーリーは最初は彼女に言われるがまま貢いでいたが、1カ月も経たないうちに金銭に余裕がなくなったらしい。原因は「慰謝料の請求」。王家とは独立した機関である司法裁判所が正式に『これは王家に責があり』と認め、すみやかに慰謝料の支払いを命じたのだ。
これにより、チャーリーが自由に使える金銭はなくなった。よって、「少し贅沢を控えて欲しい」と言うも、フェリシアは納得してくれなかったという。
『私のことが好きなんでしょ? なのに、なんで? うちに正妃にふさわしい衣装を用意するお金はないのよ。チャーリーの方がお金持ちなんだから払ってよ』
フェリシアは当然のように言い切った。
そのときは、チャーリーも納得したらしい。アカシア男爵家は無理やり貴族にしたので、まともな領地もなく、金銭に余裕がないのだ。
しかし、これが悪手だった。
フェリシアだけでなく、アカシア男爵家の面々はことあるごとに金銭を要求してくるようになったのである。それに加え、ブルーベル侯爵家の離反によって、大臣の席が大量に空き、代わりにアカシア男爵家の面々が台頭したのだ。彼らは政治に疎く、突然降ってきた権力に溺れているらしい。
3年前まで庶民で国政など夢のまた夢だった者たちだと考えると、さもありなんといった展開なのだが、チャーリーは信じられないと愕然としたそうだ。
「『あいつら、俺が王位に就いても政治をさせないつもりなんだ。子どもが生まれたら、さっさと譲位しろって言ってきてるんだぞ! 信じられるか? こんなことになるなら、お前の家の方がマシだった!』……いまさら気づいたんですね」
アリスローズは失笑する。
「『フェリシアが“あたしさ、もともと玉の輿に憧れてたのよ。でも、無理だってあきらめて酒場で働いてたらさ、みるからにお金持ちそうな人が来たんだもん。これはチャンスだ! って張り切ったら、王子だったから最高だと思ってたのに……なによ、ドレス一着作るのにもとやかく言うわけ?”って怒るんだ。アリスローズだったら、俺の金でドレスを作りたいだなんて言わなかったのに』って……それはそうですよ」
ブルーベル侯爵家には、ドレスを作るだけの財があった。
というよりも、はなから玉の輿目当てだった彼女の本質を見抜けなかった男が悪い。
他にも「フェリシアと離婚したいけど、他に結婚してくれる令嬢がいない」とか「側妃候補だったみんなに手紙を送っても、ろくな返事が戻ってこない。むしろ、慰謝料を請求してくる! あんなに愛し合っていたのに酷い!」という嘆きも書かれていたが、それもそうだろうとしか思えなかった。
そうなることが分かって、フェリシアの手を取ったのではないのだろうか。
チャーリーの見通しの甘さには、ほとほと呆れかえってしまう。
「『君の謙虚さを日に日に実感する。君は俺のために、わざと悪役として振る舞っていたんだね。毎日、アリスローズの優しさを思い出し、涙で袖を濡らす日々だ。君がいるであろう方角に目を向け、今も愛しの横顔を幻視してるよ』……はぁ。本当に頭が痛くなってきましたわ」
こんな調子のポエムが、長々と続いている。
アリスローズは吐き気がしてきた。
「それでいて、最後は『すぐにでも戻っておいで。君が俺にした仕打ちと慰謝料を請求したことを謝れば、フェリシアと離婚し、君を正妃に戻してあげるから』ですって」
「酷い話ですね。実に女々しい」
「どこまでいっても、自分が悪いことをしたとは思っていないんですね」
わざわざ時間を割いて、これほどまでに長い手紙を読み終えたが、最後まで謝罪の文字はなかった。つまりは、彼の本質は何も変わっていないということなのだ。
「返事はどういたします? 無視でもよろしいですが」
「いえ、しっかり書かせていただきますわ――『フェリシアさんと末永くお幸せに』と」
その一言で十分だし、それ以上に話したくもない。
浮気する婚約者なんて、こちらから願い下げだ。さっさとこんな手紙は仕舞ってしまおうと無駄に多い便箋を整えようとしたが、1枚するりと零れ落ちてしまう。
「あ……っ!」
あんな手紙、誰にも見られたくない。そう思い、急いで手を伸ばすと、ちょうど手紙を拾ってくれた青年の武骨な指と自分の細い指が触れ合った。アリスローズは反射的に手を離すと、青年は手紙を拾い上げてくれる。
「失礼、便箋が落ちるのが見えたもので」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
アリスローズが顔を上げれば、そこには実直そうな青年が立っていた。軍服を着こみ、ぴんっと背筋が伸びている。穏やかな目元からは誠実な雰囲気が漂ってきていた。
「兄様、ごきげんよう」
「ジャックのお兄様?」
アリスローズが驚くと、ジャックも少し驚いたように眉を上げていた。
「はい、四番目の兄です。ですが、どうして?」
「妹の忘れ物を届けに来た次第です。……ほら、ジャック。リビングに忘れていたぞ」
「ありがとう、兄様」
ジャックが恥ずかしそうに忘れ物を受け取ると、彼は続けてアリスローズに便箋を手渡してきた。それだけ言うと、彼は軽く頭を下げ、その場から立ち去った。だが、一瞬、アリスローズに何か言いたいことでもあるのか振り返る。
「なにか?」
「いえ、なんでもありません」
彼は躊躇うように会釈だけしてこちらに背を向ける。
アリスローズはその背が人ごみに消えていくのを見ながら、ジャックに疑いの目を向けた。
「……ジャック、わざと引き合わせようとしましたね」
「兄様は気の良い方ですから。定まった婚約者もいませんし、今度もう一度席をもうけるので会ってみてはいかがでしょう?」
「変な気を回さなくてもよいのに」
アリスローズはやれやれと肩を落とした。
「ですが、浮気をしない方でしたら考えてもよいかと」
「いくらなんでも、7人同時はありえませんわ」
アリスローズとジャックは同時に微笑みあった。
いまの人と交際することになるのか、他の人との出会いがあるのか、それとも、1人の自由を謳歌することになるのか。それはまだ未来のこと。アリスローズには分からない。
ただ、これだけは言える。
正妃にならなくて良かった。
あんな最低浮気男と婚約破棄をしてよかったと。
完結になります。
気が向いたら、後日談を投稿するかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!