空から女の子が降ってきた
昔から、空を眺めるのが好きだった。
大きな青を見ていたら、いつか嘘しかないこの世界から飛び立ち、真実しかない世界に行ける気がして。
そして今日も、そんな浅ましい現実逃避に身を任せている。
……ただ、今日はいつもみたいに上手くいかないみたいだが。
「……あれ、絶対何か落ちてきてるよな」
綺麗な青に、黒ひとつ。
良くも悪くもない目を目一杯細めて、なんとかそれが人型であることが分かった。
いや、人型!? どうすれば? 助ける? 受け止める? いや、僕も一緒に潰れるだけでは?
ああもう、来る!
「うっひゃぁ…………怪我はない? 大丈夫?」
「…………いや、大丈夫? じゃなくて!」
「お、大丈夫みたいだね。私は空野七海。君は?」
「川岸陸兎だけど、ってそんなことはどうでも良くて」
「あはは! じゃあ陸兎君だ! あ、怪我に関しては私も全然大丈夫だよ! 安心して!」
まだ消えない土埃の中、お尻についた草をパンパンと払いながら、朗らかに笑うセーラー服の少女──空野。信じられないことだが、傷ひとつ見当たらない。僕の体も痛みとかは特にない。
どうやら、本当に大丈夫そうだ……いや、それでもやっぱりあの高さから落ちておいて、何もなかったってのは物理的に考えておかしいだろ。
そんな僕の気を知らない空野は、眩しそうに空を見上げて「結構な高さだったっぽいなぁ……」なんて言っている。
いや、もっと他に言うべきことがいっぱいあるだろ!? どうして何も不思議に思っていない感じなんだよ。
ああもう、僕が聞かないとダメな感じか。どれから聞くべきか。それとも聞かないでおくべきか?
しかし、そんなことを考えている間に先に質問されてしまう。
「それで、ここは何処?」
「……柳原高原だけど」
「へー、ここ、柳原高原っていうんだ。気持ち良い場所だね! えーと、そうだ! 今日って何日?」
「5月24日火曜日。一応西暦は、2022年」
「私の知ってる日にちと一緒だね! まあ、当たり前か。それじゃ次は……」
ダメだ、全く聞く隙を与えてくれない。
気になったこと片っ端から母親に質問する少女のように、空野は止まらない。
これでは、ただの一方通行だ。僕も聞かないといけないことが沢山あるのに。
多少強引にでも聞くしかないな。
「いくつか、こっちから質問していいか?」
「あ、ごめん。どうぞどうぞ! 私ばっかり聞いてるのも悪いしね。なんでも聞いて!」
「まず、どうして空から降ってきたんだ?」
「あー……それはね、私にも分かんない!」
「はぁっ?」
「いやぁ、不思議だよね。あんなに高いところから落ちて、何故か無傷だし」
「不思議だよね、じゃ、なくて……」
「まあでも良くない? 無事だし、貴重な体験ができたし。他にやりたいことがもっとあるし」
「貴重な体験ではあっても、良くはないだろ……」
あははと笑顔を崩さない空野を尻目に、僕はため息をついた。
何事においても、原因究明は大切だ。
それに今回の件は、再発したら死ぬかもしれないといったレベルのことだ。
原因を突き止め再発しないよう解決方法を模索したい、というのは人間として当然の考えだろう。
だから、このことについて深く知ろうとするのは間違っていないはず。
まあ、それに当てはまらない人が目の前にいるわけなんだけど……。
ただ、分からないと言うならこれ以上聞いても仕方ない。質問を変えよう。
無論、別に良いやと投げ出すことはしない。後できっちり、考えて調べようとは思う。
「とりあえず、分からないなら置いておこう。じゃあ次、君は何処の人なんだ?」
「それも分かんないんだよね。ごめんね、分からないことだらけで。お恥ずかしい限りです」
