1話 ないしょ話にはお気をつけて
あとがきにお知らせがあります。
「ふんっ! なにが『俺はアリスローズとの婚約を破棄する』ですか!」
アリスローズは自室に帰るや否や、大声で鬱憤をぶちまけた。
部屋に入る直前まで、すんっと澄ましていた淑女はどこへやら。口元を隠していた扇子を荒々しく閉じると、細い柄が折れそうになるほど強く握りしめる。
「ええ、私に対する愛がないのは知っていましたよ。気づいていましたわ! ですが、本当に婚約破棄をしようとするとは何を考えて……ああ、思い出すだけで腹が立ちますわ!」
アリスローズは昼間見た光景を思い出し、ますますはらわたが煮えくり返る想いがした。
事の発端は、今日の昼過ぎ。
いつものように友人との昼食を終え、午後の授業に出ようとしたところ、食堂にハンカチを忘れてきてしまったことに気づき、いそいで教室を出たことから始まる。幸いにして、ハンカチはすぐに見つかったのだが、問題はそのあとだ。アリスローズは近道をしようとし、知る人ぞ知る隠し扉を通ろうとドアノブに手をかけたとき、聞き覚えのある声に気づいてしまったのであった。
『……っ、ん。フェリシア、好きだ』
『っ、チャーリー様ぁ、あたしもです』
扉の向こうから聞こえてくるのは、男女の睦言と思わしき甘々しい言葉――授業開始間際であることに加え、こんな人が通るかもしれない場所で逢瀬をしている時点で頭が茹で上がっているとしか思えない。おまけに、頭お花畑の男女のうち、片方は間違いなく自身の婚約者であることが、アリスローズのいらだちを加速させた。
アリスローズの婚約者、チャーリー王子は顔よしスタイルよし成績よし運動神経よしと、スペックだけ見れば好物件なのだが、性格だけはいただけない。明るくて社交的といえば聞こえはいいが、女遊びが激しく、彼の周りには常に女の影があった。今回もそのような浮気相手の1人と逢瀬を楽しんでいるのだろう。
『チャーリー様の浮気者……私という婚約者がありながら……!!』
アリスローズは怒りを抱きながら扉を開けようとするも、その直後にフェリシアと呼ばれた少女から発せられた言葉で石のように固まってしまう。
『チャーリー様ったら……ふふっ。アリスローズに見つかったら、怒られちゃう』
『いいんだ、あんな女。あの女――アリスローズとの婚約は近々破棄するからな』
チャーリー王子の口から発せられた言葉に、アリスローズの手が止まる。
『婚約破棄、ですって?』
アリスローズの身体に衝撃が走った。
政略結婚で結ばれた関係でしかなく、チャーリーに愛されていないことは知っていた。
だから、チャーリーの女遊びにも多少は目をつむってきた。今回のように現場を目撃してしまったり、目にあまるものだったりしたときのみ、アリスローズは彼を指摘し、いまの遊びは未来の王としていかがなものかと咎めるようにしてきた。その都度、チャーリーは『彼女たちとは遊びなんだ。婚約者はアリス……君だけだよ』と答えてくれた。
たとえ、それが言い訳に過ぎないのだと理解していても、アリスローズはそれでよかったのだ。
だいたい、婚約の破棄など簡単にできるはずがない。
ましてや、王家の婚姻は事情が複雑に絡み合っている。簡単に破棄できるものではないのは、アリスローズも承知しており、チャーリーも分かっているはずだと思っていた。
それだけに、チャーリーの口からはっきりと「婚約破棄」の言葉が飛び出したのは、アリスローズの心に空白が生まれるほどの衝撃を与えた。
『えっ! 本当に婚約破棄をしてくれるの!?』
『フェリシア。君と出会って、真実の愛を知った。アリスローズとは政治的なつながりで婚約を決められたが、いま破棄する手はずを整えている。そうしたら、君と婚約しよう。本当に愛している君が正妃になれば、よりよい国を作っていけると感じるんだ!』
『ああ、チャーリー様っ!』
ここから先のことは、あまり覚えていない。
ただ無性に気分が悪くなり、別の道をとって教室に戻った。そのとき、あまりにも顔色が悪かったのだろう。先生や友人たちが心配してくれ、気がつけば早退をしていた。
「……きっと、妄言ですわ」
アリスローズは一人で怒りに震えながらも、自分をなだめるように口にする。
「誰に対しても、同じことを囁いているのです。本気で婚約破棄なんてありえません」
ありえない、ありえないと繰り返す。
それでも、アリスローズは分かっていた。チャーリーとは5歳で婚約してから、12年間も付き合っている。愛されたことはなかったが、言葉に込められた本気度合いくらいは分かる。自分はもちろん、今までの愛人たちに紡いでいた甘い言葉とは比べ物にならないほど想いの込められた言葉が、フェリシアとの会話の端々から伝わってきたのだ。
チャーリーは本気で婚約破棄を望んでいる。
本気でフェリシアなる少女と婚約しようと画策しているのだ。
「フェリシア……フェリシア……たしか、アカシア男爵家の令嬢ですね。まったく、よりにもよってあの人ですか……」
チャーリーを取り巻く女性陣は、すでに把握していた。なかでもかなり親密だと思われる付き合いの令嬢は7人――フェリシア・アカシアはそのうちの1人である。チャーリーが勝手に余計な場所で種をまいて、余計な世継ぎ問題が起きたら困るから――という理由で頭に入れていたが、まさかこんなに早く役に立つことになるとは想像もしなかった。
「最低……最悪だこと」
アリスローズはベッドに倒れ込む。
こんなことになるなら、7人全員を早々に叩けばよかった。そうしたら、チャーリーが婚約破棄など言いださなかったに違いない。そう考えるも、世継ぎを残すのも王族の立派な仕事のうちだ。正妃として寛大な対応を求められるように周りがいさめてくることは、なんとなく想像がつく。
では、どうすればよかったのだろう?
「あの、アリスお嬢様……?」
そのとき、扉を控えめにノックする音が聞こえてきた。
「アリスお嬢様。ルイーゼ・オリーブ様とジャック・エーデルワイス様がお見舞いにうかがいたいそうなのですが、いかがなさいましょう?」
「お見舞い……?」
そういえば、気分がすぐれないと早退したのだった。
友人たちに申し訳なく思う気持ちが沸きあがって来る。だが、いまは誰にも会いたくない。すぐに断ろうと顔をあげたとき、冷たいものが頬を垂れるのを感じた。
「……涙……どうして……どうして……」
指先で頬を伝う涙をなぞり、ぽつりと小さく呟く。
自分に落ち度はないのに、どうして涙を流さないといけないのだろう。こんな惨めな気持ちを味わっている間にも、チャーリーたちは幸せ全開で過ごしているというのに……。そう考えると、アリスローズの悲しみで冷え切っていた心に一筋の灯がともった。
「ええ、問題ありませんわ。私もルイーゼさんたちに会いたいと思っていたところですの」
チャーリーが婚約破棄するつもりなら、上等ではないか。相手がどのような策をとってくるつもりなのか分からないが、そんな婚約者、こちらから願い下げである。
アリスローズはハンカチで涙を拭くと、ゆっくりと立ち上がるのだった。