「……真面目に答えてるか? まあ、別に僕に話したくない、もしくは話せないなら無理に答えろなんて言えないんだけど」
「いやいやいやいや、真面目ですよ! 答えれることは本当にちゃんとしっかり完全に! 答えようとは、思ってるんだけど……」
空野は悲しげに顔を伏せた。さっきまでの笑顔が嘘みたいに。
その視線の先にあるのは風で揺れる雑草だけだ。
「うーんとね、質問されてから気付いたんだけど、軽く記憶喪失みたいな感じになってるっぽい? なんかこう、昔のことがあんまり思い出せないんだよねぇ」
「それは、どのくらい忘れてるんだ?」
「どうだろ、昨日の晩御飯も思い出せないけど、それは単に私の記憶力が悪いだけかも」
「逆に忘れていないことは?」
「自分の名前は大丈夫。簡単な名詞も、全然大丈夫。空とか、太陽とか! でも固有名詞になると、ちょっと怪しいかな」
「親とか、友達とか……」消え入りそうな声で続く。
チラッと、下を向いたまま横を確認する。予想はハズレ。
空野は前を向いて笑っていた。
「ま、きっと大丈夫だよ」
「大丈夫って……こんなところに記憶もなしに制服のままひとりで。何が大丈夫だよ。ちょっと待ってて、記憶のことは調べるから」
「私も調べてみよっかな。便利な世の中だもんね。あ、でもそもそも私スマホ持ってるのかな」
そうして、空野はポケットをゴソゴソと漁り出す。
そうしてしばらく、見つかったのか、嬉しそう顔をしてスマホを取り出した。
僕はそれを見てふっと、息を抜くように笑ってしまう。
「ここ、圏外だよ。これは電子書籍」
「えっ、嘘!? うわぁ本当だ! アンテナ立ってない!」
圏外って本当に存在したんだー! とわちゃわちゃしながらスマホをいじる空野。
パシャリ、と圏外であることをスクショしている。
そんなに珍しいものか……?
「じゃあ……ってごめん、今度は僕ばっかりが質問してるな。空野から何か、聞きたいこととかある?」
「今すぐ聞きたいのはふたつ。でも、本当に良いの? 聞きたいこと、もうない?」
「まあ、あるっちゃあるけど……会話って双方向じゃないとダメだろ」
「そっか。じゃあ、どうしてこんな何もないところで空なんて眺めてたの?」
「ああ、それは……」
僕は空野の顔から視線を外し、草原の緑をじっと一周眺めた後、頭の上にある澄み切った青に目を向けた。
やっぱりここにはまだ、何もない。
「何もないから、眺めてたんだ」
「素敵だね」
ふっと、空野息を抜くようには笑った。
「じゃあもうひとつ、そんな素敵な考えを持っている陸兎くんに質問」
「お、おう
「どうして、空を見ること以外は"やりたい"じゃなくて、"やらないとダメだから"で行動を決めちゃうの?」
「え?」
「雁字搦めの常識のためにこんなに面白い陸兎くん自身の認識を整えて、思ったことに蓋をして、何になるの? 君は何がしたいの?」
空野の瞳は、攻めるように真っ直ぐ僕を射抜いていた。
大きくて確かな意志を感じる瞳だ。僕が目を逸らすことしかできないくらいに。
久しく、そんな顔をする人間を見ていなかった。
でも見覚えはある。それはいつだったか。
多分、もっと小さい頃の僕はそんな顔をできていた気がする。
鼓動が加速するのを感じた。
「何がしたいの? って……したいどうのじゃなくて、しないといけないだろ」
「だから、どうして? 君の中にはきっともっと素敵な衝動があるのに、どうして隠してしまうの?」
「だって、常識っていうものは安全で、70億人が使っているもので、正しくて、そうしないとダメだから……」
そこから先、言葉が急に出てこなくなった。
いつも、あんなに色んなことを思っているのに。
少し前、空野は空から降ってきたことを他にやりたいことがあるからどうでも良いと言った。その時僕は、なんてふわふわしたやつなんだろうと思って呆れた。
違う。
常識なんて言葉に縋って本当に大切なものから逃げて、自分の意思を持たずにふわふわしていたのは僕の方だ。
「なんだかそんな世界、つまらないよ。陸兎くんは大人だ」
「……そうかもな」
本当はすぐに言い返したかった。
でも……それは出来ない。
僕も、本当はこんな世界なんてつまらないと思うから。
信じられるものが何もなくて、全てを疑って、疑ったことすら疑って、その先に何もないのに。
みんな見たくない現実から目を逸らすために、自分すら騙して。笑顔の裏の我慢を認めてやれなくて、自分は本当に笑っているんだと信じ込んで。
でも、きっと僕も、そういう奴らの一員で。だから空なんて眺めて救いを待っていた。
このつまらない世界はきっと、つまらない僕の瞳から見ているから、つまらなく見えるだけなんだろう。
それがもう……たまらなく苦しい。
そのくらい僕にも分かるんだ。分かっているんだ。
僕は強く草を蹴った。千切れた草が、風に運ばれ宙を舞う。
釣られて、下ばかり向いていた僕の視線も上がる。
そこには空野の顔があった。
この世界を見て笑っていた。裏のない本当の笑顔だ。
「なあ、これからどうするんだ?」
「えーと……普通に考えるなら、まず色んなこと思い出さなきゃだし、家に帰らなきゃいけないよね……」
「でも、今すぐにやろうとはしないんだろ?」
「うん。ゆっくりやっていこうと思う。とりあえず、ここら辺を探検がてら旅でもしてみる。こんなことでもないと、多分知らなかった場所だから」
「じゃあ、僕も一緒に行動する」
「えっ、いやいや、そんな悪いよ! 何も分からない私が企画する旅だし、最終目標もあやふやだし、平日だし……」
「そうは言っても、実際空野はどうしようもないだろ。あと、今夜泊まる場所なんかのアテは?」
「ない……けど。でもきっと何とかなるよ」
「まあ、君なら何とかなるだろうな」
「え、それはそれでどういう信頼……? 私、野生児だと思われてる?」
「まさか」
頭に? を浮かべたまま、空野はこちらを見ている。
……心配、してくれているんだろう。また僕が義務感で行動してるんじゃないかと。
なら、この状況を打破する方法は簡単だ。
まだ僕は恥ずかしいと思ってしまうけど、ちゃんと口に出して言えばいい。
「……それにこれは、僕の"やりたいこと"だ」
「そっか! じゃあ、お願いしようかな」
「任せろ……と言いたいところだけど、もうちょっと空を見てからでもいいか?」
「いいね、私も見たい!」
そうして、嘘みたいに綺麗な空を2人で見上げた。
今日は快晴。雲はひとつもない、代わり映えのしない青色。
もしかすると、青色の色紙を眺めてもあんまり変わらないんじゃないかと思うほどに。
でも、やっぱりそれが良い。
「……ありがとう」
「? 何が?」
「いや、空見る時間くれたこと」
「ああその件! 私も見たかったし。元々私の我儘に付き合ってくれてるんだから、文句なんてないよ!」
「僕の我儘でもあるぞ。勝手に1人のものにするな」
「お、言うねぇ!」
2人して笑った。
たぶん、今までで1番幸せな笑顔だった。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
もしかしたら空野はまたどこかに飛ばされて、それに僕も巻き込まれて、空から降るなんてことになるかもしれない。危険なことかもしれない。
目的もない、いつ終わるかも分からない。全く普通じゃなくて、常識に逆らっていて、分からないことだらけだ。
それでも──
「でもさ、どうして急に着いてきたいなんて思ったの?」
「ただの気まぐれ」
「えー! 教えてよ、気になる!」
この世界を面白いと感じる人間の景色を、見たくなったのだ